第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10)
第二節 1930 年代の漢学論:漢学の日本化と実用化
中文研は1935年から1936年までの間において漢学批判を盛んに行われた。前述したよう に、日本漢学の発展史について、多くの先学によって考察されたため、本節ではまず、先行 研究を踏まえながら、本研究に使い分けられている漢学と「漢学」の区別を明言したい。そ のうえで、1920年代後期から1930年代までに活動している漢学者の言論、および漢学の中 核である斯文会の機関誌『斯文』に掲載された文章を取り上げながら、中文研の活動してい る時期に主流となっている漢学論の形相を探察する。これによって、1930年代において、漢 学という言葉にはどのようなニュアンスが含まれているのかを紐解いていく事が可能とな る。
一 本研究における漢学と「漢学」の区別
「漢学」という言葉にどのような意味が含まれているのだろうか。これは日本漢学史176と いう大きな課題にかかわり、そして日本における漢学の変遷は、時代の違いによって多面性 が呈しているため、一口に漢学と言っても、単純に定義を加えることが難しい。吉田公平氏 は、漢学の持ち広義的意味と狭義的意味をそれぞれ以下のように定義した。
漢学の語義として広義には漢民族・漢字文化の学問の意味であり、対概念は和学(国学。
国史・国文・国語)である。(略)
狭義では、中国の漢代の学問のこと。漢唐訓詁の学とも呼称され、その全盛期の学問を 清朝考証学という。文献学・古典学であり、書誌学・文字学・音韻学・校勘学を本領と する。対概念は宋学である。宋明性理学ともいう。その特色は人間(心)とその本質(性)
を問い、自力救済論と政治哲学を中心課題とする。177
吉田氏は対概念を挙げながら、異なる範囲における漢学の意味を提示した。つまり一般的 な意味として、漢学を「中国の古典に関する学問」と理解しても差し支えないだろう。むし ろ現在においては、漢学というより、現代中国研究も加え、「中国学」という言い方のほう がよく見られる。
176 日本の漢学史を網羅的に論じる代表的な著作として、牧野健次郎氏の『日本漢学史』(世界
堂書店、1938)が挙げられる。牧野氏は古代から明治時代までに発展してきた漢学を第一 期:上古・平城朝・平安朝、第二期:鎌倉時代から戦国時代まで、第三期:徳川幕府時代、
第四期:明治時代と分けて、それぞれの時期に呈示した漢学の特徴を指摘した。ただし、本 書の出版された年代から分かるように、大正以後の漢学史について触れていない。
177 吉田公平、前掲文。
ところで、時代をさかのぼり、昭和期の中国研究はどのような仕組みであるのか。第一章 において既に述べたように、大別すると、アカデミズムを中心とする中国研究と実務的なニ ーズによって行われた調査研究という二種類がある。さらに、アカデミズムの中国研究にお いては漢学と支那学の存在があり、実務的な調査研究は満鉄や東亜同文会などによるもの である。
第一章で述べた通り、中文研は批判する矛先をなによりも東京帝国大学に拠点を置いた 漢学へ向けていた。そのため、本研究において、特別な説明がないかぎり、漢学は古代から 日本に伝来した漢民族・漢字文化の学問を意味し、「漢学」は中文研の批判対象となる戦時 下の東京帝国大学を中心に行われた日本漢学を意味する。一見、純粋な学問分野であるかの ように見える漢学は、戦時日本においてその時々の政治的状況の変動によって様々な変化 を見せてきた。果たして当時、漢学はどのような言論環境に置かれていたのか。中文研の漢 学論を客観的にみるには、戦時中の漢学の状況を確認することが前提となる。以下、漢学界 の学者や中心的な組織などを中心に、漢学に関する言論の変遷を捉えていきたい。
二 漢学と国民精神
まず、日本漢学者の発言や、漢学に関する学術団体の機関誌から見てみよう。1890年に
「教育勅語」が発布されて以後、漢学は明治時代の退廃的状況178から復活し、その教育上の 価値を忠孝という儒教的倫理に比重が置かれるようになった。特に第一次世界大戦後、大正 デモクラシーの風潮によって大衆運動は高揚期を迎え、さらに関東大震災後、大正天皇によ り『国民精神作興に関スル詔書』(1923)が頒布された。漢学もこのような時代の潮流の中 で、国民精神形成のための論理的支柱の一つとして、より強調されるようになった。
1925年、漢学者である小柳司気太は、講演「日本と漢学の思想」179を行い、その中に漢学
