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第五章 中興―葛藤期:中国語問題の展開(1940.4-1943.3)

第一節 中国文学研究会の終結

第五章で述べたように、第80号(1942.1.1)における「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」 の公表は、中文研の戦争に対する態度の転換を物語っている。しかし、これによって彼らが そのまま時局に流されたわけではない。その後の誌面に、「支那語学」で見られるような時 局に沿う言論が見られる一方、政治的な要請に応じない一面も示されている。このようなジ レンマに終止符を打ったのは、中文研の解散である。1943

年3月、竹内好は中国文学研究会を解散し、『中国文学』

第92号を終刊号(図6参照)として廃刊した。竹内好が この決断を下したのには外在的要因と内在的要因がある と考えられる。

外在的要因として挙げられるのは、なによりも時局の 影響である。第84号(1942.6.1)に掲載された「会員及 び一般読者諸君へ緊急のお願ひ」に、「小誌の必要とする 紙の何分の一も配給を受けられない」と書かれており、

紙不足の事情が窺える。また、出版統制は誌面の内容に も及んでいる。第87号(1942.9.1)から、松枝茂夫の訳 した李圭の『思痛記』が連載されはじめた。この翻訳物が

「残酷すぎ」、「本来なら削除を命ずるところだが雑誌の 特殊な性質に鑑みて今後の注意だけでよい」と当局に注 意されたことを竹内好は第89号(1942.11.1)の「後記」

に述べている。しかし、『思痛記』の連載は中止されなか った。竹内はこの連載について以下のように語っている。

なぜ「思痛記」を訳載したかといふと、一般に中国文学研究会の態度として云ふのであ るが衰弱した日本文学に生気を注ぎたいといふ念願があるからである。書かれてゐる 事柄はいかにも残酷であるが、書き手の眼は決して狂つてゐない。むしろ甚だしく健康 である。(略)当局の好意ある注意によつて「思痛記」は極端な箇所だけ削り連載を続

図6 『中国文学』終刊号

けるつもりである。352

『思痛記』には民間人に対する太平軍の無残な殺戮と略奪が描かれ、それは直ちに読者に 戦場の残酷さを連想させた。当局の注意に対して、竹内は「衰弱した日本文学に生気を注ぎ たい」といい、自主的に内容を削ることによって連載を続けた。第二章で述べた通り、竹内 からみれば、1937年から1945年までの日本文壇の特徴は、「強権による自由の精神の完全 な抹消、およびそれと表裏の関係にある時局便乗型のエセ文学の横行」353であり、彼はこの ような方法によって文学不在の時代と対峙しようとした。

しかし、この時の中文研はすでに進退きわまった状態となっていた。前述した紙配分と雑 誌に対する検閲などの出版統制の問題以外に、日本文学報国会との間の衝突も見られる。

1942年11月3日、日本文学報国会主催の「大東亜文学者大会」が開催され、満州国、中華 民国、仏印、インドネシア、ビルマ、フィルピンの六か国の文学者が出席した。中文研もそ の参加に招待された。1943 年の「日本文学報国会部会別会員名簿」354によると、竹内好・

武田泰淳・岡崎俊夫・松枝茂夫・実藤恵秀・飯塚朗・増田渉らの旧同人がいずれも「外国文 学部会」に入っていた。しかし、その招待は竹内好によって辞退されたのである。第89号

(1942.11.1)に掲載された「大東亜文学者大会について」の中で、竹内はこのように述べて いる。

はつきり云へば、大東亜文学者大会は、日本文学報国会にとつて恰好な催しであるかも しれぬが、中国文学研究会の出る幕ではないと思ふのである。(略)少くとも公的な立 場を持つた中国文学研究会としては、役人ぶつた歓迎の片棒を担ぐことは伝統が許さ ぬのである。(略)絶対の立場として云へば、つまり今日の文学を信ずるか信じないか といふことになるのである。僕は、少くとも公的には、今度の会合が、他の面は知らず、

日支の面だけでは、日本文学の代表と支那文学の代表との会同であることを、日本文学 の栄誉のために、また支那文学の栄誉のために、承服しないのである。

盧溝橋事件(1937.7.7)勃発後、郭沫若、林語堂、老舎、茅盾などの文人はほとんど重慶 に集まっていたため、第一回の大東亜文学者大会に出席した中国代表の中に名のある中国

352 竹内好「後記」(『中国文学』第89号、1942.1.1)。

353 竹内好「転向と抵抗の時代」(『竹内好全集』⑦、207頁)。初出:野間宏ほか編『日本プロ

レタリア文学大系』第8巻(三一書房、1955)。

354 『会員名簿:昭和18年度』(日本文学報国会、1943)。

人文学者は一人もいなかった355。また、この大会の使用言語は日本語のみ356であり、平等に 他国の文学者と交流する姿勢は見えない。竹内好が「役人ぶつた歓迎の片棒を担ぐ」ことを 断ったのは、まさにこの政治に支配された会合の性質を見通した結果だといえる。郭沫若と 親交を持ち、老舎や茅盾などを積極的に日本に紹介し、種々の活動を通して近代中国を日本 に知らせようとした中文研は、このような会合を「東洋新生のため」357だとは認めなかった。

以上述べた種々の事情は、中文研の解散の外在的要因になったと考えられる。このような 外在的な要因に伴い、中文研に内在的な変化も起こっている。この点については、竹内好の

