コミュニケーション的行為の理論に基づく道徳授業の創造 : 子どもたち主体の場(トポス)づくりを通して
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(2) 会化論的道徳教育論を考察する。そして、二人. 発達と社会的認知の装置との二つの軸に沿って. の理論を批判的に取り入れながら、道徳性の発. 整理している。つまり、道徳性の発達段階を個. 達を相互行為の発達段階として捉え直したハー. 人が社会に対してどのような視点をとるかとい. バーマスのコミュニケーション的行為の理論や. うことを通して措定し、道徳性の発達のメカニ. ディスクルス倫理学を援用し、その教育的意義. ズムを明確にしたのである。. を明らかにした。. 第4章では、第2章・第3章での理論的な考. ハーバーマスは、コールバーグの道徳性の発. 察をもとに、ディスクルスにおける道徳授業の. 達段階が個人の枠内で捉えられているという個. 基本的な考え方を明らかにした。授業における. 人主義的な限界を克服するために、デュルケム. コミュニケーションの在り方や、ディスクルス. の指摘する社会的な環境やシステムを個々人の. と他の討論型授業を比較し、合意形成に向けた. 道徳性との観点を導入することによって、相互. 討論型授業の具体的な取り組みの方法や、授業. 行為(社会的行為としての言語コミュニケーシ. 構想を明確にした。. ョン行為)の発達段階として捉え直す。道徳は. 第5章では、授業実践の視点や道徳授業モデ. 単に個人の内的な在り方、あるいは個人の行為. ルを創造し、実際の授業での子どもたちの反応. の原則ということではなく、個々人の織りなす. を分析し、ディスクルスによる道徳授業の成果. 祉会の原則でもある。ハーバーマスはこの社会. や意義について述べた。従来の道徳授業は個人. 的な側面と普遍的な側面を設定しながら、討議. に対し、大人が一方的に善いとされる価値を教. (ディスクルス)をすることによって合意を目. え込み内面化させようとしてきた。それが道徳. 指し、それぞれの主張の妥当性を吟味しながら. 実践力となって外面化していくと考えられてき. より合理的な原則を見出していく。つまり、相. た。所謂、成果志向的な行為である。教師から. 互主体的な討議により、社会規範を築き上げて. 子どもへ伝達されていく学習であり、教師と子. いくというディスクルス倫理学の考え方を打ち. どもの関係は、主体一客体関係として位置づけ. 立てた。今目のような価値の多様化の時代にお. られる。しかし、教育をディスクルスを中心と. いては、どのように考え行動することが正しい. した了解志向的行為として捉え直すことによ. のかを、お互いの意見を交わしながらみんなの. り、お互いの関係は相互主体関係となり、教室. 合意のもとに判断するという視点が重要になっ. という社会は相互行為調整の場となる。道徳的. てくるのである。. 行為の考え方や正しさの根拠を協同で追究して. 第3章では、道徳の授業を明確に捉えていく. いく中で、子どもたちの行為調整が行われ、学. ために、道徳性の捉え方とその発達段階につい. 級の質も高まってくるのである。みんなの合意. て考察し、ハーバーマスの視点を取り入れた。. を目指すディスクルスによって子どもたち主体. 道徳意識の発達を前慣習的段階、慣習的段階、. の場が形成される。そして、薪たな「規範構造」. 脱慣習的段階の三段階と捉え、それぞれ自己中. に基づいた学級が成立し、そこに参加する個々. 心的行為のレベル、社会的規範的行為のレベル、. 人の道徳的成長も生み出されるのである。. 主体的批判的倫理行為のレベルに対応させつつ. 主任指導教官 渡邉 満. それぞれの段階の特徴をパースペクティヴの. 指導教官. 渡邉 満.
(3) 学位論文. コミュニケーション的行為の理論に基づく道徳授業の創造 一子どもたち主体の場(トポス〉づくりを通して一. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科. 学校教育専攻. 生徒指導コース 大 嶋 澄 子. M98153C.
(4) 目. 次. はじめに 一…一…一…一…一……一………一…一………一…一……一一一……一……一1. 第り章 周題の所在と研究目的 第1節 現代社会と教育の抱える問題 一一………………一一一一・…一…………一4 1 社会の変容と子どもの変容q……一一…−一薗…曹一…“嫡噸’一”曙”−一胴’一一噌−刷層’q一噌”…5. 2 学校のシステム化と教育のパラダイム転換…一一一……一……一…一……噂’一・6. 3 「子ども」の誕生…一…一…………一………一…一……一…一……………一・7 4 子ども主体の幻想一…一……一……一一…一一……一……一一一………一……一一9. 5 「学び」について……………一…一………一………一…………一……一等0 6 コミュニケーション不全の症候一………………一一………一…一……一一一…12 7 子どもたち主体の場の喪失……一…一………・哺……’……一一齢…一…一……14. 第2節 道徳教育の現状と課題 ………一………一一………・一………一……16 1 「道徳」について …………一……一一…一…………一…一…………一…一一16. (1)道徳の語義 (2)道徳の二つの性格 (3)道徳教育の基本的視点 2 学校における道徳教育一…………一一…一一一…一……一……一一一一…一……一・20. 3 「道徳の時閥」の設置と現状一一…一……一……一………一一………。………22 (1)「道徳の時間」について (2>「道徳の時間」の現状. 第3節道徳授業の問題点と課題……一…………一一……………一一一一…一24 1 道徳授業における問題点 一………………一一一…一……一……一一…一……24 (1)心情主義の問題 (2)インカルケーションの問題 2 道徳授業における課題と方向 ………一一…一魯一…嚇一…一櫛樋 …一一……一一…噂噂28. 第2章 道徳教育論の考察と新たな方、向 第1節 コールバーグの道徳教育論 ……一…一………一……一…………・…30 1 基本的な考え方 ……’一……一…一一塵……薗…一一一……一……一一一一………・30 2 道徳性の発達段階の捉え方 一一…一。……一一…一一……………一…一一………31. 3 認知能力と役割取得能カ 一……一一一…一……。……………8鱒…一………一一33. 4 モラルジレンマによるクラス討論方式一……一…………一一…一…………・34 第2節 デュルケムの社会化論的道徳教育論一…一一一一…………・一一一一………36 1「社会規範」としての道徳 一………一一一一…曜”一一…一一…一一’一…一一脚一一一一畠…一一一36 2 道徳性の3要素 …一……一…一一…”””一.一獅一…舳,…嚇.一讐輪一’一一昂軸嚇一……一…一一・37. (1)規律の精神 (2)社会集団への愛着 (3)意志の自律性. 3「社会化された個人」の形成としての道徳教育一…一……………・……一…39.
