第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10)
第三節 中国文学研究会の漢学批判
三 他の同人の反響
第5号と第8号に掲載された二人の論争は極めて刺激的であった。これに触発され、本誌第 9号(1935.11.27)では特集「漢学を繞る諸問題」を組み、竹内照夫の反駁のほか、同人の吉 村永吉、武田泰淳、会員の丸山正三郎など、誌上に多くの意見が掲載された。ここからも同 人とはいえ、彼らの論調は必ずしも一致していないことが看取できる。
例えば、吉村永吉は「象の鎖」において、「漢学」を「支那文芸評価」を阻害するものと して批判し、特に漢学を道徳教育にする点に対して激しく非難した。これについて、吉村の 文章は当時の漢学界で盛んに議論された漢学の国民精神化に対する批判ではないかと筆者 は考えている。まず引用文を見てみよう。
支那の文芸を道徳や哲学に関連させることの好きな「大学の教授達」は、ともすれば孔
子が春秋を成つて乱臣賊子が懼れたと本気に考へてみたり、(略)①此の傾向は概して 江戸時代の御用学者から吾国にも流行し出して、多くの所謂聖典を含む、広い、そして 正しい意味の支那文芸そのものとは遊離した、別の一個の拵へ上げられた概念に甚だ しく満足することに慣れてきた結果なのである。その流は澎湃たるもので、②勢の激す るところ朱子一家の見を道徳教育の基準にしたり(略)といふのは、支那にはすでに一 つの完全な或る概念が本より厳存して、支那の文芸全般はそれの応用乃至発展に出る と見る事大的概念――支那人自身すでに久しい以前に脱穀清算して了つた観念――が 幅を利かしてゐるのであつて、嘗てはその概念を信奉し、③今はそれを殊更に揚棄せん とするにせよ、その根本真相から遠ざかれるは一緒だ。即ち今吾々に必要なことは、④ かかる追加的な特殊物を除き去つて、自然の状態に於て本然の姿に接することである。
木像の孔子様を礼拝することではなくて、仲尼を含む生きた支那人全体を理解するこ とである。(番号は筆者より)
この文章には漢学と国民教化に対する直接的批判が明確に示されていないが、文脈の前 後からその示唆を察知することができる。まず、①の部分「支那文芸そのものとは遊離した」
「別の一個の拵へ上げられた概念」とは何かが、文章の中では明白な説明として述べられて ない。しかし吉村は文章の冒頭部分に中国の古典文学を道徳化する大学教授を批判し、さら に②の部分「朱子一家の見を道徳教育の基準に」すると書いているように、ここで表現する ところの「拵へ上げられた概念」とは、国民を教化するために中国古典文学に付与された「君 臣」、「忠孝」という意義だと考えられる。そして④に書かれた「追加的な特殊物」とは、中 国の古典を国民精神化するという国策の流れに従う傾向と理解しても差し支えないだろう。
したがって、吉村は中国の古典を「聖典」として解釈を加えるのではなく、「支那の古典 の全体を文芸作品として平心を以て検討し直すことは、是非為すべく残されてゐる」と、漢 学を文学的に考察する必要性を提言した。つまり、吉村の主張は当時の漢学を国民精神の形 成に役立つと強調した漢学者たちの主張に対する反論であると読み取れるのではないだろ うか。
次に挙げる丸山正三郎の「漢学とジャーナリズム(竹内好氏の所見に就いて)」は、「漢学」
とジャーナリズムの不振を主旨とするものである。その内容は三点に集約されることがで きる。第一に、日本のジャーナリズムが持つ批判精神は儒教的論理観を揚棄していること。
第二には漢学を説く政治思想経済理論は指導性を失ったため、もはや漢学者はジャーナリ ズムに寄与できるものを持ってないこと。第三には、漢学は古典文学としてその価値を保ち 得るが、「実学」とは言えないこと。このように、丸山正三郎はほぼ全面的に竹内好のジャ ーナリズム論に賛成している。
こうした中に、同人として異色な意見を打ち出したのが武田泰淳である。武田は、竹内好 の漢学否定論とは異なる立場で、「漢学」の存在を認めたうえで、従来の漢学界の問題を指
摘し、「新漢学」のスタイルを提案した。201
具体的には以下の10点が含まれる。従来の漢学に関して、武田は①「漢学はむやみに打倒 さるべきものではな」く、「漢籍の知識なき東洋学は不可能である」との立場を示したうえ で、②他分野(東洋史学・美術史学・言語学・宗教学)との関わりを持ちながら、その研究 分野を拡大すべきだと指摘した。そして③「漢学はやや進歩性を失つた」ことは否定できず、
