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2. 閉鎖音の調音点の有標性とその音声学的基盤

2.6. 調音点の有標性への音声学的説明:知覚実験

2.6.1. 実験の概要(刺激・被験者・手順)

この実験の目的は、Kochetov and So (2007)が行った知覚実験の問題点が解消されるようにデザイン された実験を行った場合にも同様の結果が再現されるのかを確認することで、Kochetovらの実験結果 の一般性を検証し、それによってJunのスケールの妥当性を再評価することである。Kochetovらの実 験と本稿での実験の主な相違点は、以下で説明するように刺激とする音声の言語、刺激の音韻環境、

被験者の母語、統計検定のスコープの4点である。まず、Kochetovらはロシア語の音声を刺激として 用いたが、本稿では、日本語の音声を刺激として用いてKochetovらと同様の手法で実験を行うことと した。日本語の音声を刺激として用いた場合にも Kochetov らの実験結果が再現されれば、Kochetov らの実験結果はより一般性が高いものだと言えることになる。次に、刺激の音韻環境に関して、

KochetovらはC1の先行する母音およびC2に後続する母音をaに限定していたが、本稿の実験におい

てはaだけでなi, uも含めることでより幅広い音韻環境の刺激を用いることとした。(11b)にあるよう

に、複数の先行研究において音節末(語末)の閉鎖音の調音点の知覚しやすさは先行母音によって異 なることが指摘されているため、a 以外の母音についても同様の実験結果が得られるかどうかを確認 することはKochetovらの実験結果を評価するうえでもJunのスケールを検証する上でも重要である。

先行母音による相対的な調音点の知覚しやすさの度合いに違いがないという結果が得られれば、

Kochetovらの実験結果はより一般性が高いと言えることになる。さらに、Kochetovらの実験の被験者

はロシア語話者、英語話者、韓国語話者、中国語話者であったが、本研究では日本語話者と中国語話 者を被験者とした。Kochetov らの実験で対象とされていない日本語話者についても Kochetov らの実 験結果と同様の結果が得られるかどうかを見ることで、Kochetovらの実験結果の一般性を測ることが できる。最後に、Kochetov らの実験の問題点としてすでに挙げたとおり、彼らの分析では C2が統計 検定の要因として取り入れられていないが、本稿の実験結果の分析においてはC2も要因に含めた上で 検定を行う。その上で Kochetov らの実験結果と同様の結論が得られるかどうかを調べることで、

Kochetovらの実験結果の一般性を検証することができ、通言語的な調音点の知覚しやすさのスケール

の構築に向けて踏み出すことが可能となる。

刺激

ターゲット語はbV1C1V2C2V3ru (C1, C2 = p, t, k; V1, V3 = a, i, u; V2 = i, u)からなる頭高型の無意味語 162語(3 (V1)×3 (C1)×2 (V2)×3 (C2)×3 (V3) = 162語)である(ti, tuについては「ティ」「トゥ」と発音 してもらう)。刺激は日本語を母語とする女性の話者がキャリア文(「これは~です。」)に入れた状態 で発音したものを録音し、そこからターゲット語のみを切り出して作成した。なお、キャリア文は各 ターゲット語がカタカナで表記されているリストを読み上げる形で各語につき計2回(言いよどみが

あった語やC1が促音化した語についてはその場で言いなおしてもらったため、2回以上)発話しても らっているが、刺激の数が過剰になるのを避けるため、各ターゲット語について1つの発話のみを刺 激作成用として選び出した。選定の基準は、①言いよどみがないこと、②C1の閉鎖の開放がある(C1 が促音化していない)こと、③V2が無声化している(C1と C2が音声的に子音連続を形成している)

ことの3つとした39。こうして作成された刺激のV2は無声化しているため、刺激中のC1とC2は音声

的にはC1に閉鎖のreleaseを持つ擬似的な子音連続を形成しているものと見なすことが可能である(よ

って、日本語音声による知覚実験の実施が可能である)。

作成された刺激について、Kochetov & So (2007)との比較が可能となるよう、Kochetovらと同様の手

順でC1のreleaseの削除(C1の閉鎖区間~C2のreleaseの直前までの振幅を0に設定)および後部要素

(C2以降の部分)の削除を行い、以下のような4系列の刺激を作成した40。 条件①:手を加えない(C1 release有、後部要素有) e.g. [bakparu]

条件②:C1のreleaseのみ削除 e.g. [ba_paru]

条件③:後部要素のみ削除 e.g. [bak ] 条件④:C1のreleaseおよび後部要素を削除 e.g. [ba_ ]

日本語音声を音声的な閉鎖音の子音連続と見なすことの妥当性

Kochetovらが刺激として用いたロシア語は音韻的に閉鎖音の子音連続(同一子音の連続は除く)が

生じうる言語であり、また、閉鎖音の子音連続が調音点同化を起こさない言語であるとされている。

さらにKochetovらは調音的なオーバーラップ(同化)がほとんど生じていないことを確認した音声を

使用したと述べていることから、彼らの用いた音声は音声的観点から見ても子音連続の知覚しやすさ を調べる目的に合ったものである。一方、本稿の刺激は日本語における母音の無声化を利用して音声 的な子音連続を得ることで作成されている。日本語は音韻的には調音点の異なる閉鎖音の子音連続を 持たないと分析される言語であるが、本稿の目的は音声的に子音が連続しているときの子音の知覚し やすさを調べることが目的であるから、日本語の音声を用いることは問題ではないと考える。

