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第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10)

第三節 中国文学研究会の漢学批判

二 竹内好と竹内照夫の漢学論争

当時の支那文学が、対象が中国であるということ、そのために官学的な伝統的な学風が 露骨に目についた。非常に権力迎合的で、幇間みたいなものです。だから余計にそれに 対する反発が強かった。198

つまり、成立当初の中文研は、「東大アカデミズム」、「官学的な伝統的学風」に対抗する 立場から文壇に出陣した。彼らは、直ちにその批判の矛先を「漢学」に向け、機関誌『中国 文学月報』において漢学論争を引き起こした。

第一に考へられるべきは儒教そのものに存在する雑多性に就いてである。(略)儒教が その誕生以後経過して来た社会的環境のみに考へてみても、(略)封建的なそれもあれ ば、官僚専制的なそれもあり、猶且儒教的文献の中には、国家成立以前の社会も描かれ てゐる。此ら諸種の環境が儒教に附着せしめた多色性を漢学はそのままに受取つたの である。又、(略)儒家は孔子の始めから、述而不作をモツトーとする所から、多くの 学説はその内容に於て一学者の創見であつても、その形式は概ね先哲の演述であり、従 つて長い歴史を経た後には儒教の学問的な対象は驚くばかりに増大せられ、問題の範 囲も亦甚しく拡張せられる。

このように竹内照夫は、漢学の持つ「百科全書的性質」を、儒教に附着した社会環境の多 面性と学説内容の拡張によって説明した。すなわち歴史の進展に伴い、漢学の中には多種多 様な要素が含まれていることを指摘した。彼はこの意味で漢学を「真善美」を総合すること ができる学問として、聖学であると捉えたのである。

この文章の趣旨は明らかに中文研の主張に反するものではあったものの、当時この機関 誌の編集者を担当していた竹内好に高く評価された。彼は竹内照夫の原稿を読んだ後の感 想を日記にこう書き綴った。

六月十六日(日)

竹内照夫、原稿を送り来る。漢学のもつ実践性と雑多性を指摘し、漢学の有する価値を

(竹内注:内在的)抽象せるものにして極めて面白し。論粗なりと雖も之だけ書けるも のは外にはなかるべし。反駁を当然書くべきなり。199

竹内好が中文研を組織した理由の一つには既述の通り漢文に対する嫌悪めいた感情が含 まれていたが、それでもここから読み取れるのは、彼が漢学に強い関心を抱くその姿勢、並 びに、誌上に漢学に関する議論を導入しようとする編集者としての極めて寛容的な態度で ある。

このような竹内照夫の漢学擁護論に対して、竹内好は「漢学の反省」(第8号、1935.10.23)

において、「『聖学』である漢学が何故今日の堕落(上品には不振と言はれる)を来したか」

という疑問を提示し、まず「イデオロギイとして不用化され、脱棄てられた漢学が、余にも 多くの封建的桎梏を一身に背負はされて、社会の進化の外に身動きもならず形骸化された ことに諸悪の根源は発足するものの如く思はれる」とし、漢学に対する自らの立場を明確に 表明した。

そして彼は「幾何の規格化された型があつて、その型にあて嵌るために、定められた古文 書中から恰好の字句を漁るやうな地道な学問は、近頃の我儘な、放埒な若者の好みには適は

199 竹内好「中国文学研究会結成のころ(1935年)」(『竹内好全集』⑮、115頁)。

ぬと見える」という方法論的視点から「漢学」を批判し、さらに竹内照夫の展開した「漢学 が実践的である」という主張について、以下のように反論した。

今日、一般的社会思潮は多少ともヂヤナリズムの形態に依存せずには在り得ないのだ が、漢学に対して不関焉を持するヂヤナリズムの不明はもとより、先づ問はるべきは、

之を利用することを知らぬ(或は怖れる)漢学者自身の因循な態度ではあるまいか。(略)

こと学問に関する限りは絶対服従の儒教的タブウに緊縛されて、公開的な論争一つ差 控へられるのである。今日の漢学に最も必要なものは爽涼なデイレツタントの精神を 許容すべき雅量であるといふことも出来やう。漢学の理念は如何にあらうとも、現実の 漢学が既に学問する情熱の雰囲気を失つてゐることは掩ひ得ない。

前述したとおり、竹内照夫はその文章において、漢学の持つ「百科全書的性質」、知的内 容の豊富さ、およびそれによってもたらされる「啓蒙的作用」という特性を挙げ、その「雑 多性」と「実践性」を強調している。すなわち、日本の学問としての「漢学」より、その対 象である漢文化の学問としての漢学の価値と特徴について記した。しかし、これに対する竹 内好の反論は主に日本における漢学界の方法論と独善的態度という二点に立脚したもので ある 。つまり、両者それぞれの主張の間には、論点そのもののすれ違いが見られるのであ る。