(5) 第3節 ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理諭 ……・一一………42 1 コミュニケーション的行為の理論 一…………曹……’一…一鱒轟…・……一貞”42 2 普遍的語用論 層−“層’一’鱒嫡}刷駕’”…層’一−一旬.扁胴層層’.燭一“轍’”一’廓轄冒層一}冨−一’一一−’「−’}騙’”43. 3 妥当性要求と三世界 一”………一…一…一……一一…………一……−’…一一一一一45 4 行為の四類型 一一一一口鞘櫛一嚇一一一’卿一一.一’響一’鱒層一一一層一一”一”一一一’隔幽層一口輯鞘聯”一一’’”一’一韓噂輌一”47. (1)目的論的く戦略的)行為 (2)規範規制的行為 (3)演劇的行為 (4)コミュニケーション的行為 5 コミュニケーション的行為の理論の教育的意義 …。一……一一……一……一51 (1)教室という集団の捉え方 (2)主体一主体関係への転換 (3)相互作用から相互行為への転換 6 ディスクルス倫理学一…一……………一一一…一一……一……一……一………55 (1)ディスクルス倫理学の基礎的理解 (2)理想的発話状況への規範群 (3)ディスクルス倫理学の教育的意義. 第3章 道徳性の発逡段階の再構成 第1節 道徳性の意味 ……………一…一一………………一・…一………・…60 第2節 道徳性の発達の捉え方一…一一…………一一…………一…・…一…一…一・62. 第3節 道徳性の発達と教育 …一……一……一……………一…一一…一……63 1 ピアジェの認知発達理論 一一…一……一…一一一……一…一一……一……一…63 2 コールバーグの道徳性発達段階の考え方 …………一一……一…一………一66 3 ハーバーマスの相互行為の発達段階の考え方…………一……一一一一……一…69. 第4章ディスクルスによる道徳授業の創造. 第1節 授業におけるコミュニケーション ………………一・……………75 1 教師中心のコミュニケーション授業 …………一一……一……………一…76 2 子どもたち中心のコミュニケーション授業……一……一……一…’一…一・…78. 第2節 討論型授業の概観と問題点 一……一…………一一………一………一…80 1 モラル・ディスカッションによる道徳授業……一…一………一一…………80 2 ディベートによる道徳授業……………一…一…一……………一一……一82 第3節 ディスクルスによる道徳授業の創造 ……・……一……一…一………85 1 ディスクルス成立の条件 ………………一一……一……一……一……一…85 2 ディスクルスによる道徳授業…一……一一……一一一………一………一……87 3 ディスクルスにおけるコミュニケーション能力の育成…………・……一一・89 (1)コミュニケーション能力について (2)コミュニケーション能力を育てる条件. 第5章 道徳授業実践. 第櫛. ディスクルスによる道徳授業の視点 ……一一一一…一…一…一………94. 1 相互行為調整能力の育成 …一……一…一… 響 ’一“..嘲一需一’q単輔’”一一卿願曽一嘲『一嘩嶋鞠一’働95.
(6) 2 了解による道徳の形成 ……………一一…一一一…葡一一…・一……一庸一… ’一…96. 3 子どもたち主体の場(トポス)づくり ………一………一……一……’一…’97 第2節 道徳授業モデルの構築 一…………一……一……一一…………一…一一一99. 1 新しい道徳授業モデルの視点………一…一……“句……………一…鵯……99 2 新しい道徳授業モデル……“…一………一…瞥…’……一…’”’…………100 第3節 道徳授業実践 ………一………一一……………一一…一一……………一102 1 授業計画と内容 …一……一………一……一…………一一………………一102 2 ディスクルスのルールづくり一一…一……一一……一一一一……一………一一一…一103 (屡)目標づくり. (2)ウォーミングアップづくり (3)道徳授業の振り返り 3 道徳判断カードの活用 ………一…一…一一……一一…………一…一……一108 4 ディスクルスによる道徳授業展開例……一一一………一一一……一一一………一109 5 授業分析・考察 …一………一……一…………一一…一一………………一113 (1)ディスクルスによる道徳授業分析の視点 (2)課題と方向. 第六章 総合曲考察 第1節 理論的考察 …一一………一一…・一一…一……………一一………一……一一12壌. 第2節 実践的考察 ……一…………一一…………一一……一……………一…124 おわりに 一一…一…一…一一一……一∴…一…一一…一一一…一一…一一一・…一一127. 参考文献一覧………………一一……一…一一……一…一一……………一………129 付記……………一一…一…一一一一…………一一一一一……………一一一………・…一…132. 資料編 Append i x. A. 実験授業「イルカ退治事件」………一一…一…一………一…一…133. AppendlX. B. 実験授業「村長の決断」’…冒”廊’一掌’一一“‘“一一甲一嫡“一’”層一一囎一一一噂印’144. Append i x. C D. 実験授業ギわたしのいもうと」 ……一…………一……一……159. Append葬x Append i x Append i x. E F. 実験授業「どうずればいいの」…一…一一……一一一………一一…173 実験授業「だれが拾うの』…一………一…一一…一…………一・185 道徳アンケートの内容・結果 一…一………一一一…一一。…………200.
(7) はじめに 今教育が大変な状況にある。教育現場における問題は、いじめ、不登校、 校内暴力、学級崩壊等、留まることなく次々に浮上し重要な社会問題にまで なっている。これらの原因については、高度資本主義社会の生んだ物質主義、. 学校の管理体制の問題や受験教育の歪み、地域や家庭の教育力の低下など様 々な原因が叫ばれている。しかし、教育における様々な問題は解決の方向が 見えず、さらに混迷の状況にあると言っても過書ではない。. 平成董0年の文部省『中等教育資料』によると、児童・生徒を取り巻く状 況は極めて悪化し、少年非行は警視庁において「戦後第4の上昇局面をむか. えた」と分析がなされているω。さらには、非行の低年齢化が進み、強盗 や恐喝により補導された少年の数が急増するなど凶悪・粗暴化の一途をたど. り、今日の教育を危機的にしている。また、平成9年の神戸での中学生によ る連続児童殺傷:事件や平成10年の栃木での中学生1年生による教師刺殺事 件が、日本社会や学校現場に大きな衝撃を与えたことは記憶に新しい。子ど もたちのβ常生活の場は、「キレる」「ムカつく」という言葉に象徴される ように他者との関わりに歪みが生じ、よりよい集団を形成するに至らないの である。このような子どもたちの諸問題の背景には、盛会の物質的な豊かさ による個々人の思考や行動の私事化傾向と享楽主義的傾向の蔓延があると雷 われる。物の豊かさの陰で、心の豊かさが見失われ、さらに人間喪失を招来. することになるという本質的な問題に直面していると言わざるを得ない。教 育審議会をはじめとした世論の全てが道徳教育を重視すべきだとする声を高 めた背景には、このような社会の状況があり、今道徳教育に求められる期待 は大きい。. しかし、今日の道徳教育の現状を見るとき、子どもたちや社会の大きな変 容にも関わらず、安易に従来からの価値を伝達し教え込むという道徳教育の みに終わっているという現実があることを否定できない。とりわけ道徳教育 の要であるとされている「道徳の時間」においても、同様のことが言える。 この点については第一章で述べるが、道徳の内容は修身科の内容とは大きな 違いがあるにもかかわらず、授業方法は修身科教育の場合とほとんど変わっ ていないと言われる。こうして、知識はあるが実践できない子どもが増え、. (1)文部省『中等教育資料』5月号、1998年参照。. 嚇レ.