を「一種の精神的のもの」であると表現した。彼は「漢学が日本に来てさうして恰も川の土 堤を決するが如く、澎湃として日本の国にひろがつたのは、一体どういふ訳であるか」180と いう問題を取り上げた。そしてその答えとして、「矢張り我輩の考に依れば漢学の精神とそ れから日本の国有の精神と、相一致する所のものがある、言ひ換へると漢学が日本の国民精 神に相合して居る所があるのではないかと斯う思はれる」181を挙げた。
一般的に考えれば、漢学は中国古典を中心とする文献学ではあるが、この講演の中に、小 柳ははるかに文献学の範疇を超え、「教育勅語」と「五倫の道」との関係、「敬天愛民」の思
178 明治維新後、文明開化への傾倒により、漢学は国学者と洋学者によって批判され、漢字廃止
論、漢字制限論などの論調が盛んとなり、漢文科の廃止も行われた。具体的には、牧野謙次郎
(1938)、石毛慎一(2000)などを参照されたい。
179 小柳司気太は当時東京帝国大学文学部の講師であり、彼は1925年に「日本と漢学の思想」を
題にして、明治聖徳記念学会で講演を行った。この講演の記録は『明治聖徳記念学会紀要23』
(1925)に収録されている。
180 小柳司気太「日本と漢学の思想」(『明治聖徳記念学会紀要』第23号、1925.5、61頁)。
181 同前、62頁。
想からみた日本の皇室と中国の聖人との類似性などを論じて、漢学が持つ日本の国民精神 との一致性を強調した。無論、この講演を行った場である明治聖徳記念学会182の性質を考え ると、上述した発言がなされたのも自然の成り行きであろう。ここで注目すべきなのは、こ の講演から、1920年代頃における変質を求められていた漢学の表象、すなわち国民精神を育 成する一翼を担う学問としての漢学の輪郭を窺い知ることができるのである。
このように、漢学の国民精神化は戦争の進展によって加速し、特に満州事変勃発後、学界 における漢学は純粋な学問ではなく、その政治的意義がさらに強調されるようになった。
三 漢学の日本化と実用化
中国古典研究の中心的存在であった「斯文会」183は、時局の変動に応じて漢学の重要性を 力説していた。その機関誌『斯文』において、国民精神との関連によって変容してきた漢学 は露骨な政治性を帯びていった。
1933年3月、日本は国際連盟を脱退し、その翌月に刊行された『斯文』4月号は、国連脱退 に関する昭和天皇の「詔書」および内閣総理大臣斎藤実の「告諭」を全文にわたり掲載した。
また本号には、学者ではなく、多くの政治家が「非常時」、「国難」をキーワードとして文章 を発表し184、非常時の日本に対する漢学の貢献について活発に論じられている。『斯文』の 目次をめぐればわかるが、これは本来、学術成果の発表する場であったはずの『斯文』にお いて、極めて異例のことである。例えば、当時の協調会理事である吉田茂は、このように漢 学の日本化の必要性を強調している。
182 明治聖徳記念学会は1912年に成立した日本の神道研究を中心とする学術団体である。当時の
会則の中に、この学会の目的について、「主トシテ人文史的學問ノ新研究ニ照シテ本邦思想ノ 特色ト我ガ建國精神ノ大本トヲ闡明シ、我カ國體ノ精華ト日本ノ文明トヲ内外ニ顕彰シ、以テ 自ラ知ルニ努ムルト同時二、日本文明ノ眞相ヲ世界ノ學界ニ紹介シテ、彼我ノ精神的理會ニ資 セムコトヲ期ス」と書かれている。
183 斯文会:今も現存する漢学研究を中心とする学術団体である。その前身は1880年、岩倉具視、
谷干城などの創設した「斯文学会」であり、種々の再編成を経て、1918 年に公益財団法人斯 文会となった。主に、孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などを中心に活 動を行った。斯文会の歴史に関して、斯文会編『斯文六十年史』(斯文会、1929)、斯文会編『財 団法人斯文会八十年史』(斯文会、1998)を参照されたい。また、関連する先行研究として、
陳イ芬「『斯文学会』の形成と展開--明治期の漢学に関する一考察」(『中国哲学論集』21、九 州大学中国哲学研究会、1995)が挙げらえる。
184 本号に掲載された主な文章(コラム類、彙報などが含まれていない)は下記の通りである。
〔〕内は作者当時の肩書である。
★斯文会編集部「非常時の雄叫び」★井上哲次郎〔文学博士〕「非常時に際して所感を述ぶ」
★菱刈隆〔陸軍大将〕「稜々たる気骨の士を求む」★藤沼庄平〔警視総監〕「汝の心に聞け」★
香坂昌康〔東京府知事〕「国難を国薬とせよ」★船田中〔衆議院議員〕「自信ある門出」★吉田 茂〔協調会理事〕「漢学の殻を出でよ」★宇田尚〔青山会館副会長〕「潜在するものを意識せし めよ」★久保天随〔文学博士〕「剪燈新話に関する事ども(四)」★岡井慎吾〔文学博士〕「熊 本に於ける慊堂先生」★近藤康信「荀子と法家思想」