第四章 模索―転換期:中国における二人の交叉(1937.11-1940.3)
第四節 二人の交叉:「政治」と「文化」の間
「南画の画集や拓本等」は言うまでもなく武田の認識していた従来の中国文化の形相で あり、しかし戦場で見たこれらの書物の中に、彼は文化を読み取れない。なぜなら、人間の 知恵を象徴するこれらの書物はすでに現地の人間によって見捨てられているからである。
その次に、武田は菜の花畑に見える一人の「鬼婆」のような農婦に遭遇した。「その眼の 光は私共の積み込む目の荒い人造氷よりは冷たいやうな気さへした。私は魯迅の小説に出 てくる農婦が『地獄とはあるものかないものか』とたづねる絶望的な情景を其の時思ひ出し たのであつた」267と彼は書いている。戦場において、武田は文字ではなく、現実の人間その ものを通して、魯迅の文学に描かれている中国農婦の心境を理解したのである。武田は「文 化は風土を離れては存在し得ないであらう」268といい、書物に書かれている文化が消失して いく戦場において、彼は民衆と風土を通して中国文化のありようを再認識したのである。
このように、竹内好と武田泰淳との経歴を照らし合わせれば、彼らが共通して痛感したの は、渡航前に抱いていた中国像の崩壊である。竹内は、「思想の衝突」を求めて中国へ行っ たものの、みじめな戦争の跡の代わりに、「政治」によって擬制された平穏な北京の空気を 身に沁みて感じた。日本化された北京で、おのれが守ろうとした「中国」は、違う形で日本 人の「日常茶飯事」となった。一方、武田は、戦地において混乱した風景を見、現地の人間 と触れることによって、それまでの蕃人の歌謡や古典の神話伝説から目覚めつつ、「文化と は何か」と自問した。その中で、彼に重要視されたのは人間・風土に反映されている民衆の 精神である。従って「元来の中国像の崩壊」は、竹内と武田との現地体験の共通点とも言え るのではないか。
現地での体験により竹内と武田の中の中国像がすでに崩壊したとき、支配者としての彼 らが、いかに「中国」に直面するかという問いが浮かび上がってきた。また、これは帰国後 の二人の中国研究の再出発の源となったともいえよう。
第四節 二人の交叉:「政治」と「文化」の間
第三節では武田泰淳の戦場体験と彼の帰国後の思想的転換を考察してみた。その結果、武 田は中国に対する再認識を行い、人間と風土を通して中国文化の内実を追求する身構えを するようになったことが分かった。そして、第二節で論じた竹内好の転換も含め、両者の現
266 武田泰淳「杭州の春のこと」(『中国文学月報』第59号、1940.2.1)
267 同前。
268 「梅蘭芳遊美記の馬鹿々々しきこと」(『中国文学』第69号、1941.2.1)
地での経験は、帰国後の彼らの方向に大きな刺激を与えたことが理解できる。本節は、帰国 後の二人の言論を検討し、その中にから改革後の中文研の方向転換を読み解く鍵を探り、両 者の関連性を提示してみる。
前述したように、1939年10月に帰国した竹内好は、翌月から中文研と『中国文学月報』
の改革を準備しはじめた。第57号(1939.12.1)に掲載された竹内の「二年間――黙するこ との難ければ」を見ると、本誌の改革をめぐって、竹内と武田が反対の立場に立っているこ とが確認できる。
某日、武田云ふ。君の月報を政治的に転換しようとする意図には賛成出来ない。我々は 今が如何に不調な時代でも月報自身の持つ意味がそのために将来の約束に関してまで 無益になつたとは思はない。つまり我々は今のままで、今より遥かに多く果さねばなら ぬ仕事を残してゐる。あくまで文化的でいいではないか。269
帰国後の竹内の持っている「政治的に転換しようとする意図」について、彼の帰国後の日 記(1940)にその一端が窺える。
二月四日(日)夜
この時の長野(筆者注:長野賢)の話、午后から夕方までしゃべりつづけて、日本の現 状、将来の見透しを彼一流の政治的解釈で一席やった。(略)長野の描いている夢は、
それを文字で形象したら、すばらしい文学になるだろうと思う。俺はそういう仕事をし てみたい。無論長野の夢は政治を手段としなければ描かれまい。それを文字を手段にし た夢に移すことは出来ぬものか。(略)俺は俺の内にあるもやもやしたものを形象した い。270
竹内が、長野賢と語り合った具体的な内容については、管見の限りでは見つけられなかっ たが、彼が竹内に語ったのは、日中関係、または日本の中国研究の「現状」と「将来」に関 する政治性の持つ意見ではなかったかと推測できる。271この日記の中で竹内は、自分の内に ある「もやもやしたもの」を形象したいと記しているが、それは何を指しているのだろうか。
同日の日記には、このような一節が見られる。
269 竹内好「二年間――黙することの難ければ」(『中国文学月報』第57号、1939.12.1)。
270 竹内好「北京日記(1940)」(『竹内好全集』⑮、386頁、388頁)。
271 長野賢は、本誌に「蕭軍のヒューマニズム」(第29号、1937.8.1)などの中国近代文学に関
する論文を掲載しているほか、本号の「後記」で紹介されたように、北平で黄土層社という文 学団体の同人であり、少なくとも中国研究に関連する人物であることには相違ない。
武田、このごろ不思議な気持を訴える。何が何だかわからなくなったようだと云う。文 化の基礎がゆらぐ気持だろうと思う。そう云われて、武田が近ごろ書いているものが単 に支那に対する愛情の疑いだけでないのがわかった。不安と云うものであろう。俺はそ れを目黒村の不安と名付けた。何をしていいかわからなくなった気持。272
