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3. 摩擦音・破擦音の有標性:言語間差異とその音声学的基盤

3.3. 有標性の例外に対する音声学的説明:4 言語(英・中・日・韓)の話者に対する知覚実験

3.3.4. 考察

実験の結果、ある言語における幼児の ʃ とtʃ の獲得順序とその言語の成人の知覚における選好(音 の判断において生じるバイアス)の度合いには相関が見られた。すなわち、ʃ の獲得が相対的に早い言 語の話者は知覚実験において刺激を ʃ だと判断しやすい傾向があり、逆にtʃ の獲得が相対的に早い言 語の話者は刺激をtʃ だと判断しやすい傾向があった。こうした音の知覚における選好と被験者の母語 の関係は、刺激が曖昧なとき(ʃ と tʃ の中間的な音であるとき)に最も顕著に観察された。刺激が曖 昧なときに音の知覚における母語の影響が最も強く見られることはMassaro and Cohen (1983)をはじめ とする音の知覚に関する先行研究においても報告されており、この点に関して本研究の実験結果は先 行研究と同様の傾向を示すものであった。

日本語話者以外の被験者はほぼ全員が高い日本語能力を有するにも係わらず母語による違いが得ら れたことから、母語が音の知覚に与える影響は非常に頑健なものであると考えられる。音の知覚にお ける母語の影響が外国語学習によって消えることがないことはDupoux et al. (1999)においても報告さ れており、この点に関しても本研究の実験結果は先行研究と同様の傾向を示していたといえる。

ある言語における幼児の ʃ とtʃ の獲得順序とその言語の成人の知覚における選考の度合いには相関 が見られたことから、先行研究において観察されている ʃ とtʃ の獲得における言語間差異が生じる理 由として、以下の2通りの説明の可能性があることが示唆された。一つは「乳幼児の持つ知覚の選好」

によるという可能性であり、もう一つは、「成人の知覚的な選好により引き起こされた記述のバイアス」

によるという可能性である(なお、この2つの仮説は相互排他的なものである必要はないと考える)。

3.3.4.1. ①「乳幼児の持つ知覚の選好」説

成人の言語能力は乳幼児期に形成されたものであるから、実験で成人に見られた知覚の選好と同一 とまではいかないにしても、それに近似する傾向を乳幼児は有していると考えられる。乳児は生後 1 年以内に母語の音声・音韻体系による制約を受け始めることが指摘されていることからしても(Polka et

al. 2007)、音韻獲得研究の対象となる3歳前後の幼児はもう充分に母語の特徴(すなわち、成人に近い

知覚の傾向)を獲得しているであろうと考えられる。すなわち、成人の知覚において音を ʃ だと判断 しやすい英語や中国語の幼児は成人と同様に音の知覚の際に ʃ だと判断しやすい傾向を有し、逆に成 人の知覚において音をtʃ だと判断しやすい日本語や韓国語の幼児では音の知覚の際にtʃ だと判断しや すい傾向を有するのではないかと推測できる。このような知覚の選好により、ʃ に選好を持つ言語の幼 児では産出において ʃ の獲得が促進され、逆にtʃ に選好を持つ言語の幼児では産出においてtʃ の獲得 が促進されるのではないかと推測できる。

ここで、こうした個別言語における知覚の選好がいったい何によってもたらされたのかという問題 が生じる。本研究では、こうした知覚の選好を生じさせるのが個別言語の音素頻度であり、個別言語 の音素頻度と知覚の選好の相互作用によって先行研究で観察されるような音韻獲得順序の言語間差異 が生じたのではないかと推測する。

発達心理学の分野における研究において、乳児は生後 1 年に満たないうちから入力にある統計的情 報を抽出し、それによって音韻対立や語の獲得を行っていることが指摘されており(Saffran et al. 1996,

Maye et al. 2002, Mirman et al. 2008)、また、実際に母語に多く出現する構造に対して乳児が選好を持つ

ことも知られている(Jusczyk et al. 1993)。これらのことを踏まえると、知覚の選好は個別言語の音素 頻度という一種の統計的情報を基盤にして得られたと推測するのは決して不自然なことではないと考 える。