(8) 「道徳性」と「道徳性に関する知識」の畢離の問題が今日まで解決されない. ままなのである。このことは、教師にとっても子どもたちにとっても道徳授 業から遠ざかる一つの原因となっている。1958(昭和33)年に道徳が学習指. 導要領に位置付けられてから、既に40年が経過しようとしているが、知識 や価値を伝達する教科指導の方法で道徳の授業が行われている点について は、何ら大きな変化は見られないのである。しかし、今日の教育の現状や21 世紀を目前にしたわが国の教育事情、世界の教育改革の大きな流れ等を直視 するとき、従来の教育そのままでは対応しきれないという危機感が、ひしひ しと迫ってくるのは筆者だけではあるまい。. さらに、筆者も近年低学年を担当して経験した「学級崩壊」(文部省の報 告書によると「学級がうまく機能しない状況」ω)やいじめ、不登校といっ た現象について、子どもたち主体の場づくりの面から捉えてみたいと考える。. 最近では、ベテラン教師も「今までの指導が通用しない」や「経験や常識で 太刀打ちできない」と訴える。今まさに、現場での教師のほとんどが今まで とは違う苦悩を味わいながら日々奮闘しているというのが実状であろう。筆 者も恥ずかしながら教職生活について20年を超える。・子どもたちのよりよ い成長を願って、力不足ながら全力で頑張ってきた。振り返ってみると失敗 の連続ではあったが、子どもたちとの学校生活を有意義に楽しく送ることが できたと言える。そして、そろそろ余裕をもって教育をしなければいけない 年齢にきたと思った頃に、「学級崩壊」寸前の低学年と出会ったのである。. 席に着かない、勝手なことをしゃべって話を聞かない、一度に数カ所で舞々 が起こる等挙げればきりがないくらいの問題が次々に発生し、まさにパニッ ク状態の学年であった。いや教師がパニック状態だったと賜う方が正しいの かもしれない。子どもたちはそれぞれに楽しんでいるのである。学級集団と 言うにはほど遠い個々バラバラの子どもたちを見たとき、筆者には届かない けれど子どもたちが叫びや救いの声を上げているようにも感じたのである。. そして、1年間の悪戦苦闘の中で確かに分かったことが一つだけあった。 それは、教師が、学校がもっと変わらなくてはならないということであった。. 渡邉は「今日の学校における子どもたちの生徒指導上の諸問題は、大人の子. (2)学級経営研究会 「学級経営をめぐる問題の現状どその対応(中間まとめ)一関係者間. の信頼と連携による魅力ある学級づくり一」 『学級経営の充実に関する調査研究』. (平成10・H年度文部省委嘱研究申間報告書:骨子)、監999年、9頁。. ・2・.
(9) どもへの対応が生ぬるいから生じるのではなく、社会の大きな変化にもかか わらず、相も変わらず大人から子どもへの一方的な伝達と要求として教育が 展開していることに由来すると考えるべきなのであり、そこに大人と子ども の間で葛藤が生じるのは、むしろ自然なことと考えなければならない」ゆと 述べている。心の病んだ子どもたちのことがよく問題にされるが、本来集団 の中において育つはずの子どもたちがなぜ、集団から抜け出し集団を拒否す るのか。子ども個人の問題だけではなく集団の在り方も問われなくてはなら ないのではないか。神戸の事件での少年は、自分の存在を透明な存在として 表現し、学校・家庭においても本当の自分の居場所がなかったと言われてい る。また、授業中において私語をする子どもたちは、周りにいる友達を空気 と同様の存在としてしか見ていないというようなショッキングな言葉も聞か れる。さらに、いじめ問題が一般化し、子どもたちは今や勉強ではなく友達 関係において異常に神経をつかって学校生活を送っているのである。このよ うな集団の場において、子どもたちが正常に成長し、楽しい学校生活を送る ということは不可能であろう。個の存在が認められ、お互いに成長し合う居 心地のよい場(集団)づくりはどのようにあるべきなのか。今までの多くの 教師が目指してきたことではあるが、従来の取り組みでの間違いはなかった か。筆者の中に悶々とする疑問を本研究で解いていきたい。そして、教育と. いうものをもう一度根底から捉え直し、21世紀に向けた新しい教育のスタ ートを子どもたちと共に切りたいと考える。. そこで、このような課題意識に立ち、教育が今日におけるような状況をつ くり出した様々な要因を、学校と社会との関係、子どもと教師の関係等から 明らかにし、今生じている様々な問題を是正していくための、教育のパラダ. イム転換を早急に図らなければならないと考える。よって本論文では、現実 の教育を取り巻く諸問題を根底から見つめ直し、真の意味での子どもたち主. 体の場づくりはどうあるべきかを考察していくこととする。その際の手がか りとして、ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス(J⑰rg職Habe鋤as)の. コミュニケーション的行為の理論やディスクルス倫理学に依拠し、教育全体 を支えていく根幹となり得る新たな道徳授業の創造を目指し、さらにその実 践化を図ることを本研究の課題としたい。. (3)渡邉満「ニミュニケーション的行為理論による道徳教育の可能性」『兵庫教育大学研究. 紀要』第19巻、1999年、95頁。. ・3・.