竹内好の「漢学」嫌悪の感情が露骨であったが、彼は漢学に対して関心を持ち続け、『斯 文』も読んでいた。「漢学の反省」を執筆している間に、彼は1935年9月3日の日記において

「昨夜床上にて『斯文』をよむに、漢文廃止反対の論すべて独断を比喩でつぎはぎしたもの なり」200と感想を語っている。第二節にも触れたように、1930年代の漢学界では、国民精神 の形成という意味で、儒学を母胎とした漢学の教条的な価値が大いに宣伝されていた。この ような思想は斯界において統一感を求めるような空気を保ちつつ、異論も許されない雰囲 気が漂っていた。それに対して既存学界への反抗心から出発した竹内好は、ジャーナリズム の持つ批判精神の重要性を提言し、漢学者たちの「絶対服従の儒教的タブウ」に異議を訴え、

竹内照夫の主張した漢学の「実践性」を否定する。そして、教化の面で大いに称揚されてい た漢学を「学問する情熱の雰囲気を失つてゐる」と糾弾している。特に、彼は漢学には「デ イレツタントの精神」(Dilettante)が必要であるといい、漢学という学問に向き合うにあた り求められるものは、楽しむ、或は享受する態度である、とした。

竹内の主張した「デイレツタントの精神」は、同時代に活動している日本浪漫派の代表人 物である保田與重郎に深く関連すると考えられる。そのあたりは第四節にまた触れられる が、要するに、ここまで確認できたのは、竹内の批判は漢学に「批判精神」が欠如しており、

かつ「デイレツタントの精神」が必要であるという二点に集約される。

彼が上述の二点によって漢学の「実践性」を否定することは、当時の斯界の学風を考慮し

200 同前、124頁。

たら、一理があるものといえよう。ただし、竹内好の文章において、竹内照夫が指摘した漢 学の内面的価値としての「雑多性」に触れず、「漢学を利用して一飯をありつかんとする」

というような実生活との関連およびジャーナリズムの視点で漢学の価値をひたすら否定す るというのは、主観に偏る表層的な結論であり、客観的かつ建設的な主張とは言い難い。む しろ彼のジャーナリズムの一面的な視線から「漢学」の価値を完膚なきまで批判する態度は、

彼自らの言った「独断」でもあるのではなかろうか。

また、竹内好の方法論に対する批判は、前述した彼の回想にも現れている漢文に対するコ ンプレックスをも想起させる。漢文そのものに困難を感じていた彼は、どのような感慨を内 心に抱きつつ、当時の「漢学の不振」を眺めていたのだろうか。竹内照夫のような漢学を内 面から批評する発言は竹内好には見られなかった。彼自身は漢学に深入りしたこともなか ったし、ゆえに「ジャーナリズムの欠如」という表面的な視点からの「漢学」批判しかでき なかった。言い換えれば、竹内好が否定したのは、漢学そのものではなく、「漢学」の研究 法、および漢学にひたすら社会的役割を求める当時の風潮であると考えられる。

これは第9号(1935.11.27)に掲載された竹内照夫の「非道弘人」からも推察できる。竹内 照夫はそもそも古典を読めていない「新進学徒」を下記のように糾弾する。

漢学なるものは骨董と書豚以外の何者でもないと断ずる性根には、救ふべからざる僻 見と被害妄想とがある。六経の一瞥をさへ怠つて何の支那学がある。「古文書中から恰 好の字句を漁る」が如きは抑々末である。何よりも大切なことは、デイレツタント的に 読むことである。読まずして濫りに思ふが故に、「漁る」が如き醜態に陥るのである。

ここで、竹内照夫は竹内好の内在的問題に突き止め、「漢学」を批判する前に少なくとも まず古典をきちんと読むべきという反論を投げ出した。つまり、竹内好の漢学批判の根源に は彼のコンプレックスが潜んでいることを示唆しているのではないか。

ただし、竹内照夫と竹内好は、「漢学」について表には対抗しているものの、その文脈か ら共通する見解も滲みだしている。例えば、「漢学の実践性」に関して、竹内照夫は同文章 において以下のように述べている。

「道を弘めるものは人であつて」、自然に流行するイデオロギーなどが若し在ると思つ たらそれこそ大惑である。——人間生活に於ける個人的及び社会的条件が或る思想に 及ぼす勢力の過当評価こそは現今一部に存する世界観の根本的錯誤である。漢学が今 に於てよし不振であるにせよ、それは決して漢学に内在的な原因が在ることを少しも 証明しない。

竹内照夫のここに挙げた「或る思想」とは、文中に繰り返して言及された「漢学的イデオ ロギー」に相当し、そして「個人的」な条件とは、竹内好の記した「漢学を利用して一飯を