3. 摩擦音・破擦音の有標性:言語間差異とその音声学的基盤
3.4. 有標性の例外に対する説明:幼児の音声を刺激とする知覚実験(実験 3- 2)
この実験では、日本語を母語とする幼児(2歳6ヶ月児と3歳9ヶ月児)の音声を刺激として用いて 音の同定実験を行い、②の説が予測するように同じ音声を聞いても母語の違いによって音の判断が異 なる(ʃ の獲得が相対的に早い言語の話者は音が ʃ であると判断し、tʃ の獲得が相対的に早い言語の話
者は音がtʃ であると判断しやすい)かどうかを調べる。さらに、実験3- 1とこの実験での被験者の正
答率の相関を調べ、母語を問わず実験3- 1において ʃ 判断率が高かったものは幼児の音声を聞いた場 合でも ʃ 判断率が高いと言えるかどうかを調べる。実験3- 1の音声は破擦音・摩擦音を区別する際の 主要な知覚的手がかりであるとされる子音持続時間(とそれに伴う出わたり部分の振幅上昇時間)
(Kluender and Walsh 1992)のみを操作して作成した音声連続体であるため、様々な余剰的手がかりが存 在する自然発話の知覚においても実験3- 1の結果が自然発話の知覚においても再現されるかどうかを これによって確認する。以上の 2 つの指標により、それによって②の仮説が妥当であるか否かを検証 する。
実験3- 2:概要(刺激・被験者など)
刺激の作成に当たって、まず日本語を母語とする男児(2歳6ヶ月児)と女児(3歳9ヶ月児)に対 して絵を見せてその名前を言ってもらう方式で発音を録音した75。男児(2歳6ヶ月児)には一貫した ものではないものながら明らかな置換が認められたが、その多くはsがtʃ や ʃ へと置換されるという ものであり、ʃ やtʃ 自体を誤って発音することは尐なかった。女児(3歳9ヶ月児)の発音においても 同様の傾向が見られた。筆者(日本語話者)が聞いた限りでは女児は男児よりも誤りが尐なかったの で、比較的誤りの多い男児の発音を中心に刺激を作成することとした。また、筆者にとって誤りと感 じられないような発音であっても、他の言語の話者にとってどのように聞こえるかはわからないため、
置換が起こっていないと思われた発音の一部についてもコントロール用の刺激として用いることとし た。
録音した音声を、元の語が何かわからないようにするために語の一部を切り出して、単音節または2 音節の語を作成した。刺激はできる限り無意味語となるようにしたが、特に単音節語については全て を無意味語にそろえることは不可能であったため、一部に有意味語も含まれている(例:[tʃi] -「地、
血、知、etc.」)。この点については問題となる可能性があるが、実験3- 1の刺激も同様の条件となって いるため実験3- 1の結果との相関を見る限りでは問題ではないと考える。語の総数は ʃ とtʃ を含む語
75 発音を引き出すのに用いた絵は、竹安他(2007)の筋ジストロフィー児の構音検査において用いた 絵のセットのうちの一部分である。語を複数回発音してもらうことを試みたが、幼児に複数回発音し てもらおうとしても嫌がられてしまったため、1つの語について複数回発音が得られたのは最大でも3 回のみであった。これらの複数回発音が得られた語は、個々の発音を独立したものと見なしてそれぞ れから刺激を作成した。また、録音に当たってはボランティア団体「かにっ子ファミリー」の方々に ご協力いただいた。ここに記して感謝申し上げたい。
(ターゲットの音声が正しく発音されたもの、置換された結果生じたもの、曖昧なものを含む)とダ ミーの語を含めて64語とした。発話者別では、2歳6ヶ月児の音声から作成された刺激が48個、3歳 9ヶ月児の音声から作成された刺激が16個であった。
表 37. 実験3- 2で用いられた刺激とその元になった音声 用いた絵(ターゲ
ット語)
2歳6ヶ月児の発音([ ]内)とそこから 作成された刺激(/ /内)
3歳9ヶ月児の発音([ ]内)とそこから作 成された刺激(/ /内)
バス [batsjɯ]: /ba/, /asu/ [bas̪ɯ]: /asu/
かぼちゃ [ka:bo:tʃa]: /botʃa/
しょうぼうしゃ [ʃo:bo:ʃa]: /ʃoo/, /booʃa/ [ʃo:bo:ʃa]: /booʃa/
いちご [itʃigo]: /tʃi/
カニ [ka~ɲitʃaɯ~](カニさん): /ka/, /nisa/
[ko ka~ɲitʃaɯ~]: /nisa/
ちょうちょ [tʃo:tjo]: /tʃo/, /otʃo/
でんしゃ [dei~ʃa]: /eNʃa/ [dei~ʃa]: /eNʃa/
じてんしゃ [desei~ʃa]: /eNʃa/ [ditei~ʃa]: /teNʃa/
