第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10)
第三節 中国文学研究会の漢学批判
四 外国文学としての中国文学
吉村の手紙ではどのような「御面倒をお掛けした」ことについて詳しく書かれていない。
だが前述したように、吉村の文章には国民精神化された「漢学」への批判が滲み出している 上に、さらに、会報ではわざわざ自らの言葉遣いに関する弁明を加えたことから見れば、こ の「漢学論争」は当局から何らかの注意喚起を受けた可能性があるのではないかと推測でき る。
このような推測が可能であるのは、『中国文学月報』が刊行された後には、早くも中文研 の活動が警察に目をつけられていた事情があったからである。特に、1935年4月の「謝冰瑩 事件」によって武田泰淳が検挙されたあと、当局の中文研に対する監視はより一層厳しくな ったというのである。竹内好の話によると、
昭和十年、満州国皇帝の溥儀が日本はじめてきた時、留学生のなかで怪しいと思ってる やつを予備拘束してね、その時に武田が捲きぞえをくっている。そういう事件なんかも あって、中国文学研究会というのは、とにかくブラック・リストにはのっているんです よ。のっているんだけれども、それほど悪いことをしそうもない、微弱な会だから、つ ぶさなかったんだと思うんだ。(略)戦争がはじまってからは、私の家が事務局でした から、月一回、または二月に一回程度、特高と憲兵が必ずきました。様子を探りにとい うか、牽制にというか、くるんですよ。いやな気持ですね。しかし応対は鄭重にしてま した。いつ挙げられるか、びくびくですよ。203
この引用文からも中文研を取り巻く当時の厳しい社会的環境を察することができる。同 人が検挙され、事務局も警察に睨まれている中で、漢学批判を取り上げるということは一定 の危険性を伴う行動であったことだろう。したがって、中文研の漢学批判は学界への反発だ けではなく、時局に対する反抗という一面も備えていると言えなくもない。
情念は憤りに身をふるはさずにはゐられません。対象が特殊なるが故に方法が特殊た るべしという命題は、それ自体では可もなく不可もないでありませう。何が故に対象は 対象たり得るのか。特殊は特殊たり得るのか。対象と方法とを結ぶ諸規定が、求むる心 としてでなく、具はれる悪智としてそこに働かなかつたでありませうか。②「竹帛に著 すを文といひ、その法式を論ずるを文学」ここに観念された文学が私と相容れぬことは 無論でありますが、(略)私が是非を問ひたいのは、文学といふ言葉にまつはるさまざ まな観念の類別に関してではなく、さうした観念の権威に隠れ、語原穿鑿に身を委ねて 自己の言葉を平然と忘れた無恥を攻めたいのです。(番号は筆者より)
中国古典文学は西洋文学とは区別され、「文献的解釈」によって研究されていた。①の部 分から分かるように、竹内好は、このような区別自体を「認容してもいい」といいながら、
「対象」と「特殊」を決める基準については大きな疑問を抱いていた。中国の古典文学のみ 何故に特殊でなければならないのか。ここにもまた、前述した1930年代における漢学の表 象、すなわち、日本の国民精神との一致性を想起させる。中国文学が西洋文学と区別された 理由もまさにそこにあるのではないだろうか。中国の古典が外国の文学作品としては鑑賞 されず、字句の注釈によって考究がなされていたのは、このような日本化された漢学の持つ 思想的な時局性と決して無関係ではない。したがって、竹内好の見解は漢学の日本化に対す る潜在的な批判であるともいえるだろう。
そして、②の部分に書かれた「竹帛に著すを文といひ、その法式を論ずるを文学」204とい うのは、中国の古文学者である章炳麟(太炎)の「文学総略」205に述べられた主張であり、
記された文字を「文」とし、その「文」の法式学を「文学」とする見解である。言うまでも なく、章炳麟の定義した「文学」は、一般的な意味と異なる。竹内好の求めている文学研究 とは、語源や文献的解釈の追求ではなく、古典文学を文学作品としてありのままに鑑賞し、