(10) 第1章 周題の所在と研究目的 1872(明治5)年に日本の近代学校制度が発足して以来約120年を経過し てきたが、今日ほど学校そのものの存在が危ぶまれた時代はないであろう。70. 年代には脱学校論が叫ばれ、80年代には、臨時教育審議会で学校への市場 原理の導入の可否までが検討された。平成10年12月に発表された文部省の 調査では、「学校ぎらい」を理由として30日以上欠席した不登校児童生徒は、. 10万人(小・中)を超えた(4)という厳しい現実がある。今や学校は外部か らだけではなく、その内部からも拒否されようとしているのである。教育に おける様々な問題を考えると、学校はまさに瀕死の状態と言える。このよう な状況の中で、今いったい学校には何が求められているのだろうか。近代化 の行き詰まり、高度情報社会の到来等あまりにも大きな社会変化の波が学校 そのものを根底から揺さぶっている。こうした目まぐるしく変化する先行き 不透明な社会状況の中では、従来のようなある一定のモデルを想定して子ど もを指導していくということは困難に等しい。しかし、我々の有する学校の イメージは、明治期以来、強固に固定化されてきているのである。ここには、. 「教師が教え、生徒たちが一斉に学ぶ場。それが学校なのだ。」という払い がたい先入観があり、それが無意識のうちに再生産されてきた歴史がある①。. 社会の変化に比して、伝統的な教育の呪縛から解き放つことができない学校 の存在があると言える。近年、「自ら学ぶ力」や「社会の変化に主体的に対. 応できる力」といった内省的な学びが求められるのは、こうした時代を反映 しているとも言えるのではないだろうか。. 本章においては、学校や教育そのもののおかれている状況を「学び」その ものや「子ども」という捉え方の原点から探りながらもう一度捉え直し、学 校のパラダイム転換の必要性を述べたい。. (4)文部省初等中等教育局中学校課『生徒指導上の諸問題の現状と文部省の施策について』. 1998年12月、37頁。平成11年8月に発表された「生徒指導上の諸問題の現状について 〈速報〉」では、127,694人となっている。. (5)高橋 勝『学校のパラダイム転換』川島書店、1997年、5頁。. 一4卿.
(11) 第1節現代社会と教育の抱える問題 1社会の変容と子どもの変容 学級を担任すると、そこには様々な問題をもった子どもたちとの対面がま っている。これは教師としては当然のことであり、その問題を子どもと共に. 乗り越えていくことがお互いの成長をもたらしてくれる重要な要素ともな る。問題をもつ子どもの背景には必ず原因があり、それを取り除いたり配慮 したりすることによって、子どもの変容も顕著に見られるのである。しかし、. 教育におけるこのような状況は、もう何年か前のことであったという思いが してならない。「不登校」、「学級崩壊」という言葉が聞かれるようになって. から並行して、「子どもが分からなくなった」とか「子どもが変わった」と いうようなことが親や教師からも言われるようになったのである。このよう. な中で、学校カウンセラーの必要性が大きく叫ばれるのも納得できる。しか し、現実はそれによって全てが解決するという程度の問題ではない。. なぜ、こんなにも子どもが見えにくくなったのか。高橋は、「子どもが見 えにくくなったのは、β本社会の急激な産業化、都市化が大きく作用してい. るのではないか。すなわち、1960年代に始まる日本の高度経済成長が、子 どもたちの生きる生活世界をその根底から変えてきたのではないか」(6)と述. べ、子どもの「自己形成空間」の衰弱化という視点から教育の問題を捉えよ うとする。ここ20年の間に、子どもを取り巻く多様な世界が急速に崩壊し、. 高度情報社会の出現によって、映像や記号などの均質化されたメディア空間 の中に子どもたちはおかれるようになった。直接的な関わり合いの喪失と均 質化された人工空間の浸透、これが現在の子どもに特有な母体をなしている というのである。そこから大人には分かりにくい特異な現象が生み出される のであるω。. 子どもの遊びのメディア化と室内化によって、他者との関係が希薄化し、. 物を媒介とした関係に変質した。結果残されたものは、関わり合う相手の喪 失と自己の孤立化であり、メカニズムとメディアの世界に呑み込まれた子ど もの自我そのものであると掬えよう。都市化の波と共に子どもの遊びのスペ. (6)高橋勝『子どもの自己形成空間』川島書店、1992年、i頁。 (7)前掲書 醸頁。. 簡5廓.
(12) 一スが著しく減少してきたが、それと共に地域や家庭においても、子どもた ちがお互いに関わり合い成長し合う場の喪失が著しいとも言える。このよう な状況の中で、学校の果たすべき役割は、子どもたちの正常な発達を促すた めの新たな関係性をつくり上げる場としての一面を担うことであると言える のではないだろうか。. 2学校のシステム化と教育のパラダイム転換 かつて教育には夢があった。より高い教育を受けることによって、安定し た職業や快適な生活が保障されていたのである。明治以来、おそらく高度経 済成長期にいたるまで、教育を受けることは国民大多数の羨望の的であった。. しかし今日、「教育」ということばは必ずしも肯定的な響きをもつものとは 限らない。広辞苑によると、教育とは「教え育てること。人を教えて知能を. つけること。人間を他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ価 値を実現する活動」㈲とし、子どもの発達を助成する大人の意図的な働きか けであるという考え方が一般的に広く流布している教育観である。しかし、 本当にそうであろうか。. 近代以前の社会においては、子どもは共同体の中で育てられ、様々な人間 関係や通過儀礼を通して大人に育てあげられてきた。それぞれの共同体の中. に子どもを教育する社会的装置が仕組まれていたのである。ところが産業革 命によって共同体が解体し、かつての自然発生的な人間形成の社会的装置が 機能しなくなったのである。それ故、激しく変動する社会を生き抜いていく 上で、「教育」という新しいシステムが出来上がることになった。つまり、. 子どもの発達を助成するという「教育」の背後には、子どもをそのまま放置 せず、様々な技法を凝らしてその能力を無駄なく開発し、社会的に有効に活 用していこうとする近代社会の目論見が潜んでいるのである。子どもたちは、 まるでベルトコンベアーの上を運ばれる品物のように、社会の目的にそって 「教育」されてきたと言っても過書ではない。. 徳永らは、そもそも「教育」には極めて危険な側面があるということを指 摘し、次にように述べている。. (8)新村出編『広辞苑一第四版』岩波書店、蓋991年、661頁。. 一6一.
(13) 大人たちは、犬はワンワン、猫はニャアニャア、烏はカアカア鳴くこと に、また、小川はサラサラ流れるということに疑問を感じることはほとん どないのだが、みずみずしく新鮮な感受性をもつ子どもたちは、一人ひと りがきわめて個性的に犬や猫の鳴き声を聞き、小川の流れを感じ取って、. 独創的に表現することができる。このような子どもたちの感性を統制し、 画一化したり、思考方法や思想にも統制を加えてしまうような側面が「教 育」という作用にはつきまとうのである(9)。. そして、本来の教育は、子ども自身の問題解決への努力を援助する働きで なければならないことを強調しているが、学校現場では従来の教育からの転 換が図れないまま、様々な問題に遭遇しているという状況であろう。. かつて、共同体の多様な人間関係の中におかれ、大人と共存しながら自然 や労働に触れることができた頃から比べると、「子ども」や「教育」の捉え 方自体にも大きな違いが生じていることが分かる。今や子どもは共同体の中 ではなかった固有の場を与えられ、教育的な配慮の名のもとに大人の世界か らは切り離され、抽象化された学習(教育)の世界にがんじがらめにされて いると言えるのではないか。そして、徳永らの言うように、家庭においても 学校においても、大人たちは「教育」の名のもとに、子どもたちの自助への 努力を押さえつけたり、自立への萌芽をも摘み取ってしまっているのではな. いだろうか⑯。そのように考えると、今日の教育を混迷させている様々な 問題は、そのことに気づいてほしい子どもたちからのメッセージのようにも 思える。子どもを「導いて善良ならしめる」という「教育」が充満すること. の怖さを、私たちはもっと早く自覚するべきではなかったか鋤と高橋も述 べている。. 3「子ども」の誕生 これまで子どもと言えばhαno cd腿。鋤dus、すなわち「教育を必要とする人. (9) 徳永正道・堤正史・宮嶋秀光編 『対話への道徳教育』ナ声影シや出版、1997年、. 3∼4頁。 (互0)同上、9頁。. (11)高橋、前掲書、62頁。. 吻7繭.