「中国文学の廃刊と私」を通して見てみよう。

この文章は終刊号としての第 92 号(1943.3.1)の最後に掲載されている。竹内はその中 に、「党派性を喪失した」358こと、および「中国文学といふ態度が大東亜文化の建設に対し て存在の意味を失つた」359ことを中文研の解散の理由として挙げた。突き詰めていえば、こ れらの理由はいずれも中文研がいかに戦時体制において主体的に存在し得るかという問題 に由来すると考えられる。

竹内は中文研の発展を振り返り、以下のように述べた。

最初、中国文学研究会が成立したとき、混沌の中から自己を定立し生成してゆくための 本源的な矛盾が確かに内在してゐた。われわれは議論を闘はし、それによつて次第に環 境から自己を選び出し、その選び出すことによつて逆に環境を支配する位置に立たう とした。(略)そして世間も、会をそのものとして程よく認めるやうになり、われわれ 自身がその評価を一応は甘んじて許すかに見える。根源的な矛盾が消えて、安定が来た。

持続の日がはじまつたのである。そのやうな会を、私は不満に思ふ。私にとつて、会は 不断に成長するものである。永久に自己否定を繰返すものである。360

中文研の創立は「本源的な矛盾」によるものであったが、そして世間が中文研そのものを 認めるようになると、このような矛盾が消えてしまったという。中文研創立頃の状況を振り 返ってみると、竹内の言った「本源的な矛盾」が理解できる。中文研の主要メンバーはほと んど漢学を中心とした東京帝国大学から卒業したが、彼らはアカデミズムの漢学と支那学 に反対し、時局に沿うジャーナリズムの中国論を否定する立場で、近代中国文学を対象とし

355 第一回大東亜文学者大会に出席した中華民国の代表は以下の通りである。

銭稲孫・沈啓旡・尤炳圻・張我軍・周化人・許錫慶・丁西林・潘序租・柳雨生・周毓英・龔 持平・草野心平。

356 尾崎秀樹「大東亜文学者大会について」(『文学』第29号、岩波書店、1961.5)。

357 「大会宣言」(『朝日新聞』朝刊、1942.11.6)。

358 竹内好「中国文学の廃刊と私」(『中国文学』第92号、1943.3.1)。

359 同前。

360 同前。

て選んだ。つまり、中国研究の方向に対する疑惑が彼らの「本源的な矛盾」である。

そして、彼らは世間の現実的な中国に対する無関心に逆らう立場を取ったが、このような 無関心は、中文研の解散の時点ですでに改善されていた。実藤恵秀の言ったように、「天下 国家から論ずれば、『中国文学』の出はじめたころ、日本は中国文学を知らなかつた、とこ ろが、今ではけつこう知つて来た」361。にもかかわらず、中国文学に対する関心の源は、中 国そのものを知ることにあるのではなく、あくまでも「大東亜文化の建設」という大義名分 によるものであり、大東亜文学者大会に誘われた中文研は、政治との合体を迫られ、自らの

「党派性」を喪失しつつあった。大東亜共栄圏の建設に求められた文化統合に協力できない 竹内は、中文研の存在の意味を否定することによって、自らの立場を保とうとしているので はないか。

そして、竹内は、太平洋戦争勃発後の中文研の変化について、このように回想した。

「中国文学月報」なんかみてもらえば分かりますが、蘆溝橋の前とあとでは全く違うん だな。支那語教科書の批判とか、ああいうのは続いていますが、それと同時にそうでな くてもっと自虐的な一面が強く出てくる。

つまり、中国文学をやっていて何を相手に闘えばよいのか、敵が鮮明でなくなるわけで すよ。(略)最初の学風の問題というようなものはだんだん問題でなくなっちゃうわけ ですよ。全部戦局の進展と合わせて、そっちのほうへ流れていくでしょう。(略)

そういうものがみんな現状維持になってしまったから、われわれの立つ瀬はなくなり ますよ。しかし、われわれは、その外へ出てたたくこともできないわけなんだな。無力 だ。(略)要するに時流に流されている自分をどうにもできないという無力感でしょう ね。362

竹内の言った「自虐的な一面」とは、言うまでもなく誌上に現れた時局に流された言論で ある。例えば吉野治夫の論じた「満州文芸現況」において、「日満両系作家の協力親和」363 が称賛され、また林俊夫の論じた「新しき和平文化」の中に、「日支提携」と「和平建国」

に協力した映画界を取り上げ、「新しき支那の姿は、かくも日本に近づきつつある事を、十 分注意せねばならない」364と述べられている。旧同人である神谷正男でさえ、「現代支那の 文学は、今日の日本の知識社会にとつては、好むか好まざるにかかわらず、これを理解し、

これを向上進歩せしむるための努力することは宿命的な使命ではないかと思う」365といっ

361 実藤恵秀「無題」(『中国文学』第92号、前掲書)。

362 竹内好「わが回想」(竹内好『方法としてのアジア』、創樹社、1978、21-22頁)。初出:『第三 文明』十、十一月号(第三文明社、1975)。『竹内好全集』⑬に収録。

363 吉野治夫「満州文芸現況」(『中国文学』第69号、1941.2.1)

364 林俊夫「新しき和平文化」(『中国文学』第85号、1942.7.1)

365 神谷正男「翻訳時評」(『中国文学』第67号、1940.12.1)