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例会、懇話会および中国文学者による講演

第二章 草創―発展期〈一〉:同時代の中国文学への覚醒(1934.3-1937.10)

第二節 同時代の中国文学との接触

二 例会、懇話会および中国文学者による講演

誌上に同時代の中国文学を紹介するほか、中文研は例会、懇話会などを開催し、精力的に 近代文学の研究に取り組んだ。機関誌の「会報」によると、1934年8月の周作人・徐祖正 歓迎会をはじめ、1937年までに計23回の例会が開催された(表7参照)。

表7 中文研の開催した例会

(中国近代文学に関する内容をコジックで表記した)

時間 題目/報告者

1 1934.10.29 ・郁達夫論(不安の文学)/一戸務 ・最近の中国文壇/辛島驍

2 1934.12.5 ・中国新文学の展望/池田孝

3 1935.1.26 ・易に就て/郭沫若

4 1935.3.12 ・大衆語に就て/武田泰淳 ・啼笑因縁の話/松川朴平

5 1935.4.5 ・老舎と沈従文(支那的なる現代作家)/岡崎俊夫

・呉組緗論/増田渉

6 1935.6.21 ・梁啓超の研究/実藤恵秀

7 1935.7.16 ・近世漢学者の唐話学に就て/石崎又造

8 1935.9.27 ・北平に於る日本文化研究の現状/銭稲孫

9 1935.10.24 ・漢初の文化政策に就て/豊田穣

10 1935.11.29 ・北平の話/陣内宜男

11 1936.4.27 ・趙元任氏のレコードによる中国国音研究/曹欽源

12 1936.6.6 ・支那語音について/曹欽源

13 1936.7.4 ・唐代荘園文学論/武田泰淳

14 1936.10.3 ・張資平の不平衡的偶力/長瀬誠

15 1936.11.4 ・紅楼夢の作者をめぐりて/吉村永吉

16 1936.12.5 ・中国文学研究の方法/竹内好(郁達夫の講演を予定したが、取り消し)

17 1937.1.12 ・周作人について/松枝茂夫

18 1937.2.3 ・日本文学研究の現状/仲賢礼

19 1937.3.4 ・支那文学の鑑賞について/佐藤春夫

20 1937.4.6 ・上海文壇の近況/日高清磨瑳 ・唐代小説について/土居治

21 1937.5.6 ・上海旅行談/小田嶽夫

22 1937.6.4 ・音訳語を通じて見たる漢字の表音能力について/魚返善雄

23 1937.7.8 ・李健吾の喜劇について/武田泰淳 「子夜」と「第三代」/竹内好

例会は主に同人による研究発表の場である。その内容からも分かるように、例会に取り上 げられた内容は中国語、古典文学に関するものも見られるが、中国近代文学に関する題目が 明らかに多く見られる。

そして、中文研は例会において郭沫若と銭稲孫などのような知名度の高い中国学者を招 き、講演を行った。そこから、中文研が中国人文学者と積極的に交流しようとしていたこと が窺える。特に1935年1月26日の郭沫若の講演はかなり注目を集めたのである。

郭沫若(1892-1972)は1921年に郁達夫(1896-1945)とともに「創造社」104を成立した

104 創造社:日本留学生によって組織された文学団体。1921年7月(あるいは6月という)上旬

に東京で結成され、上海を中心に活動し、1929年2月7 日に国民党政府によって禁止される が、1930 年の左翼作家連盟の成立まで活動を持続。中国近代文学の草創期から革命文学の提 唱に至るまでを通じて大きな位置と役割を担った。その活動は通常、前後二期あるいは三期に 分けられる。主な同人は、郭沫若、郁達夫、成仿吾などが挙げられる。(丸山昇・伊藤虎丸・

新村徹編『中国現代文学事典』、東京堂出版、1985、「創造社」項目より抜粋、168頁―170頁)。

人物である。1928年に彼は二度目の訪日をし、その後日本で約10年の亡命生活を送りなが ら、中国古代史の研究に専念していた。竹内好が郭沫若と知り合ったのは、1933 年頃であ った。当時、竹内は卒業論文「郁達夫研究」の執筆のため、千葉県市川市に住んでいた郭沫 若を訪問した。竹内の話によると、当時の郭沫若は「すでに中国古代史の研究では世界的な 学者になっている」105という。

そして、中文研の成立後、郭沫若は時々その活動に関わるようになり、その存在は中文研 の人々にとって「はげまし」となっていた。竹内好はこのように回想している。

私たち(竹内自注:岡崎俊夫、武田泰淳、竹内好等)は昭和九年から「中国文学研究会」

をはじめた。この会は郭氏から有形無形のはげましをうけた。雑誌の題字は郭氏に書い てもらった。研究例会に謝礼なしに出ていただいたりした。ただ文学については語りた くないというので、このときの演題は「易について」だった。異例の盛会で、聴衆が堂 にあふれた。在日留学生が多かった。106

そして、この例会の実際の様子について、竹内の日記に下記のように記されている。

一月二十六日(土)

