2. 閉鎖音の調音点の有標性とその音声学的基盤
2.7. 総合的考察とまとめ
本論文の目的は、「音声学に基づく音韻論」のアプローチに基づいて有標性および有標性の例外の音 声学的基盤を明らかにすることにより、音韻理論の妥当性を示すことであった。本章では調音点の有 標性の音声学的基盤を明らかにするため、有標性と密接に関係する現象である閉鎖音の子音連続の調 音点同化現象において非対称性が生じる理由を音声学的に検討する知覚実験を行った。以下では、ま ず本章で実施した知覚実験の結果を総括し、調音点の有標性の音声学的基盤、特に知覚的要因を考察 する。また、調音点の有標性に対する知覚的要因による説明の有効性と限界についても指摘する。最 後に、閉鎖音の調音点同化に関する本研究の実験とその他の領域・分野との関連について言及する。
2.7.1. 知覚実験結果の総括
本章では、先行研究(Kochetov and So 2007)の知覚実験の問題点を修正したうえで知覚実験を行い、
それを通して Jun (2004)が提案した知覚のスケールの検証を行った。その結果、完全にではないが、
かなりの部分でJun (2004)のスケールを支持する結果が得られ、Junのスケールに知覚的観点から見て 妥当性があることが明らかとなった。本稿の実験の主な結果は以下のとおりであった。
閉鎖音の子音連続においてC1にreleaseが存在するときにはkが最も知覚しやすいという結果が得 られた。この点でKochetov and So (2007)の実験結果が追認され、Jun (2004)のスケール(= (10b))にお ける軟口蓋閉鎖音が最も知覚しやすいという想定が妥当であることが示された。また、本稿の実験に より得られた新たな知見として、閉鎖音の子音連続において軟口蓋音が最も知覚しやすいという傾向
は C1に releaseが無い子音連続の場合にも当てはまることが実験的に示されたことを挙げることがで
きる。JunのスケールはもともとC1がunreleasedである場合を想定して作成されたものであるが、先 行研究の実験においてはC1にreleaseが無い子音連続の場合にはkの正答率が最も低く、kが最も知覚 しやすいとするJunのスケールの妥当性に疑問が投げかけられていた。本研究の実験においてrelease が無い子音連続の場合にも k の正答率が最も高いという結果が得られたことから、Jun のスケールに
一定の妥当性が示されたと言える。Junの(10b)のスケールはk以外にもpとtに関する知覚しやすさ の度合いの違いについて触れているが、本稿の実験ではpとkの知覚しやすさに関してJunのスケー ルを積極的に支持する結果はほとんど得られていない。また、結果には被験者の母語による差も尐な からず観察されていたことから、Jun のスケールを検証する作業は今後も必要ではあるが、以上に述 べた本稿の実験結果はJunのスケールの検証に一定の貢献を果たしたと言える。
その他、本稿の実験によって新たに得られた知見は以下のとおりであった。本稿の実験により、子 音連続において C2の調音点によって C1の知覚しやすさに違いが生じることが明らかとなった。Jun
(2004)の(10c)のスケールにおいては C2が歯茎音であればそうでないときよりも C1が知覚しやすいと
されているが、先行研究(Kochetov and So 2007)の実験ではC2の調音点の違いによってC1閉鎖音の 知覚しやすさが変化することはなかったと報告されている。それに対して本稿の実験では、releaseの 有無に係わらず、子音連続の知覚においてC1の知覚しやすさにC2の調音点が影響していた。Junのス ケールを支持する方向性の影響が見られたのはreleaseがない子音連続が刺激で、かつ被験者が日本語 話者である場合のみであったけれども、本稿の実験はJunの(10c)のスケールについても一定の妥当性 を与えることに成功したと言える。
Jun のスケールが説明対象としているのは C1が unreleased である閉鎖音の子音連続であるが、Jun が説明対象としていない条件(C1にreleaseがある場合や、releaseがなくても子音連続ではない(後ろ に子音が続かない)条件)では先行母音の種類によって調音点の知覚しやすさのスケールが変化する ことがあったのに対し、Junが説明対象としている条件(C1にreleaseのない子音連続)においては先 行母音の種類による結果に違いがなかったことを明らかにしたという点も、本稿の実験による貢献の 一つである。Jun がこのことを予知した上でスケールに先行母音の種類という要因を加えなかったの か、全く考慮していなかった結果加えられなかったのかは定かでないが、尐なくともJunが説明対象 としている子音連続に関しては、先行母音の種類は考慮する必要がないことが実験により示された。
このことは調音点同化のより簡潔な記述につながることであり、音韻理論の観点から見て望ましいも のであろう。
2.7.2. 調音点の有標性の音声学的基盤