表 36は表 32を再掲したものである。すでに、中西他(1970)やTakeyasu and Akita (2009)のコーパ スにおけるtʃ の相対的頻度は英語のそれよりも若干高めである。それに対して、岡田(2008)のコー パスにおけるtʃ の相対的頻度は英語と差がないか、むしろ低めである。発達心理学における先行研究

(Saffran et al. 1996, Maye et al. 2002, Mirman et al. 2008など)が示唆しているように、乳幼児は入力に 含まれる統計的情報、つまり乳幼児が実際に耳にする音に含まれる統計的情報に敏感であるから、乳 幼児にとってより重要な指標となるのは実際の養育場面の発話を収集した中西他(1970)や対乳児発 話における音素頻度を調べたTsurutani (2007)、または幼児語と関係が深いとされるオノマトペ69の音素 頻度を調べたTakeyasu and Akita (2009)における ʃ とtʃ の比であり、岡田(2008)の学会講演などの発 話における ʃ と tʃ の比は「幼児にとっての入力」を反映してはいない可能性がある70。よって、以下 では岡田(2008)のデータは議論の対象から外すこととする。

表 36. 英語と日本語における ʃ とtʃ の出現頻度の比(再掲)

言語 出典 データの概要 ʃ: tʃ の比

英語

Denes (1963)

英語学習者向けの会話のテキストに出現する音

素頻度(トークン数) 1: 0.53

Crystal and House (1988a) 2 つの読み物に出現する音素頻度(トークン数) 1: 1.14

CHILDES Parental Corpus (MacWhinney 2000, Li and

Shirai 2000)

幼児の周辺で交わされる会話に出現する音素頻

度(トークン数) 1: 0.50

日本語

中西他(1970) 日常の養育場面における幼児の周辺で交わされ

る会話に出現する音素頻度(トークン数) 1: 0.79

Tsurutani (2007) 対乳児発話に含まれる音素頻度(トークン数) 1: 1.11 (1: 2.27)

Takeyasu and Akita (2009)で 使用されたデータベース

Kakehi et al. (1996)に記載されているオノマトペ

に含まれる音素の頻度(タイプ数) 1: 1.37

岡田(2008) 日本語話し言葉コーパ スに含まれる音素頻度

学会講演 1: 041 講義講演 1: 0.52 模擬講演 1: 0.55

対話 1: 0.53

Jusczyk et al. (1993)によれば、乳児は母語により頻繁に出てくる構造に対して知覚的な選好を持つよ うになる。Jusczyk et al. (1993)で議論されているのは音節構造に対する選好であるが、セグメントにつ いても同様のことが当てはまるとすれば、日本語では英語に比べて相対的なtʃ の出現頻度が高いこと から、日本語を母語とする乳幼児のtʃ への選好の度合いは英語を母語とする乳幼児のtʃ への選好の度 合いよりも相対的に強くなることが予想される。さらに、音素出現頻度と知覚の選好の関係は、一回 限りの一方向性のものだと考える必要はない。tʃ への選好の度合いが強くなるということは、本研究

69 すでに述べたように、オノマトペは通常の語彙に比べて言語獲得と強い関係があることが指摘され ている (Kubozono 2005, Takeyasu and Akita 2009).