日本語の無声化環境において音声的な子音連続が生じると見なすことが可能であると考える根拠は 複数存在する。まず、完全に無声化が起こった場合、音響的には「母音」は存在しないことが指摘さ れている(Beckman 1982, Beckman and Shoji 1984)。もちろん、これはもともとあった母音が何であっ たかがわからなくなってしまうということではない。もともとあった母音の情報は周囲のセグメント

(特に無声化母音の前の子音)に音色の違いを生じさせる形で残されており、無声化した母音が本来 どの母音であったかは音響的に「母音」の無い音声を聞いて先行子音の音色から復元可能であること が実験的にも示されている(Beckman and Shoji 1984、松井2004)。つまり、調音結合の影響によって 母音の情報は残されてはいるが、音響的にいわゆる「母音」として残されているわけではない。閉鎖 音に挟まれた母音が無声化した場合、無声化する前の母音の情報は主に先行子音の気息の音色の違い として存在する。

閉鎖音の気息は無声化した母音とも非常によく似ているために両者の間に線を引くことは難しく、

39 ②と③についてはスペクトログラムにより確認した。なお、ターゲット語のV2は無声化する環境に あるが、2つの発話ともV2が無声化されずに発音される場合があったので、その場合にはV2を削除(V2 区間の振幅を0に設定)して刺激とした。2つの発話がいずれの条件も満たす場合には、より自然だと 感じられる方を聴覚判断により選んだ。

40 条件②と④については、フィラーとしてC1=促音である27語も刺激として加えた。

どちらであるとするかは解釈の問題となる。これは日本語音声に限られたことではない。例えば、

Kochetov (2006)はロシア語の発話末の閉鎖音のreleaseが持つ気息(frication)は音響的には無声化母音

とも言えると述べている。音響的には気息と見なしても無声化母音と見なしてもいいことから、そこ に母音があると解釈するかどうかはその言語の話者の直観に委ねられる部分が大きい。実際に、本研 究の実験を実施する前に、予備実験として日本語の無声化母音を含む音声(本稿の刺激)を英語話者 に聞いてもらい、本来母音があった場所に母音が存在するかどうかを判断してもらったところ、いず れも母音は存在しないと判断された。つまり、本稿の刺激は閉鎖音の子音連続が存在する言語の話者 にとっては子音連続である41。このことからも、本稿の刺激を音声的な子音連続であると見なしても 大きな問題は生じないと考えることができる。

本稿の刺激は、持続時間の観点からも真の(音韻的な)子音連続と近いものである。Kochetov and So

(2007)が用いたロシア語の刺激のC1開始点からC2開始点の直前までの区間の平均持続時間は C1がp

のときには160 ms、tが156 ms、kが158 msであったのに対し、同じ基準で測ったときの本稿の刺激

(条件を同じにするため、先行母音が aであるときの刺激に限定)の平均持続時間はpが173 ms、t

が165 ms、kが150 msで、絶対的な持続時間はほぼ変わらないと言える。これは本稿の刺激が真の子

音連続と同じであることの証明にはならないが、尐なくとも真の子音連続とは全く違うものだと見な す必要はないことを示していると言える。

最後に、これは事後的な証拠であるが、本稿の刺激を用いて得られた実験結果はKochetovらの実験 結果と一致する点が多く、Jun (2004)のスケールを支持する結果もかなり得られている。これも本稿の 刺激が真の子音連続と同じであることを積極的に証明するものではないが、尐なくとも真の子音連続 とは全く違うものだと見なす必要はないことを示していると言える。

以上のことから、本稿のように音声的に子音が連続しているときの子音の知覚しやすさを調べるこ とが目的であれば、日本語の無声化母音を含む音声を音声的な子音連続だと見なすことは問題にはな らないと筆者は考える。

被験者

日本語母語話者14名および中国語母語話者12名が実験に参加した。日本語話者に関しては、被験 者の時間の都合上データが得られたのは各条件につき12名ずつで、条件①~④まですべての実験の参 加したのはこのうち10名であった。中国語話者に関しては、データが得られたのは条件①と条件②で は10名ずつ、条件③と条件④では9名ずつで、条件①~④まですべての実験の参加したのはこのうち 6名であった。被験者が条件①から条件④までを受ける順序はランダムに割り振られた。

中国語話者はすべて日本に在住する方々で、1 名を除いて全員が神戸大学大学院に在籍する大学院生

41 同様の傾向は、Dupoux et al. (1999)の実験結果にも見られる。Dupoux et al. (1999)は、日本語話者およ びフランス語話者を被験者とし、日本語の音声から作成された子音連続(音声的なもの)および間に 母音を挟む音声(...CVC...)と、フランス語の子音連続(音韻的なもの)および間に母音を挟む音声を 含む無意味語を刺激として、日本語話者とフランス語話者の挿入母音の知覚判断に違いがあるかどう かを調べる実験を行った。その結果、Dupouxらは日本語話者は音響的には全く母音がない子音連続に 対しても母音が存在すると判断するのに対し、フランス語話者は音響的に母音がない(または非常に 短い)音声に対してのみ子音連続であると回答する傾向があったことを報告している。Dupouxらの実 験結果において重要な点は、日本語の音声から作成された刺激とフランス語の音声から作成された刺 激の間で結果に全体として大きな違いが見られなかったことである。つまり、尐なくとも音の知覚に 関する議論においては音韻的な子音連続であるか否かよりも、実際の音声が音響的に母音成分を含ん でいるかどうかが重要であることがここからも示唆される。