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4. 単子音・重子音の有標性の例外とその音声学的基盤

4.1. はじめに

4.1.1. 単子音・重子音の有標性

重子音は単子音に比べて有標であり(Hayes and Steriade 2004, Kawahara 2006)、有標性の含意法則か ら、重子音の存在は同系列の単子音の存在を含意する。音韻論的観点からは、単子音には 1 つのモー ラのみが割り当てられるのに対し、重子音には 2 つのモーラが付与されて尾子音と頭子音を兼ねると いう構造を有している(Perlmutter 1995)。(17)はPerlmutter (1995)の表記方法に基づいて日本語の「来 た(kita)」と「切った(kiQta)」の構造を表示したものであるが、構造上、重子音は単子音よりもより複 雑であることがわかる。音韻的有標性は構造上の複雑さに深く関係していることから、重子音は単子 音よりも有標であると解釈できる。

(17) a. 来た σ σ b. 切った σ σ

μ μ μ μ μ

k i t a k i t a

多くの言語において、重子音、とりわけ有声閉鎖音の重子音は避けられやすいことが知られており

(Hayes and Steriade 2004)、これも重子音が単子音に比べて有標であることを示す一例であると言える。

一般的に有標性が観察されやすいのは幼児の音韻獲得や音の喪失の分野であるが、日本におけるこ れらの分野の研究においては重子音である促音が調査の対象外とされていることが多いため、残念な がら重子音の有標性について獲得や喪失のデータに基づいて論じることはできない。しかし、例えば 日本語の子音の体系を見たときに、ある子音が単子音としてしか許容されないか(例:ラ行子音)、単 子音としても重子音としても許容されるかのどちらかしかなく、重子音としてしか許容されないとい

う子音は存在しない。つまり、尐なくとも日本語においては、重子音の存在は単子音の存在を含意す ると言えるため、重子音が単子音よりも無標であると考えることができる。さらに、日本語に関して は音素出現頻度の観点からも、重子音が有標であることが示唆される。表 39 は岡田(2008)に挙げ られている「日本語話し言葉コーパス」を使用した現代日本語の音声言語におけるモーラ出現頻度か ら、自立拍と特殊拍の出現頻度を抜き出して示したものである。表 39 から明らかなように、特殊拍 は自立拍よりも圧倒的に出現頻度が低い81

表 39. 日本語話し言葉コーパスにおける自立拍・特殊拍の出現頻度(岡田(2008)より)

コーパスの種類 自立拍 特殊拍 比(自立拍:特殊拍)

学会講演 5454045 1137644 1: 0.209 講義講演 451566 82210 1: 0.182 模擬講演 5844423 1103900 1: 0.189

対話 221428 47186 1: 0.213

合計 11971462 2370940 1: 0.198

表 39の特殊拍の頻度の内訳を示したものが表 40である。表 40の値は岡田(2008)に挙げられて いる「日本語話し言葉コーパス」を使用した現代日本語の音声言語におけるモーラ出現頻度から、特 殊拍の頻度を促音・撥音・長音別に抜き出し、それぞれが特殊拍全体の頻度に占める割合を計算して 求められた。表 40から明らかなように、促音(=重子音)は撥音や長音と比べて出現率が尐ない。

表 40. 日本語話し言葉コーパスにおける促音・撥音・長音の出現率(岡田(2008)をもとに計算)

コーパス の種類

特殊拍

促音 撥音 長音 合計

学会講演 11% (126503) 30% (337816) 59% (673325) 100% (1137644) 講義講演 15% (12631) 30% (24597) 55% (44982) 100% (82210) 模擬講演 19% (204959) 33% (366644) 48% (532297) 100% (1103900)

対話 19% (8813) 32% (15307) 49% (23066) 100% (47186)

合計 15% (352906) 31% (744364) 54% (1273670) 100% (2370940)

重子音である促音が含まれる特殊拍は自立拍よりも生起頻度が圧倒的に低く、その特殊拍の中でも 促音は特に出現率が尐ない。以上のことから、日本語においては重子音の出現頻度が低く、よって有 標であると言えそうである。しかしながら、厳密に言えば重子音の有標性は対応する単子音(つまり、

阻害音)との比較において議論される必要があるものである。ここで問題となるのは、岡田(2008)

のデータには音素や拍の遷移確率の情報が挙げられていないため、単子音の阻害音の頻度を単純な阻 害音の音素頻度の総計として求めることができない(阻害音の音素頻度の総計の中には「促音+単子 音」の頻度も含まれているため)。そこで、この比較をするために表 39の自立拍の頻度を以下のよう

81 特殊拍が自立拍に比べて出現頻度が低いことは、特殊拍は自立拍に付属してしか生起できないとい う制約がある(論理的には「特殊拍の出現頻度」≦「自立拍の出現頻度」となる)ことから、必ずし も驚くべきことではない。