(14) 間」であり、カントがいみじくも述べたように「教育によってのみ人間にな ることができる存在」㈲であると考えられてきた。しかし、「子ども期」と いう概念は近代の歴史的産物であり、それ以前の中世においては存在しなか ったということがPh.アリエスによって実証されている。. アリエスは、子供という言葉には、私たちが今日付与しているような限定 した意味は与えられていなかった。今日、日常的な表現で「あいつ」(gaτs). と言われるような感覚で、子供という言葉が使われていたと述べている鋤。. アリエスも言うように18世紀の「子どもの発見」以来、大人=成熟、子ど. も=未成熟という枠組みが既に出来上がっており、子どもは常にho田o ed臆ca皿《海s(教育を必要とする人間)、つまり発達途上の未成熟な存在として. 見なされてきた経過がある。だが、子どもを実社会から隔離して、長期聞学 校という教育機関で組織的に教育するという考え方自体は、わが国において もわずか100年余りの間に浸透してきた考え方であると言える。それ以前は、. 前述のように大人と共に生活する存在であり、それぞれの区別すらなかった のである。. ヨーロッパの近代以前の社会、あるいは現代の開発途上国において子ども は大人に交じって働き、子どもだけの生活の場所は与えられてはいない。一 つの場所で大人と子どもは助け合って生活し、子どもは大人の同胞として扱 われている。「子ども」という存在は、単に大人が自己と子どもとの間に引 いた境界線によって、未成熟な者とされてしまったのではないかと言われて いるのである。確かにそうすることによって子どもは過酷な労働から保護さ れ、大人の「まなざし」で守られるようになった。しかしその反面、子ども は自然に得られた労働の技衛や人間関係の在り方、集団の中での共存の生活 感情などを失う結果を招いたのである。とすれば、子どもたちを教育によっ てがんじがらめにしている現代の状況は、異常としか言いようのないことに 思えるのだが、これは筆者だけの思いであろうか。. 渡邉は、配慮(保護)と「未熟な」人間と見ることとは裏腹であり、保護 が強化されればされるほど、子どもを未熟と見なす度合いが強くなる。結局 子どもの自立のための配慮は、子どものままに配慮の下に押し留めるという. (12)1.カント、伊勢田耀子訳『教育学講義他』明治図書、1971年、15頁。. G3)アリエス、杉出光信・杉由恵美子訳駅子供〉の誕生』みすず書房、1980年、122頁。. 駒8鱒.
(15) 逆説が帰結してしまうのである㈲と述べている。このことは、一生懸命教 育に関わりながらも、子どもが分からなくなり教育が拒否される現実を物語 っている。. 4子ども主体の幻想 現在の学校教育において、最も主要な価値として目指されていることの一 つは、自主性であり主体性であろう。学校教育の研究主題をひろってみても、. 「主体的学習…. 」「主体性を育てる…. 」といったテーマがなんと多. いことであろうか。それほど自主的、主体的に思考したり行動したりするこ とが強く求められているのである。しかし果たして、現実の子どもたちは主 体的に学習し行動できているだろうか。現実の教育現場において、常に嘆か れることは、皮肉にも「主体性が足りない」とか「自主的に考えようとしな い」とかいうことである。しかも、今や多くの子どもたちに学校は拒否され る立場となってしまっているのである。こういう現実は、いったいどうして 起こるのであろうか。やはり、それは教師の中に、子どもたちの知的行為を 育てていく論理や法則が存在していないことに根本原因がある。筆者を含め て多くの教師は「学習の主体はあなたたちです。」と言いつつ、教師の側か らの一方的な伝達の授業をβ即行ってきたのではないだろうか。教師の合い. 書下でもある「忙しい」の裏には、教えることが多大で心の余裕すらない状 況が隠されているのである。日々教えることに孤軍奮闘している教師と、教 えられることに馴らされた子どもたちがいる状況の中で、「子どもが主体」 という臥標は単にスローガンとしての役躍でしかあり得なかったのである。. この矛盾は、「子どもを主体的に学習させる」という発想自体が、論理矛盾 であることに気づかせてくれる。つまり、外部から「学習させた」ものは、 既に「主体的なもの」とは言い難いはずだからである㈲。. もはや産業の近代化の時代には奨励された知識を伝達し受容する学びの形 態は、一つの大きな役目を終えたかに思える。もしこれからの学びとして強 要し続けるならば、子どもたちの「学校離れ」はさらに加速化されることで. (14)田子 健編『人間科学としての教育学』勤草書房、1992年、6頁。. (15)高橋勝「〈おとな一子ども〉関係をとらえ直す」日本教育方法学会編『教育方法24 一戦後教育方法研究を問い直す一』明治図書、所収、茎995年、228頁。. 一9一.
(16) あろう。今、教育において真剣に取り組まなくてはならないことの一つが、. 人間にとっての「学び」の根源的な意咲を明らかにすることではないだろう. か。1994年にようやくβ本も「子どもの権利に関する条約」に批准してい るが、この条約では、子どもを単なる「保護の対象」として捉えるのではな く、「大人のパートナー」として位置づけている。次の項では、このような 観点からも、「学び」について捉えていきたいと考える。. 5「学び」について 1980年代からの「豊かな社会」や高度情報化社会の出現は、国内だけで はなく世界的な規模での大きな社会的変動であり、子どもたちの生活世界に も大きな影響を及ぼしている。多様な情報に囲まれ、インターネットによっ て様々な学びも可能になってきたのである。教師の知らないことを子どもた ちが既に学んでいることも十分あり得るであろう。そうすると、〈教師篇教 える人〉、〈子ども=教えられる人〉の従来の関係が成立しなくなることは 明らかである。それでは、人が何かを学ぶということはどのような営みをい うのであろうか。これには様々な捉え方が可能であろうが、基本的には学ぶ ということは、私たちの生活世界をより豊かに組みかえ更新していくことで はないだろうか。人が何かを〈学ぶ〉ということは、その対象を通して、生. 活世界に新たな意味を付与していく営みである。自己の生活世界をつねに新. たに更新していく営み、それがく学ぶ〉という行為にほかならない⑯。現 象学の祖フッサールは以下のように述べている。 生活世界(Lebe盤swe丑t)は、その世界の中に生きている私たちにとって、. つねにそこにあり、あらかじめ私たちにとって存在し、理論的であれ、理 論外であれ、すべての実践者の地盤なのである。世界は、つねに実践的な 関心を抱いている主体としての私たちにとって、たまたま与えられている ものではなく、あらゆる実践の領野としての、地平(H磁zσ競t)として、す. でに目の前に与えられている。生とは、たえず世界への確信の中に生きる. (16)高橋(1997年)、前掲書、15頁。. 一10・.
