4. 単子音・重子音の有標性の例外とその音声学的基盤
4.4. 借用語における x (h), f (ɸ)の非対称性(有標性の例外)とその音声学基盤
4.4.2. 非対称性(有標性の例外)に対する音声学的説明
4.4.2.3. 知覚実験(実験 4-8)
実験4-7では、日本語の「サッハ」および「サッフ」から作成した「サハ」から「サッハ」に至る音 声連続体および「サフ」から「サッフ」に至る音声連続体を刺激として実験を行った結果、摩擦の音 色は促音判断に影響していないという結果が得られた。この結果は、借用語における促音挿入の非対 称性が日本語話者の知覚によって生じたのではないことを示唆するものである。しかし、実験4-7の刺 激は促音が生じる子音の後に後続母音を含む音声であるのに対し、借用語において促音挿入が生じる 子音の後には(原語の発音において)母音が含まれない(例:Bach - [bax] (*[baxa]))。s, shに関する知 覚実験においても、摩擦に直接隣接する後続母音が存在する環境(pabaSa 系列)とそうでない環境
(pabaS(L), pabaS(L)-to系列)において異なった実験結果が得られているため、後続母音を含まないよ うな音声を刺激として用いた場合には、摩擦の音色と促音判断の関係について、実験4-7とは異なる結 果が得られる可能性がありうる。実験4-8では、後続母音を含まない音声を刺激として実験を行い、摩 擦の音色([h]と[ɸ])によって日本語話者の促音判断率に違いが見られるかどうかを確認する。
実験4-8:方法
2つの頭高型の無意味語「sahha (サ┓ッハ)」「saɸɸu (サ┓ッフ)」を刺激作成用に用いた。まず,実験 4-7と同じ1名の日本語母語話者(女性。産出実験におけるJ2)に2つの無意味語を「これは~といい ます。」というキャリア文に入れてそれぞれ 10 回ずつ発音してもらい,それを録音した。読み上げは 発話者にとっての普通の速度で読むように依頼し,録音にはソニー製リニア PCM レコーダー
(PCM-D1)を用いた。次に、各語について得られた10発話の中から1つの発話を選び出した。発話 の選択は,2つのターゲット語のF0曲線や全体および個々の音素の持続時間が最も近くなるように行 った149。選んだ 2 つの発話について,まず語の最大音圧が等しくなるように調整した後(結果的に 2 語は/h/に先行する母音(sahha, saɸɸu)の部分で共通の最大音圧を持つこととなった),摩擦部分(h/ɸ)
を除去し,キャリア文の部分(「これは」「といいます」),摩擦に先行する部分(sa(hha)), sa(ɸɸu)),
摩擦に後続する部分((sahh)a, (saɸɸ)u)にそれぞれ分割し,摩擦に後続する部分を除く部分を後の刺激 作成のために個別に保存した(この実験では後続母音がない音声を刺激とするため、摩擦に後続する 部分は使わない)。なお、摩擦に先行する部分は音声表記ではともに[sa]であるが、それぞれ[h], [ɸ]への VC遷移を持つ異なった音声である。
次に、実験4-8で用いた[ha]および[ɸ]について、持続時間を90msから210msまで15ms刻みで9段 階の持続時間を有するように設定し、摩擦音の連続体を作成した(実験4-8と同じ手法により持続時間 を変化させた)150。作成した18個の摩擦音(摩擦の音色2種類(h vs. ɸ)× 摩擦持続時間9段階=18 種類)を、sahha, saɸɸuの[hh], [ɸɸ]がもともとあった位置に埋め込むことで、計36個(VC遷移(2)×摩 擦(18) = 36)の刺激の音声を作成した。作成された音声は「これは~といいます」というキャリア文に
149 選ばれた無意味語の持続時間は以下の通りであった。
語全体 先行母音 (saHV) 摩擦(h, ɸ) 後続母音 (saHV)
sahha 407 ms. 110 ms. 145 ms. 62 ms.
saɸɸu 405 ms. 118 ms. 172 ms. 21 ms.