以上で議論したように、本稿の実験結果はかなりの点で Jun (2004)のスケールを支持するものであ り、閉鎖音の子音連続における調音点同化の非対称性が知覚的な基盤に根ざしていることが示唆され る。これと同時に、調音点同化の非対称性は音韻論の有標性分析による予測および説明が可能である 現象であることから、本研究の実験結果は有標性階層が生じる理由は知覚的観点から説明が可能であ ることも同時に示唆するものである。例えば、本稿の実験結果は軟口蓋音が最も知覚的に目立ってい ることを示すものであり、軟口蓋音が最も有標である(基底において指定されている=より特徴を持 っている)ために同化されにくく、また同化を引き起こすことができるという音韻論の有標性分析に 沿うものであった55。これは、軟口蓋音の有標性は音声の知覚という基盤によって生じている可能性
55 ある音の知覚しやすさと有標性の関係については、2通りの解釈が混在している。一つは、知覚し やすい音ほど無標であるという解釈で、例えばsとθの比較においてsの方が一般に無標なのはsが相 対的に強い摩擦雑音を有するためであるといった説明がなされる(例:Kirchner 2001)。別の解釈は、
知覚しにくい音ほど無標であるという解釈で、知覚しにくいことが「特徴がなく目立たない」という 解釈へとつながり、同化や挿入などの音韻プロセスにおける無標なふるまいとなると説明される(例:
Kochetov and So 2007)。本章の実験結果と有標性の解釈において用いられたのは後者の論理であるが、
一方で本研究で扱う別の有標性(5章:閉鎖音と摩擦音の有標性)に関しては後者の解釈ではうまく説
を示すものである。有標性階層は普遍的である(幅広い現象間に渡って観察される)と想定されるも のであるから、今後は閉鎖音の子音連続の調音点同化以外の現象においても軟口蓋音が知覚的に際立 っているかどうかを示すことで、調音点の有標性の音声学的基盤をより明らかにすることができるで あろう。もちろん、本稿の実験結果は細かく見るとJunのスケールと一致しない点もあり、さらに検 討すべき課題も多く残されている。以下に挙げるような観点に基づき、調音点同化現象の音声学的基 盤を考える取り組みを今後も続けていく必要がある。まず、母語によって調音点の知覚に違いが存在 するのかどうかは今後更なる調査が必要である。また、同じp, t, kと言っても母語によって様々な音 響的な違いが存在し、それが知覚しやすさに影響している可能性もある。最終的な結論を出すために は、これらの点が解決されなければならない。これらの問題点が今後の研究課題である。
2.7.3. 音声学的要因による説明の有効性と限界について
最後に、調音点同化の非対称性に対する音声学的要因、とりわけ知覚的要因に基づく説明の有効性 と限界について議論する。すでに述べたとおり、Jun (2004)の知覚のスケールの存在からも明らかなよ うに、調音点同化の非対称性は音声学的基盤、とりわけ知覚的な基盤を持つことが想定されてきた。
本研究の知覚実験ではおおむね Jun (2004)の知覚のスケールを支持する結果が得られており、よって 知覚的要因による説明はある程度の有効性を持つと言える。一方、本研究の実験結果では Jun (2004) のスケールと一致しない部分もあったことから、調音点同化の非対称性の現象すべてを知覚的要因に よって説明できるわけではない。おそらく、調音点同化の非対称性には知覚的要因に加えてそれ以外 にも別の要因が関与していると考えるのが妥当である。
知覚的要因とそれ以外の要因との関係についても、ここで議論しておく。閉鎖音の調音点の有標性 と関係がある可能性があるのは産出的要因と視覚的要因であることはすでに述べたとおりである。本 研究で言うところの産出的要因とは、舌の部位によって柔軟性が異なっており、歯茎音の調音がなさ れる舌の前部は軟口蓋音の調音がなされる舌の後部よりも柔軟性が高い組織の割合が多いため(Miller
et al. 2002)、歯茎音の方が軟口蓋音よりも産出が容易であるというものであった。Junの知覚のスケー
ルの根拠の一つは、歯茎音の調音速度が軟口蓋音の調音速度よりも早いために他の要素から容易に影 響されやすく、また、他に対して影響を及ぼしにくいというものであり、この調音速度は舌の柔軟性 の議論とうまく符号するものであるから、実はこの要因はすでにJunのスケールに組み込まれている ものと見なすことができる。つまり、Jun のスケールの妥当性が(完全にではないにせよ)証明され たということは、知覚的な要因だけでなく産出的要因も関与していることが含意される。つまり、調 音点同化の非対称性は音産出を介した知覚しやすさを音声学的基盤としていることになり、どちらか 片方だけが関与していると言えるものではない。
一方、視覚的要因は、visibility が高い両唇音はそれ以外の調音点の音よりも無標になりやすいこと を予測するものであった。Jun のスケールは視覚的要因を取り入れたものではなく、また、先行研究
(Kochetov and So 2007)や本研究の知覚実験では音のみを聞かせているため、視覚的要因については 具体的に議論することはできない。この点については、音と調音している映像を組み合わせた刺激を 用いて子音連続の知覚を調べる実験をすることで、視覚的要因が調音点同化の現象に直接的に関与し ているかどうかを確かめることができる。こうした可能性を検証することは今後の課題となる。しか 明がつかず、前者の解釈をとる必要が生じる。このように全く逆方向の解釈が混在しており、また、
実際に必要となってしまうことは有標性の説明において大きな問題である。この問題については後ほ ど改めて議論する。