(17) ということなのである㈲。. 私たちは生活世界の中に生きている。生きるということは、他者との関わ り合いを通して、相互主観的な生活世界を常に新しく組みかえていくことで もある。そのような新しい世界への確信を得るための行為が、学ぶ行為にほ かならない。それはフッサールの言葉をかりれば、私たちの「生の地平」を 新たに広げつつ「確信」に向けて更新していく営みでもある。. 教育の現場においては生活科の導入で、指導から援助、支援へと大きな変 化が生じたが単に生活科のみに留まっている面もある。学びとは、基本的に 私たちの生きている徴界を豊かに組みかえていく行為であるということを把 握しておかなければならないであろう。子どもはその取り組みの中で古い自 己から脱皮して新しい自己を再構築していくことができる。それは極めて創 造的であり主体的なものであろう。決して、一斉に誰かに与えてもらうとい うものではないはずである。. そして子どもが「学ぶ」とは、様々な他者との関わりや多様な経験からで あって、教育を受けた結果だけではないのである。自己を再構築する学びと は、独力でのみ達成されるものではなく、複数の他者と応答的に関わり合う 中で問題解決の視点をより確実なものにしていくことができるのではないだ ろうか。自己の中に他者のパースペクティヴがもたらされることによって、. 学びは自己内対話をさらに継続することができると考える。それは単独者の モノローグでは到達しないものである。このように考えると、「教師対子ど も」「教師から子ども」への教育における図式の転換の必要性に気づくこと ができる。また、自己の成績を上げるためにお互いが競争相手とされた構図 の中での関わりの希薄化は明確であろう。産業の近代化過程における学校で は、知識の効率的伝達のみに目が向けられていて、このような「自分探しの 旅」に繋がる学びは片隅に追いやられていたのであろう。. 子ども自身も勉強の呪縛から少しずつ解放され、本当の自分らしさを見つ けようと苦しんでいるのではないだろうか。不登校児童・生徒の声がテレビ 等の報道を通しても聞かれるようになった。筆者には、不登校という形でし か主体性を出せない子どもたちの必死の声であるように思われた。本来は学. (豆7)E.フッサール、細谷恒夫訳『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』中央公論社、 1970年、 512∼513頁。. 鱒1レ.
(18) 校の中で十分図られなければならない識ミュニケーションなのである。「子 どもがか分からなくなった」ということがよく言われるが、言葉を換えて言 うと「子どもとのコミュニケーションがうまくとれなくなった」ということ でもあろう。子どもたちの生活の中でのコミュニケーションの問題について 次に述べていきたい。. 6コミュニケーション不全の症候 子育てや教育が非常に難しくなっている最大の原因として、核家族少子に. なり高度な文明の中で子どもを取り巻く環境が人工化したことがあげられ る。かつて子どもは群れて遊び、地域の人の温かいまなざしの中で社会性を 自律的に獲得してきた。そうした子どもだけの社会が喪失したことが大きな 問題であることはよく耳にする。集団生活するサル社会では、子どもたちは 群れて遊び、その中で社会性を身につけていく。子ザルを隔離飼育する実験 では、単独で育てられた子ザルは仲間をつくることができず、性行動がうま く発現しない上、子育てもできないそうである。河合雅雄は、「群れて遊ぶ。. それが子どもの自然の一つなのだが、今はその自然発生的なことは望めない。. 子どもたちの集まる場所は学校である。学校が『子どもの自然』を培う場に なることが必要なのではないか。つまり、明治以来、知育を中心にしてつく られてきた教育のシステムを変え、社会性を養う場としての機能をしっかり 織り込んだ経営概念を確立することである」(18)と社会性を養う機能の重要 性を強調している。. 近代化という社会の変化の中で、子どもは過酷な労働から保護されてきた がその結果、社会的役割や多様な人問関係から切断され、学校や親の行き届 いた「教育的配慮」のもとに社会性を奪われ孤立化してきたのである。子ど もにとって親は保護者という名の教育管理者であり、様々な世界を見せてく れる他者ではない。よって、他者を他者として承認した上での相互的コミュ ニケーションは成立しにくいのである。親のモノローグにつき合い同調する か反発するかという関わり合いしかできにくいのである。. 気がかりなのは最近の子どもたちの「他者への徹底した無関心」だと、こ. (18)河合雅雄「学校は子どもの自然、培う場に」神戸新寺、互999年10月2日目朝刊掲載 参照。. 一12一.
(19) の20年間に5,000を超える授業に立ち会ってきた佐藤学頭も言う働。また、 松村賢一は、以下のことを懸念している。. 日本はいま、「言わなくてもわかる社会」から「言わなくてはわからな い社会」へ急速に変わりつつある。終身雇用制の終焉に象徴される共同体 の解体と国際化という内外の要因が「察し」を大事にする伝統的なコミュ ニケーションスタイルの変革をせまっているのである。話し合いによって 理解を深め、問題を解決する能力を身につけないと、すでにあちこちで始 まっているコミュニケーション不全症候群が社会全体に蔓延し、日本に大 きな混乱を招くであろう鋤。. 「言語諏ミュニケーション能力の育成」は、f基本的な社会モデルや価値 観の選択と深く関連している」⑳。どのようなコミュニケーション教育を行 うかは、私たちがどのような社会を目指すのか、ということと切り離しては 論じられないのである。. アメリカでも、ディベートに代表される自己主張教育が盛んだが、これも、. 自由な競争こそが社会を進歩させるという信念が人々に広く行きわたってい ることと無縁ではないと言える。わが国でも健全な民主社会の実現を目指し て、話しことば教育がスタートしたが、やがて偏差値教育に押し潰されてし まった。しかし今、再び識ミュニケーション教育の振興が叫ばれ出したので ある。新しい時代のほミュニケーション教育は、我々を深く支配している従 来のモノローグ的な話しことば観から脱却し、相互主体による通じ合いとい うコミュニケーションの原点に立たなければならないであろう。松村も言う ように「モノローグ型話しことば教育」(大勢の前ではっきり自分の考えを 述べる独話能力を目標とする)から、「ダイアローグ型話ことば教育」(話 し合いによって意見を調整したり問題を解決したりする対話能力の意識的な. (19)NHKETV特集「シリーズ講演ドキュメント。子どもと向き合う②学校はなぜ必要なの か」(教育テレビ、豆998年、55.)における同氏の発言から。. (20)松村賢一『今求められるロミュニケーション能力』オピニオン叢書、1998年、1頁。 (21)杉谷眞佐子「言語3ミュニケーション教育と価値観の変容一コミュニケーション能力 養成の意味を戦後ドイツの学校教育の事例から考える一」(1998年日本コミュニケー ション研究者会議レジュメ). 一13晒.