150 実験4-7に比べて摩擦持続時間を長めに取っているのは、母音が無声化したときにそれを補償する 形で先行子音の持続時間が延長することを考慮に入れたためである。予備実験の結果、実験4-7と同じ 摩擦持続時間では(特に下限の値に近い場合に)摩擦持続時間が短すぎて不自然に聞こえるというフ ィードバックが得られたので、自然であるとの判断が安定して得られる値を下限とした。
埋め込まれた状態で提示された。キャリア文を構成する「これは」と「といいます」は刺激作成用と して選択した 2 つの発話のうち、「これはサッハといいます」から得たものを一貫して用いた。なお、
キャリア文後半(「といいます」)の「と」のt閉鎖持続時間は60msとした。
実験は練習と本番の 2 部構成となっており,練習では最も典型的な非促音および促音(合成摩擦音 の連続体における最端の音)を含む刺激が,続く本番では全ての刺激が,ともにランダムな順序で提 示された。結果の分析は本番の回答のみを対象とした。刺激はヘッドフォン(ソニー製MDH-NC50)
を通して提示された。刺激が提示されてから次の刺激が提示されるまでの間隔は4秒とした。
被験者は11名の日本語話者である。被験者のタスクは刺激が何であったかを「サハ」「サッハ」「サ フ」「サッフ」の 4 択151から選び,対応するパソコンの画面をマウスでクリックすることで回答した。
刺激のランダマイズ,提示,回答の集計はコンピュータ制御で行われた。各刺激の提示回数は 8 回と し、1人の被験者につき合計で288の回答を得た。実験の所要時間は25分程度であった。
予測
実験4-7で摩擦の音色の影響が観察されなかった理由が刺激の音声的特徴(CVCV型であったこと)
にあるのだとすれば、Tews (2008)と同じ型であるCVC型の音声を刺激とする実験4-8では摩擦の音色 の影響が観察されるはずである。一方、実験4-8においても摩擦の音色の影響が観察されないのだとす れば、日本語の[h]と[ɸ]にはそもそも促音判断境界に違いがないということになる。
結果
摩擦持続時間の変化に伴う促音判断率(各カテゴリにおける,「促音だと判断された刺激の総数152」
÷「全刺激数」)の推移を摩擦周波数特性ごとに示す。図 33 は促音判断率を摩擦の音色が[ha]のときと
[ɸ]のときに分けてプロットしたものである。各条件における促音判断境界値(50%地点)は表 77 の
通りであり、摩擦が[ha]であるときと[ɸ]であるときの促音判断境界値は平均でそれぞれ 139.7ms,
142.8msであった(判断境界値はProbit分析により求めた)。摩擦が[ha]であるときと[ɸ]であるときの促
音判断率に違いが見られるかどうか、また、VC 遷移が[saɸɸu]から採られた[sa]であるときと[sahha]か ら採られた[sa]であるときとで促音判断率に違いが見られるかどうかを、摩擦の音色(名義変数:[ha] vs.
151 語末が[ɸ]である刺激は日本語の母音が無声化した「フ」の音とほぼ同じであるため、知覚には問題 がないと思われた。実際に、予備実験を行った結果、[ɸ]で終わる刺激は問題なく「サフ」または「サ ッフ」のどちらかに聞こえるとのフィードバックが得られた。一方、日本語においては「ハ」の母音[a]
が無声化することは稀であるため、語末が[ha]で終わる音声は日本語には存在しないタイプの音声であ る。よって知覚的に「サハ」「サッハ」のどちらかに聞こえるかどうかは予測が困難であった。予備実 験を行った結果、語末が[ha]で終わる音声は[ha]の持続時間が短い場合には「サハ」と「サフ」の中間 的な音に、[ha]の持続時間が長い場合には「サッハ」と聞こえるというフィードバックが得られた。よ って、「サハ」「サッハ」「サフ」「サッフ」の4択で実験を行っても問題はないと判断した(尐なくと も、これ以外の音に聞こえることはなかったため)。
152 「サッハ」,「サッフ」と回答された刺激数。
これは
摩擦 (18) ha(90~210ms)
ɸ (90~210ms) VC遷移 (2)
sa (hha)
sa (ɸɸu) × です
[ɸ])、VC遷移(名義変数:[saɸɸu]から採られた[sa] vs. [sahha]から採られた[sa])および摩擦持続時間
(連続変数)の 3 つを独立変数とする階層的ロジスティック回帰分析により分析した。この分析にお いては、s, shに関する実験と同様、第1レベルで被験者内のばらつきをコントロールし、第2レベル で摩擦持続時間、摩擦の音色、VC遷移を独立変数として組み込んで分析した。尤度比に基づくステッ プワイズ法によって最適なモデルを求めた結果、まず、摩擦持続時間、VC遷移、摩擦の音色の主効果 がモデル構築に選択された。これらの主効果はいずれも有意であり(摩擦持続時間:B = 0.093, Wald 統計量 (W2) = 754.6, df = 1, p < 0.001;VC遷移:B = 1.027, W2 = 60.9, df = 1, p < 0.001;摩擦の音色:B =
-0.255, W2 = 4.0, df = 1, p < 0.05)、それぞれ、摩擦持続時間が長いほど促音だと判断されやすいこと(摩 擦持続時間の主効果)、VC 遷移が[saɸɸu]から採られた[sa]であるときの方が[sahha]から採られた[sa]で あるときよりも促音だと判断されやすいこと(VC遷移の主効果)、摩擦の音色が[ha]であるときの方が [ɸ]であるときよりも促音だと判断されやすいこと(摩擦の音色の主効果)がわかった。
