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4. 単子音・重子音の有標性の例外とその音声学的基盤

4.2. 借用語における s, ʃ の非対称性(有標性の例外)とその音声学的基盤

4.2.3. 日本語側原因説の検証

4.2.3.2 s, sh の促音知覚実験(実験 4- 3)

実験4- 3の概要(刺激・手順・被験者)

2つの頭高型の無意味語「pabasa (パバサ)」「pabaʃa (パバシャ)」を刺激作成用に用いた。まず,1 名の日本語母語話者(女性)に2つの無意味語を「これは~といいます。」というキャリア文に入れて それぞれ10回ずつ発音してもらい,それを録音した。読み上げは発話者にとっての普通の速度で読む ように依頼し,録音にはソニー製リニアPCMレコーダー(PCM-D1)を用いた。各語について得られ た10発話の中から1つの発話を選び,そこから無意味語のみを取り出した。発話の選択は,2つのタ スの発音においてはターゲットの摩擦、後続のフレーズの頭子音共に歯茎音であるのに対し、パバシ ュ・パバッシュの発音においてはターゲットの摩擦と後続のフレーズの頭子音の調音点が異なってお り、この点が本来のs, shの持続時間に歪みを生じさせた可能性は捨てきれない。この点については今 後「~がある」など、ターゲットの摩擦に後続するフレーズの頭子音が非歯茎音であるようなキャリ ア文を用いることで再検証してみる必要がある。

104 一般に、産出と知覚には対応関係があるとされており(Lehiste and Peterson 1959, 大深他2005)、工 藤・窪薗(2008)の仮説もこの想定に基づいて導き出されたものである。しかし、産出と知覚は必ず しも対応しているとは言えないという立場も存在することから(Gruenenfelder and Pisoni 1980)、産出

でs, shの持続時間に差がなかったとしても、知覚においてs, shの促音判断境界が異なっている可能性

は否定できないと言えよう。

ーゲット語のF0曲線や全体および個々の音素の持続時間が最も近くなるように行った105。取り出した 2つの無意味語は,まず語の最大音圧が等しくなるように調整した後(結果的に2語は摩擦に先行する 母音(pabasa, pabaʃa)の部分で共通の最大音圧を持つこととなった),摩擦部分(s/ʃ)を除いて,摩擦 に先行する部分(paba(sa)), paba(ʃa))と摩擦に後続する部分((pabas)a, (pabaʃ)a)にわけ,後の刺激 作成のために個別に保存した。摩擦に先行する部分は/s/, /ʃ/へのVC遷移を,摩擦に後続する部分は/s/,

/ʃ/からのCV遷移の情報を有する音声である。

次に,最も/ʃ/らしいものから最も/s/らしいものに至る8段階の周波数特性を持ち,それぞれが60ms

から130msまで106,10ms刻みで8段階の持続時間を持つような合成の摩擦音を計64(周波数特性(8)×

持続時間(8))個作成した。摩擦の音圧は開始点から中央地点までは徐々に増加し,そこから終点まで は徐々に減尐するように設定し,自然な摩擦音に聞こえるようにした。摩擦の最大音圧は,摩擦に先 行する母音(pabasa, pabaʃa)の最大音圧を基準に-15dB (誤差±1dB以内)となるようにした。なお,

合成摩擦音の作成にはPintér (2007)で用いられたPraatScriptを使用した107

作成した64個の合成摩擦音を,もともと無意味語に含まれていた[s], [ʃ]と置換え,さらに以下のよ うな操作を加えることで2つの系列の刺激を作成した。まず,無意味語の摩擦に先行する部分(paba(sa),

paba(ʃa))と,作成した64個の合成摩擦音,無意味語の摩擦に後続する部分((pabas)a, (pabaʃ)a)とを

掛け合わせることで,256(VC遷移(2)×合成摩擦(64)×CV遷移(2))個の刺激を作成した(これをpabaSa 系列とする)。次に,pabaSa系列の各刺激の末尾の母音(pabaSa)を削除し,128個(この場合,2 つ のCV遷移がないので,VC遷移(2)×合成摩擦(64)=128)の刺激を作成した(これをpabaS系列とする)。

105 選ばれた無意味語の持続時間は以下の通りであった。

語全体 先行母音 (pabaSa) 摩擦(s, ʃ) 後続母音 (pabaSa)

pabasa 335 ms. 93 ms. 56 ms. 59 ms.

pabaʃa 336 ms. 91 ms. 57 ms. 69 ms.

