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第3章  道徳性の発達段階の再構成

第1節  ディスクルスによる道徳授業の視点

 21世紀を臼前にし、今日のような価値の多様化の時代においては、どのよ うに考え行動することが正しいのかを、お互いに意見を交わしながら自分たち で考えていくという視点が重要になってくるであろう。わたしたちが生きる近 代社会は、個人を基盤にする社会であると言われるが、もはや伝統的社会に存 在していた社会全体を統合するものや「神」のような存在に支えられていた道 徳観は、新しい時代の到来と共に根底から崩れ去ろうとしている。教育現場に おいても、この影響は計り知れない混乱を引き起こしているのである。社会の 変容に始まって、目の前の子どもたちの変容、そして親の変容に至るまで著し いものがある。最近では、真摯に道徳学習に取り組もうとしている教師の中に おいても価値の多様化に対応しきれず、今まで正しいと思っていたことに疑問 が生じるようになり「道徳の授業がやりにくい。」と嘆く声すら聞かれるよう

になった。

 このような現状の中で、従来の価値:の伝達、価値の押しつけ一辺倒の授業で は道徳授業は成立しないことが容易に理解されよう。道徳授業において、なぜ その判断が正しいのかということを吟味し、自分たちが本当に納得する規範を つくり出し実践していくという取り組みが、今最も重要視されなければならな いい時なのである。前章で述べたように、ハーバーマスは、「人倫」という外 的な価値・規範に由来するものと、「道徳性」つまり相互行為調整能力という 二つの面を統合しようとする理論を提唱している。道徳は、「人倫」と「道徳 性」がお互いに作用してこそ、成り立つものと言えるのではないだろうか。今 まで、このような視点が全くと言っていいほど欠けていたのである。子どもた

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ちに社会規範や徳目という結果だけを教え込まずに、なぜその規範がっくられ たのかということを重視した道徳教育が、なされなくてはならない理由がそこ にもある。そのために、筆者は子どもたちと共に「なぜそう判断するのか」と いうことを十分話し合い、今ある価値を見直しながら、みんなが納得できる新 しい規範を創造していくことを基盤に据えた道徳授業を創造したい。そして、

自分たちの考えに基づいて判断し行動するという主体的な行為調整能力の形成 を図りたいと考える。ハーバーマスの言葉をかりると、成果志向的授業モデル から了解志向的授業モデルへの転換が必要であると言える。以上の考えに基づ き、ディスクルスによる道徳授業の視点として次の3点を掲げたい。

1.ディスクルスによって、相互行為調整能力を高めていく。

2.妥当性要求に基づいたディスクルスを通して、了解による道徳の形成

  を図る。

3.ディスクルスを通して、理想的発話状況をつくりだし、子どもたち主  体の場(トポス)づくりを目指す。

以下、上記の3点について詳しく述べたい。

1 相互行為調整能力の育成

 前章で述べたように、道徳性の発達段階をハーバーマスの言う相互行為(コ ミュニケーション的行為)の発達般階として捉えていくこととする。

 従来の道徳教育は、個々の児童の主観的心情レベルに留まるか、社会規範の 伝達に留まるかのいずれかであったため、集団と諸個人との関係が明確ではな かった。子どもたちは、友達の意見を聞きながら相互に理解し合い、教師から 伝えられる価値を受け入れればよかったのである。そのような授業においては、

子どもの主体性は必要ではなく、ただおとなしく聞いていればよいという姿勢 に陥ってしまう。主体性どころか子どもからの質問や反論がくると、授業が混 乱してしまうという事態も生じてしまうのである。教師にはその時間で教えた いと思うことが定まっているので、いかにスムーズに分かり易く子どもたちに 伝えられるかが優先されてしまう。しかし、これでは、話し合い活動を適切に 捉えられないばかりか、集団が個人を掬圧し不適応を生じさせてしまうことに もなりかねない。単に個々人の考えの違いや同一性を確認し合うだけでは、問 題の解決にはとうてい繋がらないのである。

 道徳性を、話し合いで合意していく力、つまり相互行為調整能力と捉えるこ

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とによって、上記のような問題を克服していけるものと考える。子どもたちが 主体的に自分たちの社会の基盤にある規範を見つめ直し、お互いの合意をもっ て、自分たちの規範につくり変えていく能力を育成するのである。つまり、筆 者の主張するディスクルスによる道徳授業を設定することによって、子どもた