キリン [ki:ʃaɯ~](キリンさん): /kiri/, /iNsa/
[ki:ʃaɯ~]: /iNsa/
はさみ [haʃami]: /hasa/
[tʃokiɯ~tʃokiɯ~](チョキンチョキン(切る音)): /tʃo/(一つ目), /kiNtʃo/
[tʃokiɯ~tʃokiɯ~]: /tʃo/
[hasami]: /hasa/
クツ [kɯtʃɯ:]: /ku/, /utsu/
[kɯtʃɯ]: /utsu/
[kɯtʃɯ]: /utsu/
おもちゃ [omutʃa]: /motʃa/
ぼうし [mbo:tʃi]: /ooʃi/ [bo:ʃi]: /oʃi/
サル [oʃaɯ](おさる): /osa/
[osaɯ]: /osa/
[oʃaɯ]: /osa/
ぞう [do:ʃaɯ~](ぞうさん): /zoo/, /osa/
えんぴつ [e~:pittʃɯ:]: /pitsu/ [empitʃɯ]: /pitsu/
[e~:pittʃɯ]: /pitsu/
さかな [ʃakana:]: /sa/
[tʃa:kana]: /sa/
[sakana]: /sa/
せんぷうき [ʃem:ku~:gi]: /se/ [sempu:ki:]: /se/
セミ [tse:mi]: /se/
しんぶん [ʃei~bu~]: /ʃi/ [ʃii~bu~]: /ʃi/
スイカ [sɰi:ka]: /sui/
たいこ [taiko]: /ta/
つき [tʃɯki]: /tsu/ [otʃɨgisama](おつきさま): /otsu/
つくえ [tsɯkɯɾe]: /tsu/
つみき [tʃumeki]: /tsu/ [tʃɨmiki]: /tsu/
うさぎ [osjagi:]: /usa/
[usagi]: /usa/
[ɯsagi]: /usa/
ふうせん [hu:se~:]: /uuse/
ジュース [djuʃu]: /uusu/
ヒツジ ― [çitʃɯdʒi]: /hitsu/
ピカチュー ― [pikatsjɯ:]: /katʃuu/
無意味語 [tʃo yatʃɯ]: /tʃo/, /yatʃu/ ―
被験者は実験3- 1と同様、成人の英語話者、中国語話者、日本語話者、韓国語話者で、人数は ʃ の 獲得が早い言語のグループが8名(英語話者1名、中国語話者7名)、tʃ の獲得が早い言語のグループ が16名(日本語話者14名、韓国語話者2名)の計24名であった。このうち、21名は実験3- 1に参加 したのと同じ被験者であった。
刺激はランダムな順序で提示され、被験者のタスクはそれを聞こえたとおりに自分の母語(中国語 話者についてはピンイン表記、韓国語話者についてはハングル表記)で記述することであった。実験 は2日間に渡って行われ、各刺激は初日、2日目にそれぞれ1回ずつ提示された(すなわち、各刺激は 合計2回ずつ提示された)。24名の被験者のうち6名は時間の都合上実験への参加は1日のみであった。
予測
②の仮説から、同じ音声を聞いても母語の違いによって音の判断が異なり、ʃ の獲得が相対的に早い 言語(英語・中国語)の話者は音が ʃ であると判断し、tʃ の獲得が相対的に早い言語(日本語・韓国 語)の話者は音がtʃ であると判断しやすいと予測される。すなわち、刺激に対する英語・中国語の話 者の ʃ 判断率は日本語・韓国語話者の ʃ 判断率よりも高くなることが予測される(tʃ 判断率に関して はこの逆)。また、子音持続時間(とそれに伴う出わたり部分の振幅上昇時間)のみを操作して作成し た音声連続体を刺激として用いた実験3- 1の結果が自然発話の知覚においても再現されるのであれば
(そして、音韻獲得において言語間差異が生じる要因の一つに成人の知覚が関与しているのであれば)、 被験者の母語を問わず、実験3- 1の ʃ 判断率とこの実験における ʃ 判断率との間に相関が見られるは ずである。2点について分析した結果を報告する。
結果
ʃ 判断率およびtʃ 判断率の比較
刺激のうち、ターゲットの音素がtʃ であるものおよび ʃ であるもの(すなわち、ダミー語を除いた 刺激)について、それが破擦音(または摩擦音)であると判断された率をまとめたのが以下の表であ る76。
日本語を母語とする幼児の発音に関して、ターゲットの音素がtʃ である場合にはそれが摩擦音だと 判断されることはなかった。ターゲットの音素がtʃ である場合にそれが破擦音であると判断される率 は、見かけ上「韓国語 > 中国語 > 日本語 > 英語」となっており、最も高い韓国語話者と最も低い英 語話者の間の判断率の差は10%程度であった。実験3- 1においても言語による差は10%程度であり、