106 同じ話者に「パバサ」「パバシャ」「パバッサ」「パバッシャ」の4つをキャリア文に入れて10回ずつ発音 してもらったところ,その平均摩擦持続時間は非促音で66.0ms (SD = 5.6ms),促音で123.4ms (SD = 8.7ms)で あったので,この範囲に設定した。これは工藤・窪薗(2008)で報告された/s/, /ʃ/, /Qs/, /Qʃ/の持続時間とも 概ね一致するものであった。

107 プログラムの使用を快く承諾してくださったPintér Gábor氏に感謝申し上げたい。今回使用した最も/ʃ/

らしい音と最も/s/らしい音の周波数帯域は,予備実験に基づいて以下のように設定した(単位はHz)。 Pole 1 Pole 2 Pole 3 Pole 4 Pole 1 Pole 2 Pole 3 Pole 4

ʃ 3400 4000 5500 6800 s 5000 6500 7200 8500

これらの値は英語のs-shの知覚を調べた先行研究(Mann and Repp 1980, Mann et al. (1985), Nittrouer and Studdert-Kennedy 1987, Nittrouer et al. 2000, 他)で用いられているものよりも全体に高い値に分布しているが、

これは値が低いときには予備実験においてsの判断が得られにくかったことと、shが日本語のシャ行音らし く聞こえないというフィードバックが得られたことによる。

設定した値に基づいて合成された8つの摩擦音について、9名の日本語話者に対して摩擦音を単独で提示 して(各音は8回ずつ提示)sかshのどちらに聞こえるかを判断してもらう予備実験を行ったところ、以下 のような結果が得られた(値はsだと判断された率の9名分の平均値)。結果を見ると判断境界がシャープで はないようにも見えるが、これは判断境界が必ずしも同じではない9名分の結果を平均したためで、被験者 内では判断境界はシャープであった。

刺激 S1 S2 S3 S4 S5 S6 S7 S8 s判断率 2.8% 6.9% 13.9% 13.9% 26.4% 45.8% 91.7% 98.6%

実験は練習と本番の 2 部構成となっており,練習では最も典型的な摩擦(合成摩擦音の連続体にお ける最端の音)を含む刺激が,続く本番では全ての刺激が,ともにランダムな順序で提示された。結 果の分析は本番の回答のみを対象とした。刺激はヘッドフォン(ソニー製MDH-NC50)を通して提示 され,被験者は刺激が何であったかを,pabaSa系列については「パバサ」「パバシャ」「パバッサ」「パ バッシャ」,pabaS系列については「パバス」「パバシュ」「パバッス」「パバッシュ」の4択から選び,

対応するパソコンのキーを押すことで回答した。刺激のランダマイズ,提示,回答の集計はコンピュ ータ制御で行われた。刺激の提示に関しては,被験者が自分のペースで回答できるようにするために,

刺激間の間隔には一定の値を設けず,被験者が回答すると次の刺激が提示されるように設定した。1 つの系列あたりの所要時間は15分程度であった。各刺激の提示回数は,pabaSa系列では1回,pabaS 系列では2回とし,1人の被験者について256の回答を得た。

被験者はpabaSa系列については12名,pabaS系列については10名の日本語母語話者であった。両

系列とも参加したのは8名で,この8名の系列提示順序(pabaSa系列への参加が先か,pabaS系列への 参加が先か)は被験者ごとにランダムに割り振った。

予測

日本語話者の知覚において、sとshの促音判断境界が異なっており、shの方が小さい判断境界値を 取る(促音だと判断される率が高い)のであれば、摩擦の音色が sh に近いほど判断境界値が小さく、

逆に、摩擦の音色が s に近いほど判断境界値が大きくなることが予測される。このような結果が得ら れれば、借用語の促音挿入におけるsとshの非対称性は日本語話者の知覚(shをより促音だと判断し やすい)によって生じたという解釈が可能となる。一方、摩擦の音色の変化によって促音判断境界値 が変化しなければ(または、s に近い音ほど促音判断境界値が小さな値を取れば)、借用語の促音挿入

におけるs, shの非対称性と日本語話者の知覚は対応していないことになり、借用語の非対称性を知覚

によって説明することはできないものと見なせる。

結果と考察

摩擦持続時間の変化に伴う促音回答率(各カテゴリにおける,「促音だと判断された刺激の総数108

108 pabaSa系列についてはパバッサ,パバッシャ,pabaS系列についてはパバッス,パバッシュと回答された

刺激数。

×

摩擦 (64) S11, S12, ..., S17, S18

…, …, ..., …, … S81, S82, ..., S87, S88 VC遷移 (2)

paba (sa)

paba (ʃa) 系列

pabaS

× ×

CV遷移 (2) (pabas)a

(pabaʃ)a 摩擦 (64)

