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第3章  道徳性の発達段階の再構成

第1節  授業におけるコミュニケーション

 わが国における道徳教育は、インカルケーション的指導が中心であり、望ま しい価値の内面化を図るという枠組みの中で、心情主義に陥りインドクトリネ ーションの危険性にも晒されていたという問題については第1章で述べた。そ して、文部省が行った道徳教育推進状況調査(平成5年)からも明らかなよ うに、「道徳の時間」の指導がパターン化あるいはマンネリ化していて、児童

・生徒は勿論、教師にとっても魅力のないつまらない時間となってしまってい る現状があった。

 筆者は、この現状を改善していくために道徳の授業の在り方を、教師中心の コミュニケーションによる授業と子どもたち中心の:コミュニケーションによる 授業という観点から考えてみたい。岡田は、「コミュニケーションの形がいか に人間形成を規定しているかを考察する上で、授業の語りの吟味は不可欠の作 業である。それはもちろん、学校での授業が人間の知的形成を直接に目的とす る営みだからであるが、それだけではなく、授業のコミュニケーションが非常 に特殊な構造を持っており、それ自体が興味をひく珍しさをもっているからで ある」ωと述べている。さらに、H・メーハンの指摘で有名な例を挙げ、一般 の会話では、「山田さん、今何時ですか。」「2時半です。」「どうもありがとう。」

となるところが、授業の会話では、「山田さん、今何時ですか。」「2時半です。」

(D岡田敬司 『コミュニケーションと人間形成』ミネルヴァ書虜、1998年、111頁。

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「そうです。よくできました。」となると述べている(2)。一般的な会話では、

知らない者が問い、知っている者が答えるのであるが、授業においては知って いる者が問い、知らない者が答えるのである。一般的な会話に反して授業にお ける会話は成立しているという点に特殊性があり、異様と思われる面でもあろ う。しかし、これは成熟した大人と未熟な子どもという関係においては、当た り前のこととして捉えられるのである。つまり、第1章で述べたように、教師 と子どもの関係は、主体一客体(対象)の関係となっている。学ぶ客体として の子どもたちは常に受身であり、その中からは子どもの主体性は育たない。教 師の行為は、ハーバーマスの言う成果志向的行為そのものだからである。

 わが国における教育は、子ども中心と言いつつ、教師からの一方的な知識の 伝達がなされているのが現実である。また、新しい学力観を目指しながら、伝 統的な教師中心型の授業から抜けきれないのも現状であろう。

 道徳授業においては、「本音とたて前」ということが問題にされ、本音が出 せる授業を目指そうとしてきた面がある。しかし、それは授業において、どの

ようなコミュニケーションの在り方を目指すのかという視点を抜きにしては語 れない。筆者の目指す子どもたち中心のディスクルスによる道徳授業を進める においては、ほミュニケーションの在り方を明確にし、田指すべき具体的な方 向を示したいと考える。

1 教師中心のコミュニケーション授業

 人間形成や教育の場において、コミュニケーションの重要性は言うまでもな い。しかし、そのユミュニケーションが不全状態となり、子ども同士、または 子どもと教師の人間関係においても大きな歪みを生じてきていることは、今日 における教育の諸問題からみても明らかである。例えば、校内暴力や不登校、

いじめ問題などの増加や、昨今の新たな問題としての学級崩壊もその例と言え るであろう。教育におけるこのような状況を引き起こした原因の一つに、学校 におけるコミュニケーションの在り方も問われている。いじめや校内暴力など の「荒れ」に関して各国の対策を調査した有元は、「北欧やイギリスやオース トラリアのいじめ対策では、いじめもその中核に自己主張や話し合いや子供同

〈2)潤鍛、前掲書、112頁。

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士のカウンセリングによるいじめ解消策が取り入れられている」と述べ、「こ れらいじめ対策の先進国で周到な準備のもとに、体系的にかつ本格的に行われ ている解消策は、すべてロミュニケーション技能の育成」ωだと断書している。

 道徳の授業においても、低学年から高学年に至るまで、教師中心のコミュニ ケーションの授業、いわゆる従来の伝達型授業が一年を通して行われていると いう現実がある。つまり、授業でのコミュニケーションは「伝達」のレベルで しか捉えられていないのである。徳永らは、『対話への道徳』で次のように述

べている。

 現在、お世辞にも道徳教育がうまくいっているとはいいがたい。校内暴力 が沈静化したかと思ったら、陰湿ないじめが学校を躁呈し、不登校児がどん

どん増えている。指導と称した教師による体罰も絶えない。これには、実に さまざまな、おそらくだれも全体を見渡せないほど複雑に絡み合った原因が あるであろう。しかし、何よりも対話的知性を育むはずの道徳教育が、わが 国においては、非対話的な教育体制でなされてきたことが、その大きな原因 のひとつであることは、間違いなさそうであるω。

 教師からの「伝達」を中心とした授業は、非対量的でありその点からは、教 師のモノローグであったと言える。しかし、これは教師だけの責任という問題 ではない。加藤が、「ことばえらびの技術が、われわれ日本人はおおむね上手 ではない。要するに、会話のことばが下手なのである。人間同士むきあって、

