第五章 中興―葛藤期:中国語問題の展開(1940.4-1943.3)
第二節 漢学批判の復活
一 翻訳論における漢文訓読批判と中国認識
翻訳は中文研にとって、一大事業であったといえる。第二章に示されている通り、1939年 から1941年までの間に、中文研は積極的に中国の文学作品を翻訳し、『支那現代文学叢刊』
(伊藤書店、1939)、『現代支那文学全集』(東成社、1940)、『中国文学叢書』(生活社、1941)
のシリーズを出版した。また、作品の翻訳だけではなく、「翻訳時評」の連載を中心に、翻 訳に関する批評が数多く見られる。これらの文章を整理してみると、表 15 の通りである。
表15 本誌における翻訳論に関する文章
題目 作者 巻号 時間 翻訳時評 神谷正男 第66号 1940.11.1 翻訳時評 神谷正男 第67号 1940.12.1 翻訳時評 竹内好 第69号 1941.2.1 翻訳時評 竹内好 第70号 1941.3.1 翻訳時評 魚返善雄 第71号 1941.4.1 翻訳時評(二) 魚返善雄 第72号 1941.5.1 翻訳論の問題289 吉川幸次郎
竹内好 第72号 1941.5.1 翻訳時評(三) 魚返善雄 第74号 1941.7.1 翻訳時評 吉川幸次郎 第76号 1941.9.1 翻訳時評(二) 吉川幸次郎 第78号 1941.11.1 翻訳雑感 岩村忍 第79号 1941.12.1 翻訳時評(三) 吉川幸次郎 第79号 1941.12.1
1.「翻訳時評」を設けた動機
表15にて示されているとおり、翻訳論に関する文章は、「翻訳論の問題」と「翻訳雑感」
以外に、ほぼ「翻訳時評」である。この「翻訳時評」は竹内好の企画によって第66号(1940.11.1)
から連載が始まり、第79 号(1941.12.1)までの間、計10 回290が連載されている。その連 載は一年以上に渡って続いたという点からも、企画者がいかに翻訳を重要視していたのか、
その熱意の程が窺えるだろう。第66号の「後記」において、竹内は「翻訳時評」欄を設置 する理由について、このように述べている。
この号から、翻訳時評といふ欄を設けた。翻訳といふことは、ずゐ分いろいろの問題を 含んでゐるくせに、あまり問題にされない。西洋文学の方は短いなりに伝統があるから いいが、支那文学ではまだ規準になるだけの翻訳の型すら生まれてゐない。翻訳の問題 は、語学や表現の問題だけでなく、考へていくと結局は人間の問題まで還元してしまう。
技術だけの範圍でもかなり複雑である。この欄は二三回づつ各方面の人に書いてもら ふつもりである。291
289 「翻訳論の問題」は翻訳論に関する吉川幸次郎と竹内好の往来書簡である。
290 熊文莉氏が誌面を統計した結果、「翻訳時評」の掲載回数は12回だとしたが、筆者の再統計
において、10回しかないのが確認できる。
291 竹内好「後記」(『中国文学』第66号、1940.11.1)。
竹内は従来の中国文学の翻訳に見られる問題が等閑視されたままの状況を指摘している。
特に、翻訳は一見すると語学と最も深く関連するものではあるが、竹内好は、語学力や翻訳 テクニックの枠を超える翻訳論を主張した。彼がこれらを「人間の問題」として捉えている 事はどのような意味が含まれているのだろうか。同号に掲載された「支那言語学概説」をみ れば、竹内の思考の一端が窺える。
「支那言語学概説」は中国の言語学者王力の『中国語文概論』(商務印書館、1939)の訳 本に対する書評である。1940 年、本書は佐藤三郎治によって日本語に翻訳され、生活社よ り出版された。竹内好はこの訳者を以下のように批判している。