ちの道徳性をより高めていくことができるものと考える。

2 了解による道徳の形成

 渡邉は、今最も大切なことは、大人社会の価値・規範を伝達し内面化すると いう従来の教育の枠組みから、教師と児童・生徒の相互主体的な関係において、

了解志向的に価値・規範を築き上げていこうとする、教育のパラダイム転換で はないだろうかと述べているω。

 道徳における問題も、教師から子どもへの価値伝達を中心とし、子どもから のボトムアップ的な面は皆無に等しかったという事実がある。子どもが変わり、

社会が変わっても、従来の価値を注入しマンネリ化した授業を繰り返している という道徳授業の姿は、教育の歪みを助長する何者でもないと言えるのではな いだろうか。そのことを子どもたちは今、不登校、いじめ、校内暴力、学級崩 壊等の様々な行動で示していると言っても過言ではない。子どもたちを主体に したディスカッションによるモラル・ジレンマ授業も、話し合いが個々の道徳 性を高めていく手段として位置づけられているので、個人主義の問題を克服す

ることができない。山根は次のように述べている。

 道徳教育は、既存の道徳的規範をたんに内面化させ、子供を道徳的に訓下 することでも、またたんに個々人の自主的判断を価値あるものとして認める

ことで終わるものでもない。既存の価値について、これに意識的主体として 対応できるカをつけること、つまり道徳に関して主体的自主的判断能力を身 につけること、そしてこうした個々人の自主的判断の価値をあくまで認めっ つも、他者のそれとの交流を通じて、討論や議論を通じて共通に納得しうる 規範を形成していくこと、そのことによって自らの規範意識をより普遍性の あるものに高めていくこと、こうした活動を助成するところに道徳教育の意

(D渡邉満 「コミュニケーション的行為理論による道徳教育基礎理論の探求(1)」『兵庫教  育大学研究紀要』第14巻、1994年参照。

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義が存在するのである(2)。

 つまり、話し合いの中で十分なコミュニケーションを図り、互いの了解を得 る時点まで押し進めることによって、子どもの道徳性を高めることが可能にな ってくるのである。よって、子どもの道徳性における主体性を実現するには、

道徳授業は勿論、価値の伝達を志向するものではなく、了解を志向するもので なくてはならないと考える。道徳授業をいかに構成するかは、了解過程をいか につくり出すかということにかかわってくるのである。

 そこで、筆者はハーバーマスの言う三つの世界(客観的世界、社会的世界、

主観的世界)に関わる妥当性を言明することにより、個々の妥当性要求をディ スクルスによって吟味し、了解による道徳の形成を図りたいと考える。第2章、

第3節で述べたように、道徳教育を渡邉の言う子どもの社会化、つまり「社会 的自己形成」という視点(3)で捉えたとき、了解志向的なコミュニケーション 的行為による道徳授業への転換が重要とされるのである。

3 子どもたち主体の場(トポス)づくり

 ディスクルスにおいて歪められていない言語コミュニケーションがなされた 場合のみ、真の了解に達することができ、そのような状況をハーバーマスは「理 想的発話状況」と呼び、コミュニケーション的行為が成立する基盤として捉え ている。しかし、現実にはディスクルスは様々な制約を受けるため、ディスク ルス倫理学が提唱するような相互主体性を実現することは困難なことであると いう意見も聞かれる。それでは、「理想的発話状況」というものは、全く実現 不可能なことであると言えるのだろうか。それを不可能なものとしてしまえば、

諏ミュニケーション的行為そのものも否定されることになってしまうのではな いだろうか。

 不登校、いじめ、学級崩壊等の問題に見られる子どもと教師との関係や子ど もと子どもとの関係、さらには個と集団との関係等、それぞれの関係はコミュ ニケーションを外しては語ることはできない。それぞれの関係における歪みは、

学校システムからくる管理教育や競争教育等の問題に要因するものとも言われ

(2)田子健編 『人間科学としての教育学』勤草書房、1992年、138頁。

(3)渡邉、前掲論文参照。

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