竹内の感じた武田の「不安」は、前述したように、武田の現地体験によって生じた日本の 中国研究の現状に対する不安であろう。そして、当時の中文研の事務所は竹内の自宅でもあ る東京目黒区に置いたため、文中の「目黒村」は実に中文研を指しているのではないかと考 えられる。換言すれば、竹内の感じた武田の「不安」は、実に中文研全体としての方向に関 するものであろう。このように、竹内の「もやもやしたもの」は、彼が感じた武田の「文化 の基礎がゆらぐ気持ち」であり、また戦時下における中国文化にいかに向き合うのかという 疑惑だと考えられる。
竹内は、武田泰淳と違い、平穏な北京で自分に本音を言える「人間」との接触すら思うと おりにできなかった。例えば、第34号(1938.1.1)の「北京通信(二)」では、竹内はこの ように述べている。
かへすがへすも残念なのは、事変前に来て抗日の実状を目のあたり見られなかつたこ とです。たとへば家一軒借りるのも容易でなかつたといふ話です。しかし、人間と人間 とがどんな眼付をして憎しみあつたかは誰も話してはくれません。273
ここから分かるように、竹内好が知りたいと求めているのは、日本の侵略に直面する中国 人の行動と思想のありようである。「家一軒借りるものも容易でなかった」状況が、中国人 の日本人に対する抵抗の証であるのであろう。かかる状況下で彼はその時局に関する心情 を言える中国人に、果してどのぐらい出会うことができたのであろうか。
竹内好の北京時代の日記に、頻繁に登場する一人の中国人がいる。それは楊聯陞という人 物で、竹内自身も当時「一番親しくつきあった」274友人であったと認めている。この最も信 頼していた友人との間でさえ、「黙契のようにお互いに時局については一言も口にしません でした」275という。このように、政治に翻弄されていた北京で、中国人の本音を読み取れな かった竹内は、松枝茂夫への手紙の中に「だんだん支那、支那人、支那文学がいやになつて
272 竹内好「北京日記(1940)」、前掲文、387頁-388頁参照。
273 竹内好「北京通信(二)」、前掲文。
274 竹内好「中国と私」(『竹内好全集』⑬、220頁)。初出:1950年5月号『近代文学』(第5巻 第5号、近代文学社刊)の「特集・世界の知識人へ」の一篇として発表。
275 竹内好「中国人のある旧友へ」(『竹内好全集』⑬、63頁)。初出:1969年2月号『未来』
(未来社刊)に「著者に聞く10」として発表。
き」276たといい、中国文学作品にも不信感を抱くようになった。留学前、竹内は誌上におい て中国近代文学を中心に執筆していたが、留学後は、中国近代文学ではなく、日本における 中国研究の方向性に関心を寄せるようになった。帰国後の竹内は、政治と文化との「分ち難 い」関係を現地で知ることとなり、文学作品だけでは真の中国文化は理解できないと痛感す るようになったためであろう。
このような中国文化への向き合い方に対する疑問は、武田泰淳にも共通的に存在してい る。前掲の「二年間――黙することの難ければ」に見える、武田の「文化的でいいではない か」という主張は、間違いなく彼の戦場体験から生まれたものである。「文化的」というの は、彼が現地で見た人間や風土と深く関連している。帰還した彼は、中国の人間や風土と隔 たっている日本の中国研究を以下のように批判している。
兵士達は論文を発表し書を出版するために研究しませんでした。しかしながら日本の 軍隊のために、その目的のために、彼等は支那人を知らなければなりませんでした。支 那の家屋、支那の河川、支那の畠、支那の動物、支那の絵画を知らねばなりませんでし た。なる程此の事は東亜文化協議会が日本と支那の大学者を集めて何やらやつてゐる と言ふ程華やかなるものではありますまい。しかし現在のやうな状態の下では華やか なるものはすべて空しとさへ言へるのではないでせうか。私は日本に帰つて驚いたこ とは支那関係の出版の華やかさでありました。しかし今はその空しさに驚かずにはゐ られないのです。277
兵士は無論、研究のために中国へ行ったわけではない。しかし、中国での暮らしによって、
彼らは内地の研究者に比べ、より現実的な中国人の精神に接触し、より衝撃的な風土を見た。
つまり、武田の「文化的」な再出発は、現実的な中国、および中国人の生き方に注目するこ とによって、中国の真実を再認識することだと考えられる。1938年8月31日、北京にて日 中両国の学者の出席した「東亜文化協議会」が開催され、その目的は「文化の全領域に亘つ て各専門別の研究を開始し支那の古文明、現代文化と日本の文化全体との混然たる交換を 実現せんとする」278と宣伝されている。武田からみれば、このような文化の交換は文化の内 実と程遠いであろう。つまり、現地で文化を内蔵する書籍が焼かれている以上、古典を研究 する学者は現実の中国文化へ接近できない。政治の力に破滅されていく中国文化はいかに して持続するのだろうか。武田はつねにこの疑問を現地の人の日常生活の中に探求してい る。
276 「竹内好(北京東四七条胡同四三)から松枝茂夫(東京都杉並区荻窪一―五〇)へ(〔昭和
一三年〕一〇月一二日、封書)」(井上光晴編『辺境』5、影書房、1987.10、7頁)。
277 武田泰淳「支那文化に関する手紙」、前掲文。
278 「日支の学者六十名 文化交換に提携 九月北京に新団体結成」(『朝日新聞』、1938.8.2)。