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第6章 総合的考・察

第1節  理論的考察

 今、教育から生じる様々な問題は、社会や子どもの変容と複雑に絡まり、教 育現場を混迷させている。不登校やいじめ等の現象に見られるように、子ども 同士の関係も希薄になると共に、お互いの関係に歪みが生じ、「イうつく」、「ム カつく」、「キレる」などと言った言葉が子どもたちの日常語と化した。そし て、子どもたちは心の居場所をなくし、自己を成長させる場すら喪失している のである。地域、家庭においても、子どもたちの社会的な発達を図る場がなく なりつつある。デュルケムの言うように規範意識を形成する場として、今や学 校は唯一の場になっているのである。そのような中で、多くの子どもたちの集 まる学校という場の果たすべき役割にも、新たな面が出てきたように思われる。

情報化社会に見られるように、学びの形も様々になり、教師からの一方的な知 識の伝達では対応しきれなくなっている。道徳についても同様である、国際化 や価値の多様化の時代に対応しなければならないのである。先行き不透明とい われる現在においては、ベテランの教師ですら、道徳の授業で何を教えてよい か分からなくなってしまうというのは当然であろう。混迷する教育現場で、学 校を教える側の立場でなく、学ぶ側、つまり子どもたちの側に立った学びの場 にしていくことによって、学校という存在も薪たな意義をもつものとなり得る

のである。

 よって、第1章においては、「教師が教え、子どもが一斉に学ぶ場」それが 学校という無意識のうちに再生産されてきた先入観を払拭し、「学び」そのも のについてや「子ども」という捉え方から見つめ直してきた。子どもたちは、

かって共同体の多様な人間関係の中におかれ、大人と共存しながら自然や労働 に触れることができた。この頃から考えると「子どもjや「教育」そのものの

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捉え方にも、現在とは大きな違いがあることが分かる。子どもは近代の発展と 共に教育的な配慮の名のもとに、大人の世界から切り離され未熟なものとして 教育の世界にがんじがらめにされているのである。今βの教育において見られ る諸問題は、そのことに気づいてほしい子どもたちからのメッセージでもあろ う。「子どもを教え導いて善良ならしめる」という教育が充満することの怖さ を、もっと早く自覚するべきであったのである。

 道徳教育においても、まさに同様のことが言える。道徳においては、新しい 学力観が打ち出されても、従来の教師からの伝達の授業が堂々と行われてきた。

道徳の授業をどのようにすればよいのか分からないと言いつつ、自ら道徳につ いて考えようとはしなかった教師の怠慢が、道徳授業の転換を遅らせてきたと も言える。子どもたちにもすでに分かりきったことを伝達するというつまらな い授業から、子どもも教師も真剣に考え合える道徳授業をどのように創造して いったらよいのか。筆者は、これをハーバーマスのコミュニケーシ簑ン的行為 の理論に求め、ディスクルス倫理学に依拠しながら解決の方向を員指した。

 第2章においては、ハーバーマスの着目したほ一ルバーグやデュルケムの道 徳教育論について考察しながら、コミュニケーション的行為の理論やディスク ルス倫理学に依拠し、その教育的意義を明らかにしていった。謙ミュニケーシ ョン的行為とは、コミュニケーション的合理性のもと、了解を目指して行われ る発話行為である。了解を目指す過程においては、成果を志向するのではなく、

ディスクルスの参加者が妥当性要求のもとに合意を目指して行う活動が求めら れる。そのために、ディスクルスは自然に必須条件となるのである。また、コ ミュエケーション的行為の理論は、相互主体性の理論、相互行為の理論とも呼 ばれている。言語を媒介とする謙ミュニケーションを通じて、個々人の主体性 を発揮し、個々人が関わる集団の質を高めていくのである。さらには、集団の 質が高まることによって、その中の個々人も成長せざるを得ない。

 道徳の二面性について述べたように、心情主義、個人主義といった問題がも たらす偏った道徳においては、上記のような成長は望めない。道徳は、単に個 人の信条といった主観的なものではなく、我々の社会生活の基盤の上に成り立 っているからである。つまり、道徳は歴史的にみて人間の価値追求の営みの中 から形成されてきたものである。したがって、普遍的なものではなく社会の発 展と共に変化していくものであると捉えることができる。

