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第二章 草創―発展期〈一〉:同時代の中国文学への覚醒(1934.3-1937.10)

第三節 中国文学をめぐる人的交流

一 増田渉と魯迅

前述したように、増田渉は中文研の同人であり、創立から解散までその中心人物として活 動した。そして、増田は魯迅と深い関係を持ち、両者の交際は中文研の初期活動の方向に影 響を与えたのである。その経緯を明らかにするために、まず増田渉の略歴、および中文研に 参加する以前の魯迅との関係を見てみよう。

1926 年、増田渉は東京帝国大学文学部支那文学科に入学した。在学中に塩谷温教授の中 国小説史、および瀧精一教授の東洋美術史講義に関心を寄せていた一方、学外では前述した 佐藤春夫の指導をうけ、中国小説の翻訳を手伝った。魯迅を知ったのも在学中であり、同級 生が集った研究会において、増田は『故郷』について論評し、魯迅に大きな関心を示した。

127そして、大学卒業後の1931年3月から12月まで上海に遊学した。その時、上海には内 山完造の経営している内山書店があり、日本からの文人たちは殆ど内山完造を介して魯迅 を訪ねてきたのである。128増田は佐藤春夫から内山完造あての紹介状をもらい、内山によっ て魯迅に紹介され、さらに師事することもできた。「毎日約三時間、同氏ノ寓居デ『中国小 説史略』及ビ『吶喊』『彷徨』等ノ講解ヲ受ク」129という。この経験によって、彼は1932年 4月号の『改造』に「魯迅伝」を発表し、これは魯迅を日本に紹介した嚆矢でもあった。

その後も、増田は魯迅と手紙によって交流を保っていた。それらの手紙をみると、増田が 帰国後、魯迅は翻訳上の指導を続けていただけではなく、増田の中国文学者との交流にも関 連していた。130また、魯迅は増田に中国の文学事情を伝え、増田は直ちに機関誌において公

127 増田渉『魯迅の印象』、前掲書、14頁。

128 魯迅と内山書店との詳細について、太田尚樹『伝説の日中文化サロン:上海・内山書店』(平

凡社新書、2008)を参照。

129 「増田渉教授略歴(自記による)」、前掲文。

130 1934年末、増田渉は呉組緗(1908-1994、1930年代に中国の農村を題材とする小説家として 文壇に高い評価を得た)の小説に注目しはじめ、呉と文通によって小説における「ユーモア」

の技法について交流するようになった。そして、増田は呉に送った手紙を魯迅にも見せ、魯迅 から様々な批判とアドバイスを受けていた。このあたりの事情について、丸山昇「『魯迅添削・

呉組緗宛増田渉書簡原稿』解説」(『汲古』10、汲古書院、1986.12)において詳しく述べられ

表する事例も見られる。例えば、魯迅は1935年の手紙において、中国での文学作品に対す る検閲事情についてこのようにいった。

1935.1.25

『文学』は僕から書屋に頼んだのです。(略)二月号には僕の「病後雑談」が出るはづ で、それは原文の五分の一、あとの五分の四は皆な検査官にけされたのです。つまり拙 作の首です。

検査官の中に頗るモガが居ます。彼の女達(増田注:これは明治時代のかきかた)は僕 の文章をわからないで手を入れるから、やられるものは頗る気持がわるい。131

魯迅は自分の文章が検閲官によって無茶に削除される事情を増田に詳しく説明し、そし て、このような中国文壇事情は増田によって素早く日本に紹介された。同年の『中国文学月 報』創刊号(1935.3.5)に発表された「雑言」において、増田は魯迅の「病後雑談」の話を 採りあげ、中国の文学に対する検閲制度を批判した。増田は言う。

早い話が、今日の支那文学が当面してゐる実際問題として、無茶な検閲制度がある。(略)

検閲がやかましいとは前から聞いてゐるが、この頃また聞いた話ではやかましいとい ふより出たらめのやうだ、例ば「文学」二月号の魯迅の「病後雑談」などは原文の五分 の四が刪去されたとかいふ話だ、すると活字になつたのは五分の一だ。(略)その検閲 なるものが、何も解りもしないモガなどのやる仕事だといふから恐入る、(略)だから こんな代物に手入されて活字になつた部分をつかまへ、構成に缺けてゐるとか、混乱し てゐるとか言つてみたところで、お話にならない話である。

増田は魯迅の手紙に書かれた話を再現し、中国文壇の検閲事情を述べ、不完全な作品に対 して構成を指摘しても話にならないと主張した。当時に日本の学界にせよ、民間にせよ、同 時代の中国文学をあまり評価していなかった。この文章を誌上に載せるのは、中国の文学事 情を日本に知らせた一方、日本の研究者が中国文学を客観的に評価するために根拠を提供 したといえる。

また、中国文学の事情だけではなく、魯迅は、1931年11月に増田に自分の編集したドイ ツの木刻画集を贈呈し132(図3参照)、増田の帰国後も上海の内山書店を通して、『北斗』、

『中国論壇』、『文学』などの左翼作家連盟の機関誌をはじめ、『水滸伝』、『鏡花縁』、『儒林 外史』、『老残遊記』などの白話小説、張天翼などの左翼小説にいたるまで、増田に様々な中

ている。

131 「魯迅の手紙」(増田渉『魯迅の印象』、前掲書、183頁。なお、原文はすべて日本文である。

132 『梅斐爾徳木刻士敏土之圖』(三閒書屋、1930)、原本は関西大学「増田渉文庫」に所蔵。

国の雑誌と書籍を郵送しつづけたことが分かる。133例えば、1935年3月と4月の手紙に下 記の事情が書かれている。

1935.3.23

又別に『文学季刊』(四)一冊と『芒種』と『漫画生活』と二冊づつ送りました。『芒種』

は反林語堂(増田注:林語堂に反対)のもので『漫画生活』は大に圧迫されて居る雑誌 です。上海ではエロチクの漫画の外はこんなもの、見本として。

1935.4.9

三月卅日御手紙到着、先月『小品文と漫画』一冊送りました。134

図3 梅斐爾徳木刻士敏土之圖

『文学季刊』は1934年、鄭振鐸によって編集された雑誌であり、巴金、老舎などの作品 がそこに発表された。また、『芒種』は1935年上海に創刊された小品文を中心とする雑誌で ある。ここで指摘したいのは、1935 年の機関誌に小品文が盛んに掲載され、漫画と木刻画

133 『魯迅書簡――致日本友人増田渉』(香港朝陽出版社、1973)を参照。

134 「魯迅の手紙」、前掲書、187頁-188頁。

に対する紹介もこの時期において行われたということである。つまり、魯迅が増田に小品文 と漫画に関する雑誌を送った時期において、中文研機関誌の誌面もまた小品文と漫画・木刻 画を中心にしていたということである。

ここで、再び前述した竹内好の増田渉に関する回想を思い出す。増田は中文研と「一定の 距離をおいて」、確かに誌上にもさほど投稿しなかったが、前にも触れたような彼と中文研 の翻訳事業との関わり、そして1935年前後に彼と魯迅との交流を考慮したら、増田渉は中 文研の活動を活性化しただけではなく、初期の機関誌の編集方向にも影響を与えたといえ るのではないか。