④従来の「支那哲学」と「支那文学」の分野は哲学らしくもなく、文学らしくもないと述べ、
⑤かといって「漢学は見棄てらるべきではあるまい」と主張した。さらに、武田は「新漢学」
の建設に関して、⑥新漢学は新進学徒の共同研究とともに進展することが必要であること、
⑦「現代中国文化にも関心を持ち、かつ中国の学術機関との学的協力」も必要となること、
⑧各研究分野の間で互いに連携し、漢学を活性化すること、⑨古典を「バイブルではなくし て、『学』の資料」として利用すべきこと、⑩これらの実現のために新漢学を指導して下さ る先生が現れることを熱望すると述べた。
武田泰淳が「漢学」の存在を肯定した態度は、彼の1937年の出征するまで発表された文章 から読み取れる。彼は馮夢龍、唐代の仏教文学、袁中郎などを論じ、古典文学に大きな関心 を示した。なお、武田以外にも、ほかの同人によって、『三言』、『紅楼夢』、『公羊伝』、王国 維などに関する論文、または随筆が、誌上に掲載されている。一方、竹内好は全く古典文学 に興味を示さず、魯迅、茅盾、郁達夫など、もっぱら中国近代文学に注目した。つまり、中 文研は、漢学批判から出発したとはいえ、竹内好の一家言に附和雷同することなく、同人の 間にそれぞれの立場を保持しながら、国体精神に束縛された「漢学」から脱皮しようとして いたのである。
この漢学論争の余波は第10号(1935.12.31)の「会報」まで続いた。「会員消息」欄には竹 内照夫と吉村永吉からの手紙が掲載され、誌上に残されたその文脈からは、漢学論争によっ て、彼らの言論にもある種の緊張感が走りはじめたことを読み取れる。竹内照夫は「とにか く面倒くさいからもう『漢学』について沈黙します」と明言したうえ、丸山の発言は明快で あり、武田の意見は穏健であると評価した。一方、吉村永吉は「拙文御掲載に就ては御面倒 をお掛けしたこと恐縮してゐます」といい、「象の鎖」での言葉遣いについて以下のような 解釈を加えている。
「今はそれを殊更に揚棄せんとするにせよ」なる一句は、後の「追加的の特殊物を除き 去り」或は「経学的観点の打倒」といふ小生の意図する所とごつちやになつて意味不鮮 明となる恐れなきにしも非ずで、実は「今はそれと、のれんと脛押し的の独相撲をとつ てゐるにせよ」といふ意味に御諒解願へたら幸甚です、何れにせよ甚だ無礼の言である ことは承知してゐますが御海容を願はしく存じます。202
201 武田泰淳「新漢学論」(『中国文学月報』第9号、1935.11.27)。
202 「会報」(『中国文学月報』、第10号、1935.12.31)。
吉村の手紙ではどのような「御面倒をお掛けした」ことについて詳しく書かれていない。
だが前述したように、吉村の文章には国民精神化された「漢学」への批判が滲み出している 上に、さらに、会報ではわざわざ自らの言葉遣いに関する弁明を加えたことから見れば、こ の「漢学論争」は当局から何らかの注意喚起を受けた可能性があるのではないかと推測でき る。
このような推測が可能であるのは、『中国文学月報』が刊行された後には、早くも中文研 の活動が警察に目をつけられていた事情があったからである。特に、1935年4月の「謝冰瑩 事件」によって武田泰淳が検挙されたあと、当局の中文研に対する監視はより一層厳しくな ったというのである。竹内好の話によると、
昭和十年、満州国皇帝の溥儀が日本はじめてきた時、留学生のなかで怪しいと思ってる やつを予備拘束してね、その時に武田が捲きぞえをくっている。そういう事件なんかも あって、中国文学研究会というのは、とにかくブラック・リストにはのっているんです よ。のっているんだけれども、それほど悪いことをしそうもない、微弱な会だから、つ ぶさなかったんだと思うんだ。(略)戦争がはじまってからは、私の家が事務局でした から、月一回、または二月に一回程度、特高と憲兵が必ずきました。様子を探りにとい うか、牽制にというか、くるんですよ。いやな気持ですね。しかし応対は鄭重にしてま した。いつ挙げられるか、びくびくですよ。203
この引用文からも中文研を取り巻く当時の厳しい社会的環境を察することができる。同 人が検挙され、事務局も警察に睨まれている中で、漢学批判を取り上げるということは一定 の危険性を伴う行動であったことだろう。したがって、中文研の漢学批判は学界への反発だ けではなく、時局に対する反抗という一面も備えていると言えなくもない。