 道徳のもつ上記のような性格は、道徳教育の基本的な視点を示唆するもので あった。道徳性は、現存する社会規範を受動的に受け取るという行為つまり、

現在行われているインカルケーションの道徳授業からは、形成されないという

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ものであった。むしろ、個々人の能動的な働きかけによって形成されるもので ある。このような考えをもとに、道徳教育は自主的判断や選択を可能にするカ を助成し、社会的規範に対して主体的に対応していける人間の育成を目指さな ければならない。子どもは未熟だから教えなければならないのではなく、むし ろ、未熟だからこそ自らが正しいとする主体的な判断を選択し、他者と共有で きる社会的規範をつくり上げていくという経験を積み上げることが必要なので

ある。

 ここにハーバーマスの主張するコミュニケーシ籔ン的行為における合意形成 が求められる。ある発話者が掲げた妥当性要求について、みんなで吟味し合意 形成に向けて話し合いが行われる。その過程において、相互に行為調整を行う のである。それぞれの妥当性要求は、それぞれの根拠に基づくディスクルスに よって合意が得られる。みんなが納得したものであるから、真実であり、正当 性をもつもの、あるいは誠実性のあるものとして合理性をもったことになる。

つまり、コミュニケーション的行為において合意形成されたものは、全てコミ ュニケーション的合理性に基づく合理的なものとして保証される。ハーバーマ スはこのことを、オースティンの「言語行為論」に提唱されている発話行為が もつ発語内的な力に着目し、訟ミュニケーション的行為によって、合意形成さ れたことは言語がもつ力によって、行為遂行の義務を生じさせると考える。激

ミュニケーション的行為において妥当性要求を掲げることは、自分の思いや考 えを事実に基づいて誠実に話すことであり、人間関係づくりを爵指すものであ る。発話者の意図が顕在的に表れているからこそ、それが相手に受け入れられ、

みんなに了解されると、大きな効力を発揮するのである。

 このことは、教育実践においても子どもたち中心のディスクルスの中でも見 ることができた。「みんなで話し合って、納得したことはみんなで守っていこ う」という意見が全員の合意を得て、学級のディスクルスのルールとして掲げ られていったのである。

 道徳授業で長年雷われ続けてきたことに、道徳で学んだことが道徳実践に繋 がらないという大きな問題がある。この点については、1時間の授業の中で、

資料から子どもたちの生活に視点を移し、価値の内面化を図ったり、総合的な 単元を組んで、体験を取り入れた道徳授業を計画したりして、実践化を図ろう と努力してきた。しかし、それらの実践はたいした成果を生むに至ってはいな い。これはどこに問題があるのであろうか。筆者の主張するディスクルスを中 心とした道徳との違いから述べると、端的に言って「道徳の伝達」と「道徳の 創造」の違いであると考えられる。

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 教師と子どもたち、子どもたちと子どもたちとの関係が、「伝達」というパ ラダイムにおいては、主体一対象(客体)としてしか捉えられないのである。

教師が伝達する主体であり、子どもたちは伝達される対象となっているのであ る。主体であるからこそ、主体性が発揮できるのであって、対象という立場に おいて主体性は発揮できるものではない。つまり、子どもたちの主体的な道徳 実践は生じないのが当然なのである。

 そうすると、「道徳の創造」を実践するにおいては、子どもたちが主体とし て活躍できるの場(トポス)を形成していくことが必要になってくる。それは 他者との生活の場であり、子どもたちの社会的関係が営まれる場においてほか にはないであろう。社会的関係の変化つまり「規範構造」の変化は、灘ミュニ ケーションの中での妥当性要求への異議申し立てによって生じる。そこでは「規 範構造」の正当性が問われ、さらに正当性をもった新たな規範の相互承認が得

られる。そして、新たな規範に基づく新たな社会的関係が成立すると同時に、

個々人の発達も促されるのである。

 ハーバーマスのコミュニケーション的行為理論やディスクルス倫理学の観点 に立って従来の道徳教育を見つめていくと、新たな道徳教育の姿が見えてくる。

大切なことは、個々人に道徳的価値を伝えたり教えたりすることではなく、様 々な道徳的内容について学級の子どもたちみんなが話し合い、正しさの根拠を 協同で探っていくという姿であろう。そこには、よりよい関係に身をおいた子 どもたち主体の場が形成され、みんなにとって居心地のよい社会(集団)が築 かれていくことを確信するものである。