第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10)
第三節 中国文学研究会の漢学批判
一 竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫の漢学観
中文研の中心的な人物であるこの三人の中国との接触を言えば、漢学から始まったこと が共通的であった。
まずは竹内好の年譜を追ってみる。彼の中学校と高校時代に文筆活動の痕跡が見られる が、中国に対する関心がさほど見られなかったようだ。おそらく当時の一般教育としての漢 文授業以外に中国との接点がなかったと推測できる。1931年、東京帝国大学支那文学科に入 学した後、竹内は本格的に漢学に接しはじめたが、「漢字の素養がないために非常にハンデ
190 塩谷温「非常時と漢学」、前掲文。
191 溝口雄三「方法としての中国」(溝口雄三『方法としての中国』、東京大学出版会、1989、133
頁)。
ィキャップを感じ」192た、と回想している。彼は漢文を中心とする授業193に対して、かなり 困難を感じたのだろう。それは彼が初めて漢文を学ぶ時の話からも読み取れる。
私の体験をいうと、体操の次にきらいな学科が漢文だった。なぜきらいかというと、法 則性が感じられないからである。数学ならむろんのこと、前提さえ承認すればあと推理 で解けるし、英語にだってルールがあるのに、漢文だけは、理由なしの丸暗記を押しつ けられる感じが、いやでたまらなかった。
幼稚な話だが、はじめて漢文をならったとき、なぜ返り点をつけ、送りがなをつけて、
わざわざ単純なものを複雑化するのか、納得がいかなかった。(略)なんでこんなバカ バカしいことが行われるのか、理解を絶する。ほとんど侮辱に近い感じがした。194
その当時行われた漢学の授業では、漢文訓読法を駆使することが主流であり(今でもそう であるが)、上述の引用文から分かるように、竹内好は漢文訓読法に使われている返り点や 再読文字などの方法によほど窮屈さを感じたに違いない。つまり、自らの漢文の知識が貧弱 であるという「侮辱に近い」コンプレックスが竹内の中に著しく存在するといえる。
次に、武田泰淳の漢学との接触を見てみよう。武田はお寺で生まれたため、幼少期より漢 学の教養を身に着けることができていた。僧侶である父親に「中学にはいると毎晩、一時間 ずつ『十八史略』『日本外史』を講義してくれた」195という。そして、中国文化との接触、
および大学での勉強について、武田は開高健との対談で以下のように述べた。
開高 武田さんが中国だの、中国文学だの、中国大陸だの、中国的なるものに触れるよ うになった一番強烈なきっかけって何です。
武田 子供のときから親父さんに勧められて、『十八史略』やなにかをやって、『日本外 史』も読んだし、『水滸伝』でしょう。『三国志』。子供のときから、『漢楚軍談』
というのがあるんですよ。(略)もう一つは、本郷のような狭苦しい、鬱屈した、
何の変化もない、沈んでいくような土地でしょう。そんなところにいて、何とな
192 竹内好「わが回想」(竹内好『方法としてのアジア』、創樹社、1978、16頁)。初出:『第三文 明』十、十一月号(第三文明社、1975)。『竹内好全集』⑬に収録。
193 例えば、『斯文』第15編第5号(1933)に掲載されている東京帝国大学文学部の講義題目を
見ると、「支那哲学支那文学関係」の授業は主に以下のように構成されている。
清朝儒学史、周易注疏、支那道徳思想史、支那哲学講読(荀子)、支那哲学演習(礼記注疏)、 急就篇、支那語発音語法並講読、紅楼夢、支那語会話時文並小説、支那文学ト自然、琵琶記講 義、支那文学演習(元曲)、文選講読、支那古代絹布ノ研究。
194 竹内好「漢文ぎらい」(『竹内好全集』⑩、251頁)。初出:『中国』第53号(中国の会、1968.4)。 のちに竹内好『中国を知るために(第二集)』(勁草書房、1970)に収録。
195 武田泰淳「僧侶の父――ほんとうの教育者はと問われて」(『自伝:身心快楽』、創樹社、1977、
59頁)。初出:『朝日新聞』1970.12.19。『武田泰淳全集』⑯(筑摩書房、1972)に収録。
く唐詩、唐代の詩人の書いたものを読むと、広々として、ずっと奥深い景色が想 像に浮かんでくるわけ。だから憧れているわけだな。中国に対する憧れというよ りも、唐詩の世界というものが、何とも言えない、いい気持になってくる。196
このように武田泰淳は竹内と異なり、家柄と中学時代の読書歴の蓄積によって、大学に入 学する以前からすでに中国への興味を持ち始め、漢文も読める人間である。彼は竹内のよう な漢文に対する挫折感を持っていなかったが、上述の対談から分かるように、「漢学」を主 流とした「本郷」に対するイメージは決してよいものではない。にもかかわらず、彼は「狭 苦しい、鬱屈した、何の変化もない、沈んでいくような土地」で唐詩の魅力を発見し、中国 の古典文学に惹かれていくのである。
三人目の岡崎俊夫は武田と同じく僧侶の家柄であるため、彼もまた、大学入学以前から漢 文を読解することができ、充分な漢学の素質を持っていた。これは、彼の中国哲学を専門に した一因でもある。しかしながら、漢学と因縁がある彼は、自らの大学時代について以下の ような不満を漏らした。
ぼくが支那哲へ入ったのは、独文へ入りたかったけれど、卒業後の就職の心配があった のと、もう一つ、宗旨がちがうが武田と同じ坊主の子で、中学時代から宗教や哲学に多 少興味をもっていたから、一つ東洋哲学をかじってみようという気もあったのだ。とこ ろが、入ってみると幻滅、支那哲学とはいっても、哲学のテの字もない、要するに漢学 なのだ。197
上述のように、岡崎は漢学の素質があり、東洋哲学にも関心を抱いた。したがって、彼の 言った「漢学」は明らかに中国古典学を意味するのではない。これは、当時の訓読を中心と する教育法、および前述した漢学の時局に附合する時代性に対する不満の表れだといえよ う。このように、竹内・武田・岡崎の三人は、中国との最初の接点がそれぞれ異なるものの、
彼らはいずれも、大学時代に接した「漢学」に対して嫌悪めいた感情を抱いていたのである。
この共通点は、中文研において彼らが漢学批判を展開していく潜在的な遠因となったと考 えられる。
発足ごろの中文研の立場について、竹内好は以下のように述べた。
九年(筆者注:昭和9年のこと)に正式に会を結成して、十年に雑誌の刊行をはじめた ころは、一つは東大アカデミズムに対する反抗心というものがあったのですね。とくに
196 開高健、佐々木基一、武田泰淳「混沌から創造へ」(『武田泰淳全集』別巻二、筑摩書房、
1979、287頁)初出:『海』(中央公論、1975.7)
197 岡崎俊夫「『中国文学研究会』のこと(1)」(『天上人間:岡崎俊夫文集』、岡崎俊夫文集刊行
会、1961、154頁)。初出:『北斗』四巻二号(中国文学会、1959.4)
当時の支那文学が、対象が中国であるということ、そのために官学的な伝統的な学風が 露骨に目についた。非常に権力迎合的で、幇間みたいなものです。だから余計にそれに 対する反発が強かった。198
つまり、成立当初の中文研は、「東大アカデミズム」、「官学的な伝統的学風」に対抗する 立場から文壇に出陣した。彼らは、直ちにその批判の矛先を「漢学」に向け、機関誌『中国 文学月報』において漢学論争を引き起こした。