に分割することで阻害音の単子音の頻度を推定した。まず、「頭子音のない拍(V)」および頭子音のあ る拍(CV)に分け、さらにCVのCの位置に阻害音が生じる頻度を調べた82。最後に、求めた阻害音が生 じる頻度から促音の頻度を引くことで単子音の阻害音の頻度の推定値83を求めた。最後に、単子音(阻 害音)の生起頻度推定値と重子音(促音)の生起頻度の比をとって比較した(結果は表 41)。表 41 から明らかなように、単子音(阻害音)の頻度と比較した場合、やはり重子音(促音)は生起頻度が 低いと言える。一般に、頻度が低い音は頻度が高い音に比べて有標であると考えることができるので、

音素出現頻度の観点からも(尐なくとも日本語においては)重子音は単子音よりも無標であると言え る。

表 41. 表 39の自立拍の頻度の内訳(岡田(2008)のデータより計算)

コーパス の種類

自立拍 阻害音と促音の頻度の比較

V

CV 自立拍

合計

阻害音 (単子音)

促音頻度

(再掲)

比(単子音:

促音頻度)

阻害音 共鳴音 CV頻度 合計

学会講演 779600 3064937 1609508 4674445 5454045 2938434 126503 0.04 講義講演 59381 249613 142572 392185 451566 236982 12631 0.05 模擬講演 776066 3219348 1849009 5068357 5844423 3014389 204959 0.07

対話 31571 122409 67448 189857 221428 113596 8813 0.08

合計 1646618 6656307 3668537 10324844 11971462 6303401 352906 0.06

重子音が単子音に比べて有標である音声学的な理由としては、「産出の労力」を挙げる事ができる。

Kirchner (2001)は個々の音の産出に必要な労力を調音運動のモデルによって算出している。表 42 は

Kirchnerによって示された個々の音の産出に必要な労力のデータの中から、単子音・重子音に関する部

分を抜き出したものである(表中の値が大きいほど労力を必要とすることを表す)。それによると、い ずれの音についても単子音よりも重子音は産出するのにより多くの労力を要することがわかる。直観 的に考えても、重子音は一般に単子音よりも子音調音時間が長く、調音動作をより長い間保つ必要が あるために、重子音の産出にはより多くのエネルギーが必要になることが予想される。Kirchnerのモデ ルにより導き出された見解は、こうした直観とも合致するものであり、自然な説明であると言える。

重子音の有標性には知覚的な要因(perceptibility)も関係すると考えられている。日本語は有声阻害 音および重子音(促音)を有する言語であるが、有声阻害音の重子音は一部の外来語を除いて許容し ない(Kawahara 2006)。Kawahara (2006)は日本語の閉鎖音(無声の単子音、有声の単子音、無声の重子 音、有声の重子音)について音響分析を行い、有声阻害音の重子音には音響的な手がかりが尐ないこ とを示唆する事実を報告した:①有声の重子音では閉鎖区間中常に声帯振動を保つことができず、閉

82 子音の頻度の計算に当たっては、拗音は対応する直音の系列に含めた上で頻度を求めた。

83 日本語においては語頭に促音は生じない。また、語末(発話末)には促音が生起しないのが原則で あるが、実際には生じる場合がある(例:「あっ。」)。このような例が多く存在するほど、この推定値 と実際の値とのずれが大きくなる。岡田(2008)のデータにこうした例がどの程度含まれているのか は定かではないが、ここではその総数は大きくないと想定し、推定値を用いることとする(実際には 阻害音の総数が促音頻度よりも圧倒的に高いため、推定値の不確かさの問題はここでの議論にはほと んど影響しないと考えることができる)。

表 42. 音素の算出にかかる労力(Kirchner 2001: 206, rate/register A)

p, t, k 85 pp, tt, kk 90

b, d, g 75 bb, dd, gg 93

s, ʃ, f 91 ss, ʃʃ, ff 105

z, ʒ 90 zz, ʒʒ 106

h 60 hh ―

ɸ, x 70 ɸ̝ɸ̝, x̝x̝ 105

tʃ 96 ttʃ 100

dʒ 95 ddʒ 103

鎖の開放時点で無声である84(単子音では閉鎖区間中の無声化は起こらない。よって、単子音の場合と 比べ、重子音では無声と有声の区別がつきにくい);②単子音・重子音の閉鎖持続時間の差を変化した 割合で比べた場合には有声の方が無声よりも変化の度合いが小さい(無声の場合と比べ、相対的に単 子音と区別がつきにくい);③摩擦音化(spirantization)が起こらない(無声における単子音・重子音の類 似の度合いよりも、有声における単子音・重子音の類似の度合いが近く、よって区別がしにくい)。さ らに、Kawaharaは知覚(同定)実験を行った結果、音響分析から示唆された予測通り有声閉鎖音の重 子音は知覚しにくいという結果が得られたと報告し、日本語の体系において有声阻害音の促音のみが 許容されにくい理由は知覚の困難さにあることを示した。Kawaharaによる実験は提示された刺激が有 声であるか無声であるかを判断させるタスクであるため、単子音と重子音の知覚しやすさを直接比較 したものではないが、ある重子音が好まれにくいという事実に関して知覚的な要因が関与しているこ とを示すものと見なせる。