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4. 単子音・重子音の有標性の例外とその音声学的基盤

4.2. 借用語における s, ʃ の非対称性(有標性の例外)とその音声学的基盤

4.2.3. 日本語側原因説の検証

4.2.3.4. 残された問題

以上、借用語のs, shに見られる非対称性を知覚的観点から分析した。このs, shの非対称性の問題は、

単に日本語の借用語だけではなく、言語の普遍性や心理学における言語音と非言語音の知覚、また、

音節構造といった借用語以外のテーマとも関係する問題であることを以下で指摘する。これらの問題 は非常に大きなテーマであり、本研究における以下の議論だけで結論を出せるほど簡単なものではな いが、これらの分野を今後音韻論・音声学の研究対象としてさらに発展させることが可能であること を「残された問題」として示したい。

sshの知覚:日本語固有か、普遍的か?

残された問題の1点目は、日本語話者に見られたshに促音を感じやすいという知覚上の特徴は日本 語固有のものであるかどうかという問題である。本研究の実験において、日本語話者はsよりもshに より促音を感じやすい(sh の方が持続時間が短くても重子音だと判断される)という結果が得られた が、この結果は日本語話者に特有のものなのか、他の言語の話者にも見られるものなのかを検討して みることには価値があると考える。この問題に関するヒントは、人間の聴覚特性にある。

人間の聴覚は2 kHzから5 kHzの間の音に敏感である(Johnson 1997/2003: 50)。Johnson (1997/2003) によると、shの摩擦周波数のピークはおよそ3.5 kHz付近にあるのに対し、sの主要なピークは8 kHz

114 大江(1967)は,複数形や派生形ではそうでないときと比べて/s/に対して促音を感じやすくなると述べて いる(例:bus – buses, pass – passer, dress – dresser)。これらの例では複数形や派生形になることで本来語末に あった/s/が母音間に置かれているので,やはり母音間という音韻環境が重要なのではないかと本研究では推 測する。

付近にある115。つまり、sh はs に比べて人間の聴覚系が反応しやすい帯域にエネルギーが集中してい ることから、音響的には同じ強さであったとしても、知覚的なラウドネスが大きい可能性がある。こ れが正しければ、日本語に限らず、一般的にshはsよりも知覚的に際立ちが高い存在であると言える ことになる。

音のラウドネスと知覚される持続時間(perceived duration)の間には相関関係があり、物理的な持続 時間が同じであれば、ラウドネスが大きな音はラウドネスが小さな音よりも長いと判断される(Lifshitz 1933, 1936, Fidell et al. 1970)116。よって、仮にshの方がsよりもラウドネスが大きいとすると、物理 的な持続時間が同じであっても、shはsよりも長いと感じられる可能性がある(図 7を参照)。この仮 説が正しければ、s, shの借用語の促音挿入の非対称性は、英語のs, shの物理的な持続時間には差がな くても、英語話者が発音したshはsよりも長いと感じられるため、shに促音が挿入されやすかったと 説明されることになる。そして、借用語の促音挿入の非対称性を生じさせる要因の一つである「日本 語話者の知覚」は人間の聴覚特性という心理音響学(psychoacoustics: Diehl and Walsh 1989, Diehl et al.

1991, Kato et al. 1998, Kluender et al. 1988, Parker et al. 1986 Pisoni 1977 Pisoni et al. 1983, Stephens and Holt 2003)的な基盤から生じたものであると説明される。人間の持つ聴覚特性は言語によらず普遍的なも のであるから、本当にそのような人間の聴覚特性が存在するとすれば、日本語以外の言語においても

s, shの非対称性が観察されることが予測され、うまくいけば、sが重子音化するのであればshも重子

音化するという含意法則へと発展させられる可能性がある117

115 sのピークは4 kHz付近にも見られるが、それは2次的なものである(Johnson 2003)。英語以外の 言語でも、一般にsのピークはshよりも高い位置にあることが報告されている(Gordon et al. 2002)。

116 知覚される持続時間(perceived duration)と関係するのは音のラウドネスではなく、検知しやすさ

(detactability)であるという指摘がある(Creelman 1962, Steiner 1968; cf. Henry 1948)。Creelman (1962)

やSteiner (1968)は、知覚される持続時間と音のラウドネスの関係は音が検知しにくい(ラウドネスが

小さい)ときに主に観察されるものであって、充分に聞き取れる音量で刺激が提示された場合には知 覚される持続時間と音のラウドネスの関係が消失することから、知覚される持続時間と関係するのは 音のラウドネスではなくて検知しやすさであると指摘した。しかし、s, shの知覚に関する議論におい ては、知覚される持続時間と関係するのが音のラウドネスではなくて検知しやすさであったとしても 問題は生じない。これは、摩擦音の緩やかな開始/終了(gradual onset/offset)を持つ音であるため、