S11, S12, ..., S17, S18

…, …, ..., …, … S81, S82, ..., S87, S88 VC遷移 (2)

paba (sa)

paba (ʃa) 系列

pabaSa

÷「全刺激数」)の推移を摩擦周波数特性ごとに示したのが図 5(a)と図 5(b)である(周波数特性は8段 階だが,見易さを考慮して 4 段階にまとめて図示した)。「/ʃ/の方が/s/よりも短い持続時間で促音だと 判断される」という工藤・窪薗(2008)の推測が正しければ,摩擦持続時間の条件が同じ場合,摩擦 周波数特性が/ʃ/に近いほど促音判断が高くなることが期待される。しかし,この予測は借用語に見ら れる/s/, /ʃ/の促音挿入のパターン(/s/には促音が挿入されにくく,/ʃ/には促音が挿入されやすい (注2 参照))とも同じ方向性のものであるため,単純に摩擦持続時間の変化に伴う促音回答率の推移を摩擦 成分の周波数特性ごとに求め,それを分析して期待どおりの結果が得られたとしても,それは単に借 用語のパターンが実験結果に反映されただけであるという可能性を排除できない。つまり,実験の刺 激語が被験者にとって英語らしく感じられたために,/ʃ/には促音が入り/s/には入らないという被験者 の持つ知識が働き,/ʃ/らしい摩擦周波数特性を持つ(すなわち,被験者にとって/ʃ/だと聞こえる)音 には促音が挿入されやすく,/s/らしい摩擦成分を持つ(すなわち,被験者にとって/s/だと聞こえる)

音には促音が挿入されにくくなり,結果として摩擦成分の周波数特性が/ʃ/に近いほど促音判断率が上 がる傾向が得られただけである可能性を捨てきれない。

そこで,こうした被験者の持つ知識の干渉を排除した上で摩擦周波数特性の変化に伴う促音判断率 の変化が見られるかどうかを確認するために,調音点が/ʃ/だと判断された刺激(pabaSa 系列を例にと ると,「パバシャ」および「パバッシャ」と回答されたもの)と/s/だと判断された刺激(「パバサ」お よび「パバッサ」だと回答されたもの)に分け,/ʃ/だと判断された刺激だけを見た場合にも,/s/だと 判断された刺激だけを見た場合にも,摩擦周波数特性が/ʃ/に近いほど促音判断率が高くなる傾向があ るかどうか調べることにした。例えば,/s/だと判断された刺激だけを見たときに摩擦周波数特性が/ʃ/

に近くなるほど促音判断率が高くなる傾向が見られた場合,仮に被験者が「借用語において/ʃ/には促 音が挿入されやすく,/s/には促音が挿入されにくい」という知識を持っていたとしても,被験者は刺 激を範疇的に/s/だと知覚しているため,/ʃ/に促音が挿入されやすいという知識は結果に干渉しようが ない。同様に,/s/に促音が挿入されにくいという知識は/s/だと判断された刺激すべてに均等に働くは ずであるから,生じた摩擦周波数特性の効果がこうした知識によって生じたとは考え難い。つまり,

刺激の調音点が何と判断されたかを考慮に入れることで,借用語に関する知識の影響を排除したうえ で摩擦周波数特性と促音判断率との関係について考察することが可能となるわけである。

刺激の調音点が何と判断されたかを考慮に入れて分析するために,pabaSa系列,pabaS系列のそれぞ れの促音判断率に関する結果について,第 1 レベルで被験者を強制的に層化することで被験者による ばらつきをコントロールし,第2レベルで摩擦周波数特性(8段階・順位尺度)と摩擦持続時間(8段 階・順位尺度)および刺激の調音点判断(2 段階(0=/ʃ/, 1=/s/)・名義尺度)を独立変数とする階層的 ロジスティック回帰分析を行った109。「刺激の調音点判断」とは,各刺激について調音点が/ʃ/と/s/のど ちらと判断されたかをコード化したものであり,上述のように被験者の持つ借用語に関する知識の干 渉をコントロールした上で分析できるようにするためのものである。仮に摩擦周波数特性の主効果が

109 ロジスティック回帰分析は,本研究の実験のように従属変数が二値の名義変数(例:促音/非促音)の分 析に適した手法である(Hosmer and Lemeshow (2000))。階層を設定して分析する手法は,Werker et al. (2007) などでも用いられている。なお,ここに挙げた以外にVC遷移,CV遷移も要因として挙げられるが,これら と摩擦周波数帯の効果はほぼ独立しており(これらを加えても加えなくても摩擦周波数帯の効果の大きさ,

有意水準はほぼ変わらなかった),回帰モデルの適合度への貢献もわずかであったので,スペースの都合もあ って本稿では分析の対象外とした。最適なモデルの決定は,Hosmer and Lemshow (2000)のガイドラインに基 づき,ステップワイズ法により有意な主効果と交互作用を絞り,それをベースに全体の適合度を考慮して行 った。一連の分析にはSPSS 15.0を使用した。