0 0.1 0.2 0.3 0.4 0.5 0.6 0.7 0.8 0.9 1
90 105 120 135 150 165 180 195 210 摩擦持続時間
促音判断率
sa(h)-H sa(h)-F sa(f)-H sa(f)-F
図 33. 各条件における促音判断率
表 77. Probit分析に基づく各条件における促音判断境界値(ms)
VC遷移 摩擦の音色 促音判断境界(ms) sa(hha)
ha 144.0
ɸ 148.3
sa(ɸɸu) ha 133.8
ɸ 136.5
摩擦の音色の影響は観察されたが、その影響はそれほど強くはないものだったうえ、後ほど議論す るように個人差が大きかったため、摩擦の音色の影響の解釈は慎重に行う必要がある。摩擦の音色の 影響は摩擦持続時間が短いときにわずかに見られるが、摩擦持続時間がある程度長くなってくると摩 擦の音色による促音判断率の差は消えてしまう。また、摩擦の音色のような 2 次的な要因は主要な要 因(ここでは摩擦持続時間)の値がカテゴリ境界付近にあるときに最も強く生じるのが一般的である ことを考えると(Mann and Repp 1980, Whalen 1981, 他)、この点でもこの実験で見られた摩擦の音色の 影響は特異な振る舞いを示していると言える。以上のことから、観察された摩擦の音色の影響([ha]の
ときの方が[ɸ]のときよりも促音だと判断されやすい)は観察されたとは言え、その存在を強く主張で きるものではない。
さらに詳しく結果を観察したところ、実験4-8の摩擦の音色の影響は実験4-7とは異なり個人差が非 常に大きいことが分かった。表 78は実験4-7の個人別の[ha]と[ɸ]の判断境界値とその差の検定結果を、
表 79は実験4-8のそれを示したものである。実験4-7においては、予測通りに[ha]の判断境界値が[ɸ]
の判断境界値よりも小さい結果を示したのは11名中5名であった(表中の「予測との方向性の一致」
欄)。また、いずれの話者についても判断境界値の差は有意ではなかった153。つまり、摩擦の音色の影 響は被験者間で一貫した影響は見られず、かつ被験者内でも小さかった。よって、摩擦の音色の影響 は、全体に対する検定が示していたとおり、そもそも存在しないと判断できる。一方、実験4-8では様 相が異なっており、予測通りに[ha]の促音判断境界値が[ɸ]の判断境界値よりも小さい結果を示したのは 11名中7名であり、そのうち3名で促音判断境界値に有意な差が見られた(うち1名は0.1%水準で有 意であった)。逆に、促音判断境界値が予測に反していたのは 11名中4名で、このうち2名は有意な 促音判断境界値の差を示していた。被験者によってどちらの促音判断境界値が小さいかは異なってい たため、データ全体としては摩擦の音色の影響が見られなかったが、半数近くの被験者について、被 験者内で促音判断境界値に有意な差が見られたことから、実験4-7とは異なり、摩擦の音色は2次的な 手がかりとして促音判断に影響を与えている可能性が高い。ただし、被験者ごとにその方向性がばら ついており(予測通りに有意な結果を示した被験者が3名、逆の方向に有意な結果を示した被験者が2 名)、母集団においても本研究と同じ程度のばらつきがあるとすれば、摩擦の音色の影響は借用語の促 音挿入のように体系的に生じる現象の説明としては必ずしもうまく機能しない恐れがある。
日本語話者の産出において、[h]は[ɸ]よりも短い持続時間を持っていた(表 70~表 72)ことからす ると、それと知覚との間に対応関係が見られない実験4-7と実験4-8の結果は予想外の結果である。し かしながら、後ほど議論するように、摩擦の音色そのものではないものの、機能的に摩擦の音色の影 響とほぼ等価な要因が存在しているため、本研究で摩擦の影響が観察されなかったことは重大な問題 とはならないと考えることができる。
実験4-8のポイントは、実験4-7と同様、摩擦の音色によって促音判断境界に差が見られるかどうか を明らかにすることであったが、ここで、実験4-8で観察された摩擦の音色以外の要因の影響について、
言及する。まず、実験4-7と同様、VC遷移が促音判断に影響するという結果が得られた。この実験の 刺激においても、VC遷移を構成する母音(摩擦に先行する母音)の持続時間は[saɸɸu]から採られた[sa]
の方が[sahha]から採られた[sa]よりも若干長かったため、実験4-7で見られたVC遷移の影響に対する 説明と同じ説明が当てはまるであろう。
実験4-8の結果に関して指摘しておくべきことは、知覚された幻の母音の質によって促音判断率に影 響が見られた点である。図 34 は、刺激の語末摩擦音に対して被験者が[a]を感じたとき(回答が「サ ハ」または「サッハ」)と[u]を感じたとき(「サフ」または「サッフ」)とに分けて促音判断率をプロッ トしたものである。図からも明らかなように、被験者が[a]を感じたときの促音判断曲線は、線が100%
に近づくまでの間、[u]と感じたときの促音判断曲線よりも一貫して左側に位置している。つまり、被 験者が[a]と感じたときの促音判断境界値は[u]と感じたときのそれよりも小さく、[a]と感じたときの方 が被験者は刺激が促音を含むものだと判断しやすかったことになる(Probit分析により50%判断境界
153 各話者の結果について、「摩擦持続時間」と「摩擦の音色」の2要因によるロジスティック回帰分 析をかけた有意確率を求めた。