• 検索結果がありません。

第6章 総合的考・察

第2節  実践的考察

 教師と子どもたち、子どもたちと子どもたちとの関係が、「伝達」というパ ラダイムにおいては、主体一対象(客体)としてしか捉えられないのである。

教師が伝達する主体であり、子どもたちは伝達される対象となっているのであ る。主体であるからこそ、主体性が発揮できるのであって、対象という立場に おいて主体性は発揮できるものではない。つまり、子どもたちの主体的な道徳 実践は生じないのが当然なのである。

 そうすると、「道徳の創造」を実践するにおいては、子どもたちが主体とし て活躍できるの場(トポス)を形成していくことが必要になってくる。それは 他者との生活の場であり、子どもたちの社会的関係が営まれる場においてほか にはないであろう。社会的関係の変化つまり「規範構造」の変化は、灘ミュニ ケーションの中での妥当性要求への異議申し立てによって生じる。そこでは「規 範構造」の正当性が問われ、さらに正当性をもった新たな規範の相互承認が得

られる。そして、新たな規範に基づく新たな社会的関係が成立すると同時に、

個々人の発達も促されるのである。

 ハーバーマスのコミュニケーション的行為理論やディスクルス倫理学の観点 に立って従来の道徳教育を見つめていくと、新たな道徳教育の姿が見えてくる。

大切なことは、個々人に道徳的価値を伝えたり教えたりすることではなく、様 々な道徳的内容について学級の子どもたちみんなが話し合い、正しさの根拠を 協同で探っていくという姿であろう。そこには、よりよい関係に身をおいた子 どもたち主体の場が形成され、みんなにとって居心地のよい社会(集団)が築 かれていくことを確信するものである。

    を日指す。

  4.普遍化原則(U)、討議原則(D)をディスクルスの基盤に据える。

  5.子どもたちによるディスクルスのルールづくりによって、理想的発     話状況を確保する。

 上記の視点をもとに、子どもたち主体のディスクルスによる道徳授業のモデ ル案を作成し、道徳授業実践を行っていった。この実践においては、従来の道 徳授業に見られるインカルケーションの問題を克服していくために、価値の形 成に視点をおくのではなく、規範の形成に視点をおいた授業への転換を試みた。

個々の子どもたちや学級の成長の基盤となっている「規範構造」をみんなが参 加するディスクルスによって、つくり変えていくのである。そして、そのよう な活動の場が教育実践においては、一人ひとりの子どもたちの道徳的な成長を 促したのである。

 子どもたちの授業に対する構えも大きく変容したことが、今回の実践におい て得ることができた大きな成果でもあった。6年生とはいえ、話し合うことや 発言することに消極的で苦手だった多くの子どもたちが、ディスクルスを通し て生き生きとし、人の考えも大切にしながら自分の考えを積極的に述べるよう になっていったのである。子どもたちは、教師から与えられ注入される道徳か ら、自分たちの力でつくり上げていく道徳の楽しさや意義をつかんだのである。

そのような子どもたちを見て、授業を参観していた教師から、「本校の子ども たちも、なかなかしっかり考えることができるではないか。子どもたちが順調 に育っていっていることが分かってうれしい。」というような声も聞かれた。

教師にとって、子どもたちの成長が見られるということは、大きな喜びである。

そして、このような関係が教師と子どもの相互主体関係を築いていく重要な基 盤になっていくものであると考える。

 次に、今回の実践を通して得られた成果のポイントとして、終宋のクローズ エンド(合意形成)をあげたい。モラルジレンマ資料によるモラルディスカッ

ションも、子どもを主体とした話し合いにより、道徳性の発達段階を上げるも のであるが、終末がオープンエンドとなっている。筆者も教育現場では、従来 の伝統的な道徳授業からの転換を図るべく、ジレンマ授業に取り組んできた経 過がある。その結果、子どもたちの活発な討論はできるようになったが、オー プンエンドであるため言いっぱなしの感があり、子どもたちは話し合いが途中 で切られたような不快感を示したのである。「もっと話し合いたい」「決着を つけたい」と言うのが子どもたちの本音であった。そのことを満足させるため に、休み時間にまで友人と討論したり、家に帰って家族と討論する子どももあ