涙流るる盛会なり。無慮一百零四名。学士会館第二号室、殆ど溢れんとして椅子の不 足を呈する程なり。口毎に盛会の祝辞を与えらる。高田(筆者注:高田真治)教授、竹 田(筆者注:竹田復)助教授、共に来る。郭氏の講演、一時半にはじまり三時過ぎまで あり。郭氏自身も極めて昂奮せる様子なり。(略)曹氏(筆者注:曹欽源)、速記者を伴 い来り、講演を『同仁』に貰いたしと云う。岩波の『思想』に内定の故を以て断り、(略)

留学生数十名来る。多くは新聞を見て来りしようなり。107

この引用箇所に書かれているように、参加者は主に学者と留学生であるが、今度の例会が メディア界にも関心を持たれていたことが推察できる。のちに郭沫若は講演に基づいて、同 年4 月号の『思想』(第155 号、岩波書店)に「『易』の構成時代」と題する論文を発表し た。これをあっせんしたのも竹内好と岡崎俊夫である。また、曹欽源(1907-1993)は中文

105 竹内好「郭沫若氏のこと」(『竹内好全集』⑬、57頁)。初出:『秋田魁新聞』(1955.12.6)。

106 同前。

107 竹内好「中国文学研究会結成のころ」(『竹内好全集』⑮、92頁)。

研の同人の一人であり、当時、東京同仁会108の雑誌『同仁』109を編集していたため、曹は郭 沫若の講演を『同仁』に掲載することを企てた。結局それは実現できなかったが、竹内好日 記によると、講演の翌日に竹内、武田、岡崎は郭沫若と『思想』と『同仁』の件を打合せた という。110その結果、郭沫若は『同仁』の1935年4月号に「考史余談」を寄稿したのであ る。

このように、中文研同人の活動において、郭沫若は様々な形で協力をしたといえる。中文 研は、会名に「支那」ではなく「中国」を使い、そして同時代の中国文学者を日本に積極的 に紹介している。このような活動によって、当時に文壇と学界の名士として誉れ高い郭沫若 は「会に対し極めて熱心に支持を寄せらる」111という。

そして、例会のほかに、中文研は中国文人との懇話会を三回開催した。懇話会は「研究を 主とする例会に対し肩のこらぬ集まりを持とうという趣旨で設けたもの」112であり、三回の 懇話会の概況は以下の通りである。

第一回(1934.12.9)は謝冰瑩(1906-2000)を招き、「吾が文学経歴」と題する講演が行わ れた。謝冰瑩は中文研の初期の活動に緊密な関係を持っていたため、その詳細について後述 に譲る。第二回(1935.5.5)は董康の「中国文学我見」であり、董康(1869-1947)は清末の 法律の編纂に関わり、中国の戯曲研究にも詳しい人物である。のちに彼は中華民国の法典編 纂会副会長・司法総長・財政総長などの司法関係の要職を歴任する、文化人というよりは官 僚である。1131935年4月4日、斯文会の湯島聖堂の復興竣工式・孔子像鎮斎式が行われ、

董康は招待されて来日し、中文研の機関誌の創刊を支援していた田中慶太郎(文求堂主人)

は、董を中文研に紹介し、この懇話会を企画した。114そして、第三回(1935.5.18)は鐘敬文

108 同仁会は中国における医学と医療技術の普及を目的に、1902年6月から 1945 年まで活動し

ていた医学関係の団体である。その主な事業は中国と朝鮮への医師の派遣、満州と朝鮮におけ る病院の開設、および中国人医療関係者の育成だという。同仁会と雑誌『同仁』に関する先行 研究は、大里浩秋「同仁会と『同仁』」(『人文学研究所報』39、神奈川大学、2006.3)が挙げ られる。

109 『同仁』(1927.5-1938.5)は中国の医療関係の内容を日本に紹介するために発行された雑

誌であるが、その内容は医学だけではなく、中国の文学事情の紹介も含まれている。

110 竹内好は日記においてこのように書かれている。出典:竹内好「中国文学研究会結成のころ」、

前掲書、92頁。

一月二十七日(日)

朝、武田、岡崎来り、互いに労をねぎらう。並びに批判。共に郭氏を訪問することにする。(略)

郭氏大に喜び迎う。『思想』及『同仁』の件打合わす。

111 同前、93頁。

112 立間祥介編「中国文学研究会年譜」(『復刻中国文学』別冊、汲古書院、1971、40頁)。

113 董康の詳細について、孔頴「晩清中央政府の法制官董康の日本監獄視察について」(『或問』

第18号、近代東西言語文化接触研究会、2010)を参照。

114 立間祥介編「中国文学研究会年譜」、前掲書、48頁。

(1903-2002)の「中国文学の蒐集と探求」である。鐘は中国民俗学に関する学者であり、

当時、早稲田大学に留学中であった。懇話会への出席を依頼したのは、同じく早稲田大学出 身の実藤恵秀(1896-1985)115である。

ただし、研究発表の場としての例会と中国文人を囲む懇話会はどちらも長続きせず、1937 年7月以後、中国文学の講読会と中国語の発音講習会以外に、前述したようなイベントは開 催されなくなった。にもかかわらず、少なくとも中文研は第一期において例会と懇話会を通 して、中国文人との交流を深めていたといえる。彼らは中国近代文学研究の開拓に机上の空 論を語ることではなく、中国の文学者との接触を通して、同時代の中国にアプローチしよう とした。