第一章 近代日本における中国認識の形成
第二節 中国文学研究会の創立
一 発足以前の主要メンバーの活動
中文研の発足は、竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫の三人を中心とするものであった。発足す るまでの三人が、どのような経験を積んだのか。これは中文研の設立時の背景、および性格 に関わる問題である。まず、竹内好の日記に書かれた中文研設立当初の様子を見てみよう。
三月一日(1934年)
横地、佐山、武田、岡崎氏来訪、中国文学研究会の第一回準備総会を開く。会名は中国
77 武田泰淳「初版自序」(『司馬遷――史記の世界』、講談社、1965、11頁)。初出:『司馬遷』
(日本評論社、1943)。
文学研究会に決定、披露まで当分の間準備行動とす。各自過去の研究コースの紹介と将 来の希望を述ぶ。例会、毎月一日、十五日二回に決定。回覧雑誌を出し、各自翻訳一篇 ずつ今月中に書くことを決める。中国文学の研究家に交渉をつけること、各自担当、自 分は池田孝と一戸務。78
上記の日記から分かるように、設立に参与した人物は、竹内好をはじめ、横地倫平、佐山 峲、武田泰淳、岡崎俊夫の五人である。791934年3月、竹内は東京帝国大学文学部支那文学 科を卒業し、横山と佐山は、大学時代の同期で、よく話し合った二人であるという。80ただ し、この二人は、後に中文研の活動に積極的にかかわった様子が確認できず、同人メンバー にも属してなかったため、ここでは、竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫三人の中文研結成以前の 活動を見てみたい。
まず、竹内好の年譜81から分かるように、彼は大阪高等学校の時代から校友会学芸部の機 関誌の編集を担当し、ジャーナリズムに対する関心を見せていた。1931 年、東大に入学し た後、RS(リーディング・ソサエティ。唯物弁証法などを研究する)の読書会に参加し、そ こに武田泰淳と知り合った。元々「無試験」のために支那文学科に入った竹内は、最初は中 国文学にそれほど深い関心を持っていたわけではなかった。また前述したような漢学に対 する不満があり、そして大学での授業はほぼ漢文を中心とするもので、彼は教室にも顔を出 さなかった。竹内が中国に目を向けるようなったのは1932年の時である。この年に、彼は 外務省対支文化事業部の半額補助を受け、朝鮮―満州―北京にわたり、二か月ほどに旅行し、
その際に北京で初めて孫文の『三民主義』に接した。これは彼の後年の活動に大きな影響を 与えた。1957年に発表された「孫文観の問題点」において、竹内はこのように語っている。
私は一九三四年から、仲間たちと中国文学研究会をはじめた。私の念頭にはいつも、一 九三二年の秋に植えつけられた『三民主義』の強い印象がまつわりついていた。そこに
78 「中国文学研究会結成のころ」(『竹内好全集』⑮、筑摩書房、1981、45頁)。
79 中文研の成立事情について、立間祥介編「中国文学研究年譜」(『中国文学(別冊)』、汲古書院、
1971)には:
昭和九年(一九三四)
一月 竹内好宅(芝区白金今里町八十九番地=現・港区白金台二丁目八十九番地)において、
研究会設立のため最初の会合を持つ。出席者は一戸務、岡崎俊夫、竹内好、武田泰淳、増田渉、
松井武男、松枝茂夫の七名。研究会はこの時に実質的に発足、以後、不定期に会合を持った。
と書かれているが、これは間違った記述である。竹内好自身も「日記」を公表した時(1972年
『辺境』第9号、井上光晴編、辺境社)に書いた文章の中にこの間違いを指摘し、「このころ は岡崎、武田をのぞいて他の人はまだ面識がない」(『竹内好全集』⑮、40頁)といった。
80 同前。
81 久米旺生編「竹内好年譜」(『竹内好全集』⑰に収録)。
感じた中国人「一般」の心情といえるようなもの、その実態が何であるかを私は文学的 に解こうとした。それを解くこととの関連で文学をやっていた。82
このように、満州と北京での旅行、および孫文の『三民主義』に、竹内好は深く感銘を受 け、「中国人『一般』の心情」の実態を発見しようという動機によって、本格的に中国文学 に接近しはじめた。