この翻訳はずゐ分間違ひが多い。間違ひといふより、間違ひの範囲を逸脱してしまつた 出鱈目である。(略)原著と対照してみたら、悉く誤訳であつたので、改めて最初の数 頁に朱を入れてみた。まつ赤になつた。(略)日本の支那語学者の論理と想念の乏しさ を(さうでない人のためには気の毒であるが)この本は二重に教へてくれるわけである。
(略)だが、この程度の誤訳(あるひは出鱈目)は、いまの日本の翻訳界で、決して例 外的なわけではない。僕らの会の連中の間でも、もつとひどい例はいくらもある。また 僕は、翻訳の問題を、単なる語学の問題でなくもつと広範な問題に考へてゐる。292
竹内は『支那言語学概説』のような誤訳だらけの日本語訳を見るのが初めてではないと述 べ、語学書であるからこそ、彼は本書に現れた「日本の支那語学者の論理と想念の乏しさ」
に慨歎している。その中に訳者の中国に対する認識不足への批判が窺える。したがって、竹 内は、翻訳という行為を語学の優劣という問題だけではなく、より広く言えばいかに中国を 理解しているのか、そしてまた、中国語をいかに科学的な方法で勉強しているのか、という
「人間の問題」として捉えたのである。
このような背景もあり、竹内好は自分を含め、さらに神谷正男、魚返善雄、吉川幸次郎の 3人に依頼し、「翻訳時評」の連載を始めた。神谷正男293は、1935年~1938年の間に北京へ 留学し、その研究対象は近代中国思想であった。魚返善雄(1910-1966)は上海の東亜同文 書院の出身で、言語学に取り組んでいた。そして吉川幸次郎(1904-1980)は京都帝国大学 の出身で、中国古典文学の研究者として知られていた。中文研の「翻訳時評」を執筆した当 時、彼は東方文化学院京都研究所294の研究員であり、『尚書正義』(岩波書店、1940)の訳本
292 竹内好「支那言語学概説」(『中国文学』第66号、1940.11.1)。
293 神谷正男に関する詳しい情報が不明であるが、「中国文学研究会年譜」によると、神谷は1934
年東京帝国大学文学部支那哲学科から卒業し、1938年8 月、北京から帰国したあと中文研の 同人に参加したという。
294 現在の京都大学人文科学研究所の前身。
を出版しはじめた時期でもあった。要するに、この4人は異なる専門の一員として、それぞ れの立場と視点によって翻訳の抱える問題点について検討した。一年間に渡って連載され ていた「翻訳時評」は、一見4人の担当者によるそれぞれ全く異なる評論であるようにも見 えるが、実は彼らの論点には共通する思想が見られる。以下、詳しく見てみよう。
2.文化現象としての翻訳
「翻訳時評」の初回目(第66号)を担当した神谷正男は、訳書の選択、原語に対する理 解と自国語の表現力、出版の技術と書物の形態という三つの問題を挙げたうえ、第 67 号
(1940.12.1)では1940年に翻訳された中国関係の叢書類と一般向けの入門書として優れた ものを批評した。竹内好は、神谷のこの「翻訳時評」について、「大綱に於いて異存がない が、問題の立て方がまづい」295といい、下記のように異論を唱えた。
少くともわれわれの間だけでも翻訳出版に対する翻訳方法の側からの批評が盛になる ことは僕も切実に希望してゐる。(略)ところで、さうした内部からする批評のほかに、
読者としての、あるひは文化批評としての立場からの批評を考へられていいと思ふ。翻 訳を文化現象として成立させる社会文化の基礎への批判を志向した批評も必要である と思ふ。296
前述したように、竹内は翻訳を「人間の問題」として考えるべきと主張した。ここでも、
