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3.2     日本語教師の現状と課題

3.2.1       日本語教師のバックグラウンド

ベトナム南部の日本語教育の歴史は、社会の変化が日本語教師に与えた影響の特徴によっ て、筆者が次の5つの時期に分けられる。

1) 199293年〜199697年 2) 1997・98年〜2004・05年 3) 2006・07年〜2012・13年

4) 2012・13年〜2016年 5) 2016年以降

まず、1)199293年〜199697年の日本語教師の背景を考察したい。

1992 年にホーチミン市国家大学人文社会科学大学東洋学部において高等教育における日 本語教育が開始された。それ以前には、1989 年にさくら日本語学校、1991 年にドンズー日 本語学校などが設立されていた。

当時の状況は「1991 年に南学日本語クラス(以下、南学という)が創立された時に、ハノ イでは外国貿易大のほかに総合大・外国語大・師範大にも正規の日本語科があったが、南部 には正規の日本語講座が全くなく、僅かに「サクラ食堂」が小規模な日本語学校(サクラ日 本語学校の前身)を開いていた程度であった。南学をサイゴンに設置すると決め、ホーチミ ン市総合大学の中に開いたのは(戦前の南洋学院 OB の青春の思い出もあるが)、日本企業の 進 出 ラ ッ シ ュ が 目 前 に 迫 る サ イ ゴ ン に は 、 サ ク ラ 以 外 に 何 も な か っ た か ら で あ る 。 」

(Nguyen Vu Quynh Nhu、2016、p. 66)というような記述がある。しかし、宮原彬(1999、

pp.139〜142)によると、1940 年から日本軍のインドシナ進駐及び日本企業の進出を整える ため、ハノイ、サイゴンにおいて、日本語通訳者を養成する目的で短期間の日本語講座が開 始されている。また、筆者がインタビューした 80 代の Phùng Đức Yên(フン・ドック・イ ェン)教師によれば、60 年代末から 70 年代初にかけて、サイゴン大学院という機関におい て、国際連合の支援により外国語教育が行われており、日本語教育もそこで行われていたと のことである。3 年間のプログラムで、教師は海外から派遣されてきたその言語の母語話者 であったが、教科書の他、副教材などのない貧しい学習環境であったため、3 年間勉強して も初級レベル程度であったと述べている。

ホーチミン市人文社会科学大学の日本語学科の初期の教師は 4、5 人であったが、その中 で、Phùng Đức Yên ( 80)教師とNguyễn Thiện Thuật70代)教師という 2 名はサイゴン大 学院で日本語を学んでいる。Phùng Đức Yên教師(80 代)は高校の教師で、ベトナムの漢語 と日本の漢字について研究するため日本語を学び、サイゴンが解放された 1975 年以降、翻 訳センターに勤めていた。また、Nguyễn Thiện Thuật教師(70 代)はサイゴン師範大学の歴 史専攻の卒業生で、日本の歴史について研究するため日本語を学んだという背景であった。

他に、教育学を専門として日本の仏教大学で博士号を取ったLý Kim Hoa80代)教師と、

上述した日本語通訳者養成短期講座を受け、憲兵隊の日本語通訳をしていた Trần Nhật

Quang(80 代)教師、2年間程日本で日本語を学んで 1975 年から貿易関係の仕事をしてい

Điều Thị Bích Hải(70代)教師がいた。これらの教師は南部における日本語教育の初期の 教師として知られている。皆がその後長期にわたり日本語教育を継続してきた。

1993 年、1994 年から、現在 60 代、50 代になった教師たちの登場により、日本語教師の 人数が増加した。ドンズー日本語学校、サクラ日本語学校、南学の卒業生などであったが、

よく知られている教師の中には、大学の講師が多く見られた。筆者がインタビューした 3 名はホーチミン市師範大学の地理、哲学、ロシア語の講師である。当時、ソ連政権や東欧 の共産主義国の崩壊はベトナム、特に知的エリートに大きい影響を与えた。ソ連または東 欧に留学する予定のあった大学の講師たちにとっては、未来の進路が見えなくなった出来 事であった。一方で日本からの企業の進出や投資と 1992 年に再会された ODA 援助により、

日本の思想や技術、文化、経済などの知識がベトナムに浸透し、ベトナム人に新しい希望 をもたらした。そして人々に日本のことをより詳しく知りたいというニーズが生まれた。