(20) 育成)へと転換していくことが、今学校に求められているのである。. 7子どもたち主体の場の喪失 近年、教育における薪たな問題としてさわがれている学級崩壊の問題につ いて、筆者は子どもたち主体の場(トポス)づくりの面から考えてみたい。. 高橋は、「日本のばあい、高度経済成長期を一つの転換期として、子ども の生活世界は大きな変貌をとげる。経済成長にともなう産業の集中化と機械 化は、それまでの家庭内労働を不要にした。労働は、工場やオフィスで行な われるようになり、子どもは、作業や労働から閉め出されることになった。. 今日の子どもの家庭内での役割は、もはや労働でも、手伝いでもない。子ど もは、家庭や地域のおとなたちから切り離された結果、『勉強』と『一人遊. び』が、いまや彼らの『生活』の内実となる」働と述べ、かつて共有して いたはずの「共通感覚」の世界が今や確実に崩壊しつつあることを指摘して いる。また、現在の子どもは、「もの」に働きかける場を失うと同時に、「他. 者」との親密な関わりも喪失しつつある。子どもの遊びも、「友の影の見え. ない孤立型」のものに移行しつつある鮒という指摘も現実を直視している ものである。『児童の世紀』を書いたスウェーデンの教育学者エレン・ケイ は、これまでの教育と子どもの関係を、“Ed磁。磁。盤to child瓢”(子どもへの教 育) から “Edu◎a廿on fbr c磁dr㎝” (子どものあるがままの実態を求めよう とする教育)、“Educ磁on wi血ch護dr{ガ(子どもと共に歩む教育)、“Educa縫oM沁m. chi臆㎝”(子どもからの教育)までの4段階で捉えている伽。今までの教育 は、前者の子どもへの教育が中心であったと言える。つまり、教師(大人)からの 一方的な伝達である。. 現実の教育における様々な問題も、この教育のシステムに問題の原因を見 ることができる。このような教え込みの教育では、子どもは常に〈学ぶ者〉. であり、大人は常に〈教える人〉であるという関係が成立することは前述し た。よって、大人の視点から、取捨選択された知識や技能を合理的に伝達す. (22)高橋(1996年)、前掲書、199頁。. (23)深谷墨志『孤立化する子どもたち』縫本放送出版協会、1983年、29頁。. (24)エレン・ケイ、小野寺儒・小野寺百合子訳『児童の世紀』冨山房百科文庫、1979年、 参照。. 一14・.
(21) ればよかったのである。エレン・ケイは、教育者の最大の誤りは、子どもの 個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽 象概念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成 形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎないと 述べている㈲。. 現在のように価値の多様化や先行き不透明と言われる時代においては、従 来の教育の視点を変えていくことが重要になってくるであろう。渡邉は、道 徳教育の現状と課題の中で「押しつけの教育」から「了解の教育」へと説い た。子どもを単に「未熟な人」、「未来の大人」と見ないで、「子どもと共に 生きながら大人の生き方を自ら先取り的に学んでいる人」と捉えることとし、 相互的意味限定の過程としての教育を重要視している㈱。 このことは、エレ’ン・ケイの言う“Edu◎a薩on丘om d並1dτe凱”(子どもからの. 教育)にあたり、子ども自らが参加し、問題状況を積極的に解決していζう という方向への思い切っ.た教育の転換をしていかなければならないことを示. 唆している。相撃的意味限定を可能にするのは、集団の場において子どもた ちがお互いに主体的なコミュエケーションを図ることであろう。このコミュ ニケーション能力をどのように高めていくかが、今後大きなポイントあるい. は問題点になってくると思われる。この点については、第2章においての理 論的な面から捉えていきたい。. (25)エレン・ケイ、前掲書、170頁。. (26)渡遇 満「灘ミュニケーション的行為の理論による道徳教育基礎理論の探求(1)」. 『兵庫教育大学研究紀要』第14巻、1994年参照。. ・15一.
(22) 第2節 道徳教育の現状と課題 第1節においては、現代社会との関係から見た教育についての根本的な問 題点を考察し、問題の藤在と研究黛的を明らかにした。第2節では、わが国 で行われている道徳教育の現状と諸問題について述べ、第3節で、道徳授業 における問題点を考察していきたいと考える。そして、道徳教育における課 題と今後の方向を明確にしていきたい。. 1「道徳』について 「道徳」という言葉から受け取るイメージは、人それぞれで多様な面があ る。ある人は聖人君子を思い浮かべ、ある人は偽善者を思い浮かべる。ある 人は、自分とは関係なく、あらかじめ決められている「きまり」のようなも のと考え、自分の「本音」とは一致しない「たて前」だと考える。他方、あ る人は、個人の良心や信条を思い浮かべるであろう。. 「道徳」という雷葉には、形式的で、堅苦しい、そのうえ何か冷たさを含. む非日常的な事柄という印象を与えてしまう傾向があるようにも感じられ る。そのような道徳についてのわたしたちの漠然としたイメージには個人的 なもの(主観的なもの)と社会的なもの(客観的なもの)とが常に混在して いるようにも思われる。このように多様なイメージで捉えられる「道徳」に. ついて、その概念を考察しておくことが重要である。道徳についての考え方 が一面的℃あり、ばらばらなものであればその教育の在り方や課題もそれぞ れに異なったものとなつでしまうであろう。まず、「道徳」の語義について 述べ、道徳のもつ二つの側面を捉えておきたい。. 〈1)道徳の語義 「道徳」という語は、古くは『易経』などにも現代とほぼ岡じ意味の語と して表れている。日常、「倫理」という言葉も使われていて、両者を同様に 使用していることが多い。広辞苑によると、「ある社会で、その成員の社会 に対する、あるいは成員相高間の行為の善悪を判断する基準として、一般に 承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものではなく、. 一16一.