相互の化学変化を促進するような会話のことばを使うことが実に拙劣だ。じっ さい、日本の会話や議論はしばしば対話ではなく独白である」(5》と指摘するよ うに、モノローグ的な話ことばが伝統としてあるということも言える。

 言語識ミュニケーション能力の育成は、基本的な社会モデルや価値観の選択

〈3)有元秀文 『いOめ解消をめざした、スピーチニミュニケーション技能の開発に関する総  合的研究一マルチメディア教材の開発を田野として一』並998年、1〜2頁。

(4>徳永正直・堤正史・宮嶋秀光編 『対話への道徳教育』ナカニシや出版、正997年、89〜

 90頁。

(5)加藤秀俊 『人間関係』中公新書、1969年参照。

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と深く関連している㈲と言われるように、どのようなコミュニケーション教 育を行うかは、われわれがどのような社会を目指すかということと切り離して 考えることはできないと言えよう。

2 子どもたち中心のコミュニケーション授業

 教師中心の授業の対話の典型を伝達型授業だとすると、子どもたち中心の授 業の典型がディスクルスによる授業であると考える。ディスカッシ溺ンやディ ベートとの対比は後で述べるとして、ディスクルスを、相互行為の場のコンテ クストをなしている規範や共通了解を問い直し、新たな合意をつくり出す営み として捉えたい。

 二種類の授業におけるコミュニケーション形態の違いを、簡単にまとめたの が表1であるω。

表1  授業比較

伝達型授業(教師中心)

主に教師が語る。

教師から子どもへのコミュニケーシ

ョンカ§中心。

諮問一応答一評価のパターンカ沖心。

子どもからの質問や反論はほとんど

ない。

子どもは応え方の知識を示す。

正誤は前もって決まっている。

正誤は教師には分かっている。

全員一致すべき正答がある。

教師による正・誤の評価がなされる。

ディ:スクルスによる授業(子どもたち中心)

主に子どもたちが語る。

教師から子どもへ、子どもから教師へ、子どもか ら子どもへなどの多様なコミュニケーシ3ン。

多様な語りや問いぶ中心。

子どもたちからの質問や聞き返し、反論が自由な 雰囲気で出せる。

子どもは課題(問題)についての知識を示す。

正誤はディスクルスの過程で決まったり、決まら なかったりする。

正誤は教師にも分からないことが多い。

多様な答え・考え方がある。

教師・子どもたちによる合意・不合意がなされる。

(6)三樹男編『日本語学7月号』明治書院、1998年、18頁。

(7)岡田、前掲書、第3章をもとに筆者が一部変更したもの。

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 この表をもとに、二つの授業をそれぞれの観点から比較してみたい。両授業 の違いは、一言で言うと教育の場における教師中心のコミュニケーションと、

子どもたち中心のコミュニケーションということであるが、これは換言すると、

伝統的教育と新教育の対比と同様である。しかし、また別の比較も考えられる。

それは、それぞれのほミュニケーション形態における真理の位置の違いである。

表1で示されている項目の⑤⑥⑦の対比がこれに関連する。

 伝達型授業は、真なる物事は教師の中にあらかじめ存在し、教師の語りを通 して子どもの中に伝達される。永遠の既存の真理を伝えるのが教育となる。し かし、ディスクルスによる授業では、そのような既存の真理は前提とされない。

完成された真理は教師の中においても存在しない。ディスクルスに参加するメ ンバーは、自分のパースペクティブからする真理像を、超越的な尺度によって 正誤を問われることなく発言することができるのである。しかし、それは個人 と個人とのつながり(間主観性)により社会規範が築き上げられるというディ スクルス倫理学の、普遍化原則(U)に基づかなくてはならないと考える。

 普遍化原則(U)では、みんなが合意し妥当な規範とされたものは、論議の 参加者全員にとって承認するに値し、受け入れられるというものでなくてはな

らないのである。ハーバーマスは、次のように述べている。

 普遍化原則とは、G・H・ミードが『理想的役割=取得(id副role−taklng)』

あるいは『普遍的討議(腿nivef謡dis◎ourse)』と呼んだ、かの普遍的な役割交 換を強いるところのものなのである。それ故、すべての妥当な規範は、つぎ の条件を満たすのでなければならない。一それにすべての人が従った場合に、

すべての個人ひとりひとりの利害関心の充足にとって生ずる(と予期しうる)

結果や随伴結果を、すべての関与者が受け入れること(8)。

 つまり、神の権威によったり一部の権威者によって決定されるものではない ため、議論に参加している者全てが責任ある行為を取らざるを得ないのである。

このことは、従来の道徳教育において言われ続けてきた道徳授業で学習したこ とが道徳実践に繋がらないという最大の問題を、克服していくものと考える。

(3)ユルゲン・ハーバマス、三島憲一・中野敏男・木前利秋訳 『道徳意識とコミュニケーシ  ョン行為』岩波書店、互991年、109頁。

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