一方、武田泰淳の年譜83によると、彼は高校時代に『紅楼夢』、魯迅、胡適などの白話文学 や近代文学などを読みはじめた。と同時に、左翼組織の一員として活動し、1931 年東大に 入学した後も左翼運動にしばらく参加していた。1931年5月、ゼネストに関するビラ撒き 事件のために留置され、釈放後もほかの左翼活動のために三回逮捕された。1933 年、小説 の創作も行い、狐塚牛太郎の筆名で雑誌『明日』に「世界黒色陰謀物語」84を発表した。ま た、年譜には書かれていないが、1934年に武田は同じ筆名で雑誌『文化集団』85に「中国左 翼文壇の現状」(7月号)、と「中国文学情報」(10月号)を投稿した。いずれも中国の左翼 文学を紹介する文章である。また、既述したように、大学での授業に関心を持たずに、竹内 好と同じように漢学に対して嫌悪感を持っていた。
岡崎俊夫は、1930 年東京帝国大学文学部支那哲学科に入学した。それ以前通った高校が 武田泰淳と同じく、浦和高校であった。高校生活について、岡崎は回想文に下記のように記 している。
ぼくは、高校時代、初めの二年間寮に住み「寮友」という雑誌の編集をし自分でも小説 や戯曲を書いた。二年のとき文芸部の委員になって「学友会雑誌」を編集し、これにも 小説を二度ばかりのせた。また同じころ「浦高時報」という校内新聞(月刊)を創刊し、
主筆気取りで社説や評論を書いた。左翼運動の盛んなころだったので、当然その影響を うけて論調もはげしく、そのため生徒監にたびたび注意をうけた。86
このように、岡崎は高校時代から文筆活動を行い、雑誌の編集にも取り組んでいたことが
82 竹内好「孫文観の問題点」(『竹内好全集』⑤)初出:『思想』396号(岩波書店、1957.6)。
83 古林尚編「武田泰淳年譜」、前掲書。
84「世界黒色陰謀物語」を掲載した『明日』の所蔵は今のところまだ発見されてないが、その原 稿は日本近代文学館の「武田泰淳コレクション」に所蔵されている。
85 『文化集団』:文化集団社から1933年6月から1935年2月まで刊行された雑誌である。祖父 江昭二氏によると、本誌は機関誌または同人誌ではなく、営業誌であるという。また、執筆者 にプロレタリア文学者が多く存在し、雑誌の内容も文学だけではなく、映画・演劇・美術など 諸芸術ジャンルが含まれている。詳細は文化集団社編『「文化集団」別巻』(久山社、1986)を 参照されたい。
86 岡崎俊夫「『中国文学研究会』のこと」(『天上人間:岡崎俊夫文集』、岡崎俊夫文集刊行会、
1961、154頁)。
確認できる。そして、大学に入った後、プロレタリア科学研究所に所属し、支那問題研究会 で仕事するようになった。その間に、彼は中国語を勉強しながら、同時代の中国小説に触れ るようになった。また、武田泰淳との接点も彼の中国語学習の開始時期にあたる。
岡崎は当初東洋哲学に関心があり、東大支那哲学科に入学した。ところが、「入ってみる と幻滅、支那哲学とはいっても、哲学のテの字もない、要するに漢学なのだ。後悔したがも うおそい」87といったように、岡崎の漢学中心の大学に対する不満が読み取れる。
要するに、中文研成立以前の竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫の三人の経歴が非常に似ている ことが分かる。まず、出身大学は同じく東京帝国大学の文学部であり、竹内好と武田泰淳は 同級生であり、岡崎俊夫は一年上のである。岡崎俊夫と武田泰淳の場合は、高校も同じであ ったが、二人が緊密な関係も持つようになったのは、大学を出てからである。しかし、中文 研の成立は、このような同窓生によるものという単純な理由だけではない。上述から分かる ように、中心メンバーとしての三人の活動の方向性には多くの共通点が見られる。つまり、
彼らには、ジャーナリズムへの関心、左翼運動との関わり、文筆活動への熱中、漢学中心の 大学教育への不満および同時代中国との関連などの共通点が確認できる。このように、中文 研の立ち上げは、東大支那哲学支那文での同窓という理由以外に、それ以前に彼らの活動に 示された知的関心の共通性にもつながっているといえよう。