70 厳密には、英語のデータについても対乳児発話などにおける ʃ とtʃ の比を用いるべきであった。ま た、中国語や韓国語における音素頻度については残念ながら不明である。これらの点については今後 の課題としたい。

で行った成人に対する知覚実験が示すように、同じ音を聞いてもその音をtʃ だと判断することが多く なることを示している(特に、その音が曖昧である場合)。自然発話における音声は常に完全なもので はなく、乳幼児の耳に入ってくる成人の発音のうち何割かは曖昧な(ʃ と tʃ の中間的な)音も含まれ ているはずであるから、そのような音を乳幼児が聞いた場合には、おそらく本研究の実験で成人に見 られた結果と同様に、ʃ に選好を持つ乳幼児(本研究で言えば、英語や中国語の乳幼児)はその曖昧な 発音を ʃ と、tʃ に選好を持つ乳幼児(日本語や韓国語の乳幼児)はtʃ だと判断することになるであろ う。すると、仮に音声的な入力に含まれている ʃ とtʃ の比が同じであったとしても、乳幼児の耳にと って聞こえる入力という観点からは ʃ とtʃ の比は歪められ、ʃ に選好を持つ言語の乳幼児にとっては ʃ の頻度が、tʃ に選好を持つ言語の乳幼児にとってはtʃ の頻度が高いように感じられるはずである。つ まり、個別言語の音素頻度によって生じた知覚の選好が、個別言語の音素頻度の差を再度強調するよ うに働き、強調された個別言語の音素頻度の影響は再度知覚の選好を生む、といったように反復的に 相互作用を及ぼしあうのではないかと本研究では推測する71

3.3.4.2. ②「成人の知覚的な選好により引き起こされた記述的なバイアス」説

2つ目の可能性は、幼児の発音を聞く大人の側が持つ知覚的な選好により、幼児の発音を特定の方向 に記述しやすい傾向があるために言語間差異が強調されて報告されているのではないか、という可能 性である。

幼児の発音は成人に比べて正確さにかけ、一貫性がないことが指摘されている(中西・大和田1967、

Smit et al. 1990, Nittrouer 1992)。よって、幼児の ʃ とtʃ の発音は成人にとっての ʃ とtʃ の知覚判断境界 付近の音となる確率が比較的高いものと推測できる。よって、幼児が仮にどの言語でも同じ様な発音 をしており、同じ程度の確率で曖昧な発音をしていると想定すると72、同じ程度曖昧な発音を聞いた場 合であっても英語のように ʃ に対する選好を持つ言語の話者はそれを ʃ だと判断するのに対し、日本 語のようにtʃ に対する選好を持つ言語の話者はそれをtʃ だと判断することが本研究の実験結果から推 測される73

この仮説は、諸々の先行研究で報告されている事実と照らし合わせると必ずしも的外れであるとは いえない可能性があり、検証してみる価値はある。例えば、幼児の音韻獲得の研究において幼児が成 人にはわからないような形(母語(成人)では知覚の際に用いられない音響的手がかりを用いる、ま たは音響的に分析すると分布が異なるなど)で対立を維持している場合があるが(Ingram 1975, Macken

1980)、成人はそれに気づかずに置換だと処理してしまう場合があることが指摘されている(covert

contrastの問題:Beckman et al. (2003))。似たような問題は幼児の音韻獲得のみならず失語や発語失行の

71 仮に最初の段階で生じた知覚的選好により ʃ に選好を持つ言語の乳幼児とtʃ に選好を持つ言語の乳 幼児の間に3%程度の知覚判断のずれが生じたとすると、その後の「乳幼児にとっての音素頻度」の差 は最初の段階と比較して3%ほど強調される。強調された影響はその後のサイクルにも累積的に影響を 与えるであろうから、1サイクルに1年間かかるとして単純に計算すると、3年目には最初の段階と比 較して5倍以上の差が生じることが推測される。当然ながら、これが度を越すと ʃ とtʃ の対立そのも のが失われてしまうため、ある程度のところで対立を保とうとする力が働くことで対立が失われるこ とはないであろう。

72 実際には、すでに議論したような理由から母語によって幼児の発音は異なるであろうことが予想さ れる。ここでの仮定はあくまで純粋に成人側の要因について考える上でのものである。

73 音の知覚における母語の制約の影響を調べたMassaro and Cohen (1983)の実験においても、音の知覚 において母語の影響が最も強く現れるのは刺激が曖昧な場合であることが報告されており、このこと からも成人が幼児の発音を聞くときに誤って判断してしまう場合があることが示唆される。