それを批評する能力である。したがって、彼は、「満ち、溢れ、流るるものこそ文学であり ませう。論語を一の随想として談る権利を私は吉村永吉氏(月報九号)と共に保留したい」
といい、中国の古典を「文献的解釈」にこだわる学問ではなく、外国の文学作品として批評 したいという願望を訴えた。
こうして、竹内好は文献考証的態度を持つ中国古典文学研究に対する不満を「漢学」にぶ つけるのである。
204 原文および出典:「文学者、以有文字箸於竹帛、故謂之文。論其法式、謂之文学」(『国故論衡』
中巻、上海文瑞楼書局、出版年不明)。竹内好がどのような経緯で章炳麟の文章を読んだか不 明である。ただし、1935年、『制言』という中国の国学を内容とする雑誌が、章の国学講習会 によって発刊され、竹内好の回想によると、この雑誌を「向こうから贈って来ました」(「わが 回想」、『竹内好全集』⑬、初出:『第三文明』、1975.10)という。
205 1906年10月から12月までに『国粋学報』に章炳麟の「文学論略」が連載された。これに基
づいて執筆されたのは「文学総略」である。1910 年に国学講習会によって発行された『国故 論衡』の中巻に収録された。
ものの生きた全体性の代りに、ものに関する概念が、認識主体を離れて素朴に実在する と観念される、かうした低調な学風が、漢学(或は支那学)の根底に横はる文献考証的 な態度に由来することは明かでありませう。現在の漢学は清朝の考証学に流を汲むと いはれます。だが、そこには「己を以て自ら蔽はず」(戴東原)と揚言した烈しい批判 精神、それあるが故に私の心を打つ、灼くやうな否定の精神の一片だに窺へませうか。
漢学もまた伝統の中にその精神を喪つて形骸化する過程は世の万般の事物と異らぬで ありませう。
このように、竹内好の漢学批判は、ジャーナリズムから出発したが、その内実は四書五経 などの古典籍に文学的価値を発見することによって、既存学界の現状を打破したいという 希望であった。彼の主張した「デイレツタントの精神」も、このような意志を物語っている。
つまり中国の古典籍とは文献考証の方法ではなく、本来外国の文学作品として楽しみ、その 文学的価値を享受するものであり、文学批評の方法でアプローチするものである。しかしア カデミックな漢学界において、竹内好の追求するジャーナリズム的な批判精神をいかにし て、どのように実現するのか。竹内好の示す方向性には不透明性が見られる。さらには、彼 の「漢学」批判に含まれている漢文コンプレックスの要素も忘れてはならない。第8号
(1935.10.23)に見られる竹内好の辛辣な批判に比べると、この文章の低調な筆触から、自 らの追求している中国文学の研究法とは何かという疑問に彷徨う竹内好の心境が窺える。
竹内好と竹内照夫の漢学論争は、誌上において初めて本格的に「漢学」の現状に対して疑 問を投げかけたものであった。しかしながら、その後の議論は更なる発展を遂げることはな く、第一期における中文研の漢学批判は、徐々に低調化する傾向が見られたのである。また、
竹内好と竹内照夫のみならず、他の同人たちもそれぞれ異なる意見を主張したが、国民精神 化された「漢学」に反対する姿勢としては一致していると思われる。ただし、これまで述べ た通り、彼らの「漢学」批判は徹底的に行われたとは言えない。特に竹内好はジャーナリズ ムの観点から「漢学」に強烈な批判を加えたものの、学問としての漢学が持つ内在的価値を 無視し、そして新たな打開策も出せなかった。そうした意味で、この時期における中文研の 行った漢学批判は、既存学界に新視点を提示した点では評価できるが、一方で論理的な体系 を構築することはできず、その先にあるべきビジョンをはっきりと描けなかった一面も否 定できない。
1937年10月、竹内好は留学生として北京へ向かい、そして武田泰淳、飯塚朗、千田九一な どの同人も相次いで中国へ渡った。そこから二年間に、「漢学」に対する批判は誌上から消 えてしまい、特に竹内好は三通の「北京通信」を発表した後、帰国するまでのあいだに沈黙 状態となり、「漢学」に関しては誌上で言及されることはなかった。