この点では実験3- 1の結果はこの実験においても部分的に再現されたと言える。しかしながら、被験 者の母語における音韻獲得順序(ʃ の獲得が早い vs. tʃ の獲得が早い)によりグループ化したデータ に対するt検定の結果、tʃ 判断率には有意な差が見られなかった(t22 = 0.111, p = 0.913 (n.s.))。よって、
個々で見られた差は信頼性が低く、ターゲットの音素がtʃ である場合には仮説を支持する結果は得ら れなかったと見なすのが妥当であった。ターゲットの音素が ʃ である場合にそれが ʃ だと判断された 率は、②の仮説からは ʃ だと判断する率が高いはずである中国語話者で他の言語の話者に比べて低か った(破擦だと判断された率に関しては逆の関係)が、同様にt検定を行ったところ、判断の率にはや はり有意な差が見られなかった(t7.801 = 1.618, p = 0.145 (n.s.))77。よって、ターゲットの音素が ʃ であ
76 各列の総和が100%にならないのは、摩擦音・破擦音以外の音だと判断される場合があったためで ある。その場合の被験者の回答のほとんどは閉鎖音であったため、表では省略した。
77 Mann-WhitneyのU検定などのノンパラメトリック検定を用いても結果は変わらなかったため、ここ
る場合にも仮説を支持する結果は得られなかった。以上の結果から、幼児の発音を聞いたときにそれ を聞く人の母語によって判断は若干異なりはするけれども、統計的に見て有意な差がなかったことか ら明らかなように、その判断の異なり方は一貫した信頼性の高いものではないと言える。つまり、こ の結果からは、「成人の知覚が音韻獲得において言語間差異が生じる要因の一つである」という仮説を 支持するデータは得られなかった。
表 38. 実験3- 2の結果
ターゲットの音素 回答 English Chinese Japanese Korean
tʃ
tʃ 80.0%
(16/20)
87.5%
(105/120)
85.4%
(222/260)
90.0%
(27/30) ʃ 0%
(0/20)
0%
(0/120)
0%
(0/260)
0%
(0/30)
ʃ
ʃ 90.9%
(20/22)
86.4%
(114/132)
91.6%
(262/286)
90.9%
(30/33)
tʃ 4.5%
(1/22)
12.9%
(17/132)
7.7%
(22/286)
9.1%
(3/33)
実験3- 1の結果との相関
実験3- 1の音声は破擦音・摩擦音を区別する際の手がかりの一つである子音持続時間(とそれに伴
う出わたり部分の振幅上昇時間)(Kluender and Walsh 1992)のみを操作して作成した音声連続体である ため、様々な余剰的手がかりが存在する自然発話の知覚においても実験3- 1の結果が自然発話の知覚 においても再現されるかどうかは明らかではない。よって、実験3- 1における被験者ごとのSH判断 率(後続母音についてはプール)と、この実験におけるターゲットの音が ʃ である刺激に対する各被 験者の ʃ 判断率の相関、およびターゲットの音がtʃ である刺激についての被験者ごとのtʃ 判断率の相 関を分析した。相関分析(Pearsonの積率相関係数による)は実験3- 1およびこの実験に共に参加した 21名のデータに基づいてなされた。母語に関係なく、実験3- 1で ʃ だと判断する率が高かった被験者 はこの実験においても ʃ だと判断する率が高いならば、前者のペアの間の相関については正の相関が、
後者のペア間の相関については負の相関が得られることが予測される。
分析の結果、予測を支持する結果は得られなかった。実験3- 1における被験者ごとのSH判断率と この実験におけるターゲットの音が ʃ である刺激に対する各被験者の ʃ 判断率の相関はr =-0.071 (p =
0.761 (n.s.))であり、実験3- 1における被験者ごとのSH判断率とこの実験におけるターゲットの音がtʃ
である刺激に対する各被験者のtʃ 判断率の相関はr =-0.037 (p = 0.875 (n.s.))で、いずれについても有 意な相関は得られなかった。すなわち、実験3- 1でSH判断率が高かった被験者は幼児の発音を聞い ても ʃ 判断率が高いというような傾向は見られなかったことになる。
考察
②の仮説(成人の知覚における聞き間違い説)からは、音響的に全く同じ刺激(幼児の発音)を聞 いたとしても、被験者の母語によってその音が何であるかの判断が異なることが予測された。実験の 結果、幼児が ʃ およびtʃ をターゲットとして発音した音声に対する ʃ 判断率およびtʃ 判断率は被験者 ではt検定による結果を報告した。