また、当時、補助金制度があったベトナムの大学では、講師の労働時間が確保されたし、

基礎科学の科目以外はそれほど注目されなかったため、他の科目の講師たちは余っている 時間に何かを勉強する機会があった。そのような社会の状況を背景に日本のことをより詳 しく知るため、日本語を学びはじめた人がいた。1991 年までベトナムの中等教育で特異な 位置にあったロシア語は徐々に排除され、その代わりに、登場したばかりの日本語は新し い外国語として歓迎された。大学は政府のドイモイ(刷新)事業展開に伴い、講師の外国 語能力を高める方針をとり、講師の外国語学習を助成したことも当時の大学の講師たちに 日本語学習を促した背景であった。他に、日本の文学、日本の歴史などを専攻とし、日本 での進学又は研究のため日本語を学んだ講師もいる。1993 年、1994 年からは、ベトナムで の日本語学習のニーズが増加してきたため、日本語ができる大学の講師は公的機関や民間 日本語学校で非常勤として日本語を教えはじめた。

1991年に設立された「南学クラス」も1992・93年〜1996・97年時期の教師を養成した機

関の1つである。1991年に東京に事務所を置く「日越文化協会」の助成により、ホーチミ ン総合大学(現在は人文社会科学大学)に付属する日本語センター」が設立された。同年、

日越文化協会はホーチミン総合大学と「南学日本語クラス」の開講契約を交わした。また、

1993年にフエ師範大学付属南学クラス第一期が開校された。

「日越文化協会」のメンバーは1942年に日本国外務省に属する南洋協会が設立した南洋 学院という専門学校で青年時代を送った日本人である。「南学クラス」の設立はベトナム の再建に貢献したいという発想によるものであった。「南学クラス」の 教育期間は2年

(初中級1年、上級1年)で、5時間/日、5日/週(月~金)であった。教育時間はおよそ 2,000時間に渡り、日本人教師の指導を受け、LL教室や図書館が完備された。とするだけ でよい南学日本語クラスの目標は一級レベルに相当する能力を身につけることであった。

南学の生徒は全ての学費を免除される上、教科書及び辞書等は無料で支給された。一期に つき20人を受け入れるが、短期大学・大学を卒業したことが受験の条件である。日本から

派遣された日本人教師の他、上述したNguyễn Thiện Thuật 教師とĐiều Thị Bích Hải 教師も南 学クラスで長く勤めていた。学習目標は日本語能力検定試験の1級取得であるから、アル バイトは禁止され、クラスの欠席は認めないなどの厳格な学習環境であった。南学クラス のウェブサイトで広報されている情報によると、2006年には「15年が経過し、在ホーチミ ン市南学12期、生徒総数205名と在フエ市南学6期、生徒総数110名を送り出した。卒業生 は日系企業・日本の機関に勤めたり、日本と貿易をする会社を設立したり、数名は日本に 留学・就職・生活するなど各方面で活躍している。」状態であるが、南学クラスの卒業生 の中には、高等教育機関、民間日本語学校で日本語を教えている人もいる。

上述した1992・93 年〜1996・97 年時期の日本語教師の略歴を見ると、当時の日本語教師

は主にロシア語・歴史・文化・地理・経済など日本語以外を専攻し、アルバイトとして日本 語を教える教師であった。それでもまだ日本語教師の人数は 10 人弱であった。この時期の 教師たちの共通点は、日本語学校などで短期の日本語研修を受けたことと、日本語学習の目 標が自分の研究の資料を読むためだということである。

当時のベトナムでは、外国人と直接交流できる環境ではなかったため、単語・初級レベ ルの文法を重視する日本語教育を行っていた。学習の目的は日本語を理解することであるか ら、ほとんどの授業において語彙・文法がベトナム語で説明され、会話については十分注目 されなかった。近年、大学の講師に対する専攻の学位の条件が厳密に決められるようになっ たため、これらの教師は主に非常勤か日本語学校に移り、国立大学では見られないようにな った。

次に、2)1997・98 年〜2004・05 年の時期に登場した日本語教師のバックグラウンドを 述べる。199697 年から、ホーチミン市国家大学人文社会科学大学東洋学部の卒業生の一 期生、二期生が、日本語教師になった。この当時は、日本に派遣されて国際交流基金の短期 教師研修を受けた若い教師が多かった。日本での生活を体験したことを通して、教科書の日 本語と実際の日本語の違いを理解していたため、当時の若い教師の授業においては日本語が より多く使われてきた。また、2000 年に日本語能力検定試験が開始され、さらにベトナム 日本人材協力センター(VJCC)が開設されたことはベトナム人日本語教師に大きな影響を 与えた。しかしながら、これらの若い教師は基礎的な教授法の教育を受けなかったため、研 修した知識を効果的に活用できたとは言えない。加えて教師自身が語彙・文法を中心とした 日本語教育を受けたため、問題点が分かっていたにもかかわらず改善できなかった。従って、

当時の多くの日本語授業の重点は日越翻訳にあった。