彼のこのような立場が一層明白となっている。竹内は訳者の語学的能力や出版社の形態な どの内部からの視点のみならず、読み手の立場、および社会文化の基礎に関わるツールとし ても翻訳を取り上げるようにと要求している。翻訳は外国を理解するのに最も重要なルー トの一つであると同時に、自国がいかに正確に外国を認識しているのか否かをも反映して いる。そのため、翻訳は日本人の異国と自国の文化に対する認識の仕方を反照する。こうし た文化現象としての翻訳批判論が、竹内によって具現化された結果、伝統的な翻訳手法とし ての「漢文訓読法」への批判は誌上に提起されたのである。彼は、まず以下のように翻訳と 訓読の違いを強調する。
古典の翻訳と呼ばれるものは今なほ多く従来の訓読のままである。訓読を国訳と称し てゐるのだが、この二つの間には天地の隔りがある。いはば考へ方が逆になつてゐるの である。訓読によつて原文の意味の精密な把握が不可能なことを、語学力の不足と思惟 の粗雑さのために感じ得ないのである。(略)文語で表現しようと口語で表現しようと、
訓読と翻訳はまるきりちがふのだ。日本語を支那語に合せようとするのでなく、逆に日
295 竹内好「翻訳時評」(『中国文学』第69号、1941.2.1)。
296 同前。
本語によつて支那語を解釈しようといふのが独立した翻訳の態度である。297
竹内は訓読を翻訳法として認めていない。なぜなら訓読は「日本語を支那語に合せようと する」方法であるからだという。周知のように、訓読はまず中国語としての構文を認識し、
原文に区切りを加え、そして、日本語の法則によって返り点や送り仮名をつけ、語順を変え ることによって文章を読解する方法である。竹内の言った「日本語を支那語に合せようとす る」というのは、恐らく訓読において、中国語の原文にある単語と表現を変えないままで、
日本語の訳文に現すことを指しているであろう。
とはいえ、訓読では、日本語によって漢文を解釈するという作業がないとは言えない。例 えば、訓読の際必ず付けられる「テニヲハ」は、日本語にしか存在しない表現で中国語にお ける語と語の関係を示したものであり、また送り仮名は、中国語での動詞や形容詞などを、
日本語の用言として表現する機能を持つ。298つまり、訓読には、日本の漢文翻訳におけるひ とつの補完法として、その必要性と科学性が含まれていると認めざるを得ない。にもかかわ らず、竹内好はこれらの機能を看過している。第三章で述べられているように、竹内は高校 時代と大学時代に漢文の読解に非常に困難を感じていた。訓読を不得手としていた竹内が どれほど正確に訓読の仕組みと機能を理解していたのかについて、筆者は疑問を感じざる を得ない。さらに、次の文章からは、竹内の訓読批判の主眼は、方法論というよりはむしろ、
文化論にあったと感じ取ることができる。
原語に忠実といふ態度から行はれる直訳が、しばしば訓読の意識と混淆され、それがま た逆に、訓読が最も忠実な原文理解であるかのやうな錯覚を起き易いのである。(略)
その点では日本文化は今なほ支那文化の支配から完全に抜けてゐないといふことにも なる。文字を共通することと言葉を共通することは別である。日本語と支那語が全く異 つた言語だといふことを、われわれ言葉の職務にたづさはるものは繰返し説く必要が ある。
日本が支那の文化を受け入れたのは古いが、僕はさういふ歴史は信じない方がいいと 思ふ。今日、支那がわれわれにとつて未知であるといふ現在の立場の方が大切なのだ。
299
297 同前。
298 漢文、訓読、日本語の関係について、吉川幸次郎『漢文の話』(筑摩書房、1986)を参照さ
れたい。また、中国の文言と白話、現代中国語、及び日本の漢文訓読、一般文語文、現代日 本語の関係について、市来津由彦「漢文訓読の現象学:文言資料読解の現場から」(中村春 作・市来津由彦・田尻祐一郎・前田勉編『「訓読」論:東アジア漢文世界と日本語』、勉誠出 版、2008)を参照されたい。
299 竹内好「翻訳時評」、前掲文。