125顧

つたのである。

 オ・一プンエンド化は、単に教師が終末段階でねらいとする価値についてのま とめをしない、あるいは取るべき行為についての判断を一つに結論づけないと いった単純なものではない。子どもにとって切実な追究に値する問題の成立を 促す学習であり、その切実な問題が授業の枠を越えて現実生活に持ち込まれる ことを奨励する学習でもある。そのことから考えると、子どもたちは充分目標 を達成していることになろう。では、何の問題も残らないのであろうか。教師 は、それで納得してしまってよいのであろうか。子どもたちのもった不快感や 本音はどう解消してやればよいのであろか6そのような悶々とした気持ちが筆 者の中に残っていたのである。しかし、今回の授業実践において、その悶々と

した疑問を払拭することができたのである。それは、個々の子どもたちの中に 高まった考え(規範)をさらに、みんなのもの(社会規範)として高めてやる

ことであった。つまり話し合いは、単に個々の相互理解で終わるのでなく、お 互いの意見調節をし、子どもたちの社会(学級)の中で生かされる考え(規範)

となっていってこそ意味をもつものだったのである。いかに活発な話し合いが 行われても、子どもたちは納得しないであろう。

 今回の授業実践を振り返って見ると、子どもたちは自分たちの力で、納得の いく話し合いができるようになるためにルールづくりをしたり、自分の意見を カードにまとめたりして自ら努力していた。これは、「理想的発話状況」を目 指した子どもたちの自主的な行為とも言えるであろう。話し合いの最初は、自 己中心的な意見が多く喧嘩別れになってしまったり、一部の子どもたちによっ てのみ進められたりしていたが、逐語録を見ても分かるように、クラス全員が お互いの意見を聞きながら相互行為調整が行われるようになってきた。まさに、

従来のモノローグ的(独話的)な道徳授業から、了解(合意)によって結論を つくり出すディア義脚グ的(対話的)な道徳授業へと転換していくことができ たのである。道徳における個人主義的な問題は、道徳を個人の内面問題として のみ捉え、社会的な側面を無視してきた。これは、道徳的な実践力が育たなか った原因の一つとして考えられる。上記のことは、個人主義の問題や心情主義、

価値の伝達等の問題を克服し、子どもたちに主体の場を形成し、子どもたちの 主体的な判断力や規範形成能力を育成するものであると確信する。

 本研究は、コミュニケーション的行為の理論に基づき、子どもたち主体の場 を形成し得る新しい道徳授業の創造を図ることを日指してきた。長期にわたる 継続的な授業実践が実施できたことは、筆者にとって得がたい成果を齎し、今 後の実践における大きな基盤を築くことができたと言える。

顧126一

おわりに

 心の教育の重要性が叫ばれている昨今、道徳教育への期待や役割は大きい。

しかし、道徳授業における問題を直視すると、1年生から6年生、果ては中学 生に至るまで、心情主義、価値の伝達を中心としたまさにパターン化されたと

しか言いようのない授業が平然となされていたのである。学年が上がるにつれ て道徳授業を、「楽しくない」とする子どもの割合が増えていくという文部省 の行った道徳教育推進に関する調査の結果は、当然の結果と言えるであろう。

このような結果を招いた原因として、上からの押し付け的な指導や、それを安 易に受け止め、教師自身が真剣に道徳について考えようとしなかったことが考 えられる.近年になってやっと、道徳授業も様々な工夫がなされるようになり、

従来のパターン化された授業から脱皮しようとしていることは事実である。

 また、教育現場においても、「指導過程の工夫」や「楽しい道徳授業」が言 われ始め、様々な取り組みが見られるようになったことは喜ばしい。しかしそ の反面、多様化する価値観や子どもたちの変容に追いつけず、様々な方法を試 みても、道徳授業がますますやりづらくなってきていることも事実である。道 徳授業は大切だが、どのようにしたらよいか分からなくなったというような道 徳における悩みは、ベテランの教師からもよく聞かれるようにな?た。

 このことは、単に道徳授業のみが変わればよいという問題ではないことを示 唆しているように思われる。時代の変容と共に、教育的行為をどのように捉え 直していくのかという点からのスタートでなければならないことを、教育にお ける様々な問題は訴えていると思われるからである。それでなくては、道徳教 育は全教育活動を通してなされ得るものとはならないであろう。道徳教育にお けるパラダイム転換、これはまさに教育におけるパラダイム転換でもなければ ならないと考えられる。つまり、道徳が変わり、学級あるいは学校全体が変わ らなければならないのである。その意味で、社会(集団)の高まりが個の成長 を育むと考えるハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論に依拠し、従 来の道徳授業の抱える問題を克服できたことは大きな意義をもつものであっ