(23) 個人の内面的な原理」伽と定義されいる。この定義からは、社会を構成す る人々の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体が道 徳であると言える。しかし、これは道徳の一面を表すに過ぎないのではない だろうか。もう少し詳しく見ていく必要がある。. 「道徳」を「道」と「徳」に分けて語義を捉えていくと、「道」は通り道 のことであり、私たちが判断したり行為したりする際の条理・道理という意 味や、社会生活を営む上で踏み行うべき筋道という意味をもつ語として用い られている鮒。つまり、社会的な道徳的規範ということができる。また、「徳」. は「徳は得なり」とも言われ、その「得」とは別の言い方をすれば「会得・ 体得」ともいわれるように、「身につけること」となっている。また、「得」. は「損得」の得でもあり、「有益」という意味もある。つまり、「徳」は身 につけるものであり、それを身につけていれば生きていく上で有益なものと 考える。このことは、道徳に含まれる実践的な部分の意味を表しているので ある。. 一方「倫理」という語は前述したように、「道徳」と同義に使用されては いるが、あえて違いを述べるとすれば、倫理が原理的な意味をもつのに対し て、道徳は既述したように実践的な内容も含むということであろう。したが って、「倫理は道徳の理論」であり「道徳は倫理の実践」なのである側。小 学校や中学校においては「道徳の時間」があり、児童・生徒の生活と密接な 内容のものが指導され、道徳的実践力の育成が目指されるのに対して、高等 学校では社会科の中で「倫理」として指導されるのは、両者の上記のような 違いをふまえたものと言える。. (2)道徳の二つの図解 「道徳」や「倫理」のもつ語義的なものは前述したが、日常においてこれ らのもつ多様なイメージは、どうして生じるのであろうか。渡邉は「曖昧な イメージは道徳にかかわる言葉の多様性から生じるというより、むしろそれ らの言葉を使用するわたしたちの方が時代の変遷の中で変化しているという. (27)薪村再編『広辞苑一第四版』岩波書店、1991年、18夏8頁。. (28)小寺正一・藤永芳純編『道徳教育を学ぶ人のために』世界思想社、1997年、3頁。 (29>同上、5頁。. .17一.
(24) ことではないか」働と述べ、神やそれに準ずる統一的理念(例えば、創造 者たる神と被造物たる人間、君主と臣下、主人と使用人、親と子等々を区別. する封建的理念)が明確に存在した伝統的社会と、個人を基盤とする近代社 会との相違から明らかにしている。つまり、今日道徳や倫理に対して抱く多 様なイメージは、我々が生活している近代社会の根本的な特質から生じてく るものだと思える。. さらに、哲学事典で「道徳」を調べていくと次のように記述されている。 「社会現象ないし事実としてみれば、道徳はある時代に、あるグループによ. って承認される行為の準則の全体である。したがって、道徳は習俗と最も密 接な関係をもつ。 語源的にも翫hosからe面戯、 m鵬sからmora韮、 Si鵬から sit磁ch、 Sitdi6bkeitがくる。この側面において道徳は、時代とともに変遷し、. 民族、地域によって異なる。またこの連関において道徳は外的強制を伴い、 法や人倫的しきたりと接触をする。しかしまた個人の意識や意志に働きかけ る内的規範としてみるならば、道徳は無条件に普遍的に妥当するとみなされ る行為の準則の全体である。」㈲ この記述において考えると、道徳は二つ の側面が考えられる。一つは「社会的規範」として捉える面であり、もう一. つは「内的規範」、すなわち普遍的に妥当するものとして個人の意識や意志 に働きかけるものとして捉える面である。. このようにみていくと、「道徳とは何か」という本質を考える場合、上記 の二つの面を分けて捉えるということが重要になってくる。実際、このギ社 会的なもの」と「個人的なもの」を内包する道徳の概念を、明確に区分した のがヘーゲル(HegeL GW.F.,17704831)である。彼は前者を「人倫」、後者を. 「道衝性」として呼んでいる。また、デューイ(Dewey訊,1859−1952)は、道 徳理論において両者の区分の必要性を主張し、「慣習道徳」(customa置y mo一撃ty). と「反省的道徳」(re飾cdve mOf磁ty)と名付けて区分している。. ①道徳の社会的・実定的性格 道徳は、単に個人の信条といった主観的なものではなく、人間の社会生活 の基盤の上に成り立っているものであるから、社会によって承認され客観的 に存在する社会規範としての性格をもつ。よって道徳は、社会的に善いとさ. (30>林・押谷編、前掲書、43頁。. (31)下中邦彦編冒哲学事典』平凡社、1971年、1010頁。. ・18騨.
(25) れている個人の習慣、習俗や法と深い関わりをもち、個人にとっては外的強 制力をもつものである。つまり、道徳は歴史的にみて人間の価値追求の営み の中から形成されてきたものと言える。したがって、普遍的なものではなく て、社会の発展と共に変化していくものであると捉えることができる。. ②道徳の個人的・自律的性格 道徳は前述したように、人間が社会の中で人として生きていくために、自 らの欲求や要求に基づいて形成してきたものであった。このことは道徳は、. 外的客観的に社会の中に実体として存在すると同時に、これらに働きかけ自 らが自主的・主体的につくり変えていくものという側面をもっている。カン ト(Kant,1.,1724−1804)は、「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法. の原理として妥当するように行為せよ」働と言う。道徳とは自らが自律的 に決定し自らに課した規則に対し、自らが服していくというところに成立す るものと考えられている。つまり、個々人は単にその社会にある規範を受け 取ることによって道徳性を培うのではない。自らの生き方を主体的に探る中 で、道徳的価値を選択し判断するということを通して道徳性を形成するので ある。また、そのような行為が新たな社会規範を形成していくことに繋がっ ていくのである。. (3)道徳教育の基本的視点 道徳のもつ上記のような二つの性格は、道徳教育の基本的な視点を示唆し てくれる。道徳性は、現存する社会規範を受動的に受け取ることによって形 成されるものではなかった。個々人の能動的な働きかけによって形成される ものである。そうすると、道徳教育は自主的判断や選択を可能にする力の育. 成を助成し、社会的規範に対して主体的に対応していける人間の育成を目指 さなければならないであろう。既存の規範を伝達することではないはずであ る。たとえ未熟ではあっても、自らが「正しい」とする主体的な判断を選択 し、その経験を積み重ねることによって、多くの他者と共有できる社会的規. 範をつくり上げることができるのである。このことは、道徳教育を考えてい くときの基本的視点であり逸脱することはできないであろう。. 次に、道徳における普遍性の問題を考えたい。既に述べたように、実体と. (32)カント、波多野精一他訳『実践理性批判』岩波文庫、72頁。. .19一.
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