その開始点および終了点の部分は常にエネルギーが小さく検知しにくい状態になると想定できるから である。検知しにくい部分が存在する限りラウドネスの影響は存在するから、sとshのラウドネスが 異なっているのであれば知覚される持続時間は異なることが予測される。

117 sよりもshのラウドネスが大きく、長く聞こえるという仮説の傍証は、Jongman (1989)による摩擦 の調音点同定に関する実験からも得られる。Jongman (1989)は摩擦音を知覚するのに必要な最小持続時 間を調べる実験を行った。実験の被験者はBrown Universityの学生14名(分析に用いられたのは12名 分のデータ)とだけ記述されており、被験者の母語は明らかにされていないが、おそらく日本語話者 は含まれていないものと思われる。刺激はアメリカ英語話者が発音したCV型(Cは英語の摩擦音、V

はa, i, u)の発音から作成されたもので、刺激の構造はCV全体、Cのみ、Cの一部(Cの開始点から

始まって10 ms刻みで70 msから20 msまで)であった(以下では、このうちCの一部を提示したと

きの実験結果についてのみ議論する)。被験者のタスクは刺激を聞いてその子音が何であるかを実験者 が設定した選択肢の中から選ぶというものであった。Jongmanの報告によれば、sがshと同じ程度正 しく判断されるためにはより長い持続時間が必要であった(shは30 msで70%の正答率に達したのに

対し、sが70%の正答率に達するためには50 msの持続時間が必要だった)。

Jongmanの実験は摩擦音が同定されるのに必要な持続時間を調べるものであって、単子音・重子音

とは直接的に関係するものではないため、これが促音の問題と直接関係するとは言い切れない面があ る。また、Jongmanが行った実験の結果は摩擦の開始点から起算して70 ms~20 ms(10 ms刻み)分の 摩擦のみを提示した場合に得られた結果であり、また、回答の選択肢には偏りがあったことからも、

実験結果が必ずしもsとshの知覚しやすさを表したものとは言えない可能性は否定できない。しかし、

そのような問題点があったとしても、Jongman (1989)の実験結果は、shがsと同じ程度に同定されるた

図示した仮説を検証するために、以下では日本語母語話者および日本語学習者を対象とした知覚実 験を行い、sh に促音を感じやすいという日本語話者が示した知覚の傾向が人間の聴覚特性を反映した ものであるのか、および、それが普遍的なものであるといえるかどうかを非言語音を用いた弁別実験 により検討した。

図 7. 心理音響学的観点に基づく仮説

音節構造の問題か、母音の問題か?

残された問題の2点目は、pabaS(L)系列とpabaS(L)-to系列でのみshに促音を感じやすいという結果 が得られたのはなぜかという問いである。本研究の実験結果では、pabaSa系列と pabaS(L)系列(また

はpabaS(L)-to系列)の場合で摩擦周波数特性が促音判断に及ぼす影響が異なっていた。この2グルー

プの音声的な違いは、pabaSa 系列では摩擦音が母音間に位置しているのに対し、pabaS(L)系列または

pabaS(L)-to 系列では摩擦音が語(音節)末に位置している点であり、これによって音節構造が違って

いる。よって、こうした音節構造の違いによって異なる実験結果が得られた可能性が考えられる118。 一方、日本語話者は音声的に母音がないところに幻の母音を感じることが指摘されていることから

(Dupoux et al. 1999, Dupoux et al. 2001)、pabaS(L)系列またはpabaS(L)-to系列の刺激は被験者にとって は摩擦音の後に母音があるように聞こえているはずである。つまり、聞き手が聞いた(であろう)音 という観点からは、2グループの違いは音節構造ではなく、後続母音の種類の違い(a vs. u/i119)であ り、これが異なる結果を生んだと考えることも可能である。

仮に刺激の音声の音節構造の問題であり、母音の種類が関係ないのだとすると、例えば[pabasu],

[pabaʃu]のように摩擦音に後続する母音が無声化していない音声を刺激とする pabaSu 系列なるものを

めに必要な持続時間は短くてもよいという点で、持続時間が同じであればshの方がsよりも重子音に なりやすいという本稿の実験結果と通じるところがある。つまり、音響的に同じ持続時間を持つsと shは、聞き手にとっての心理的な重みが異なると推測される。

118 厳密には位置と音節構造が異なっていることから、「位置または音節構造」とすべきであるが、以 下では「音節構造」としておく。

119 摩擦がshである場合には、iが挿入される場合がありうる(例:sash → 「サッシ」~「サッシュ」)