第四章 模索―転換期:中国における二人の交叉(1937.11-1940.3)
第三節 武田泰淳:「文化」の追究
一 民衆と文化的破滅を目撃した戦場体験
1937年10月、武田泰淳は、一兵士として、竹内と同じ時期に中国へ渡った。表14は終
戦までの武田泰淳の訪中歴である。
表14 戦前における武田泰淳の中国体験
時間 目的 訪問地 本誌での報告
1937.10
~ 1939.10
召集令状をうけ、輜重兵 の二等兵として上海へ。
上海、杭州、南京、
武漢、南昌など
「戦線の武田泰淳君より――増田渉 宛」(第41号、1938.8.1)
「土民の顔」(第44号、1938.11.1)
「北京の輩に寄する詩」(第 44 号、
1938.11.1)
「美しき古書」(第50号、1939.5.1)
「支那文化に関する手紙」(第58号、
1940.1.1)
「杭州の春のこと」(第59号、1940.2.1)
「 支 那 で 考 へ た こ と 」(第 64 号 、 1940.8.1)
1944.6
~ 1946.4
徴用のがれのため、中日 文化協会に就職し、上海 における東京文化編訳 館に勤務。
上海 なし。
1.民衆への観察眼
機関誌に掲載された武田泰淳の現地報告は、軍人としての訪中に集中していた。これらの 文章から分かるように、彼が戦線で最も注意深く観察したのは現地の民衆である。実は、中 国の民衆について、彼は出征前にすでに注意しはじめていた。元々「学者志望」252の武田が、
最初に機関誌に投稿した論文は「中国民間文学研究の現状」であり、その中で、中国の民衆 に関する見方は以下の通りである。
民衆は活きた文化を創り出すために努力したのに、彼等は永い間、深い闇の中に埋れ、
何人もそれを理解するものはなかつた。我々は民衆文化を聖賢文化と平等に研究しな
252 竹内好・武田泰淳「「中国文学」のころ」(『武田泰淳全集』別巻二・対談、筑摩書房、
1979、248頁)。初出:『文芸展望』第10号、1975.7。
ればならない。253
武田が理解した中国民衆は、活きた文化を創造する者...........
であり、それゆえ民衆文化は、古典 の「聖賢文化」と平等に研究されるべきだと彼は指摘した。そして、彼の発表した論文254か らも理解できるように、彼が注目した民衆文化とは、情歌、生活歌、滑稽歌などのような地 方の歌謡であり、あるいは山海経、孟姜女、王昭君などの神話伝説である。その後、彼は出 征するまで続々と民衆文化に関する論文を発表した。255例えば、「中国西南地方蕃人の文化」
は、広東や福建などの野蛮人と少数民族を地方の歌謡と関連しながら考察したものであり、
また、「河北省実験区「定県」の文化」の中で、武田は当時の実験区としての定県256に注目 し、農村教育をはじめ農民参加の出版や演劇などの文化活動を紹介した。要するに、戦場へ 行く前の武田泰淳の理解した民衆文化は、地方歌謡・神話伝説などと深く関連したものであ り、そして、彼が注目した農村文化を建設する農民達の姿は、あくまでも「実験区」として の特例にすぎなかった。
しかし、現地で目撃した中国人は、武田の従来の民衆に対する理解に衝撃を与えた。これ について、彼は第44号(1938.11.1)の「土民の顔」の中に、このように書いている。
我々は極端な表情をしてゐるくせに心が少しも動揺してゐないらしい農夫を沢山見ま した。泣いたり喜んだりしてゐても眼は何処か異常なところをみつめてゐます。土民の 顔は黒く日燒けし素朴に見えますが彼等の心は青黒く深い潭のやうです。子供でさへ 何といふ鋭い智慧のはたらきを蔵してゐることでせう。我々兵士が交際するのはかか る心を持つた貧困な土民ばかりです。257
ここから読み取れる武田の「支那人」観について、岡山麻子の「武田は『支那人』を、具 体的政治状況の中で見せる表情の奥に、状況を超越する精神を内包した者と見ている」258と
253 武田泰淳「中国民間文学の現状」(『中国文学月報』第5号、1935.7.15)。
254 武田泰淳「中国民間文学の現状」、前掲文。
255 「武田泰淳年譜」によると、主に以下の論文が見られる。
①「中国民間文学研究の現状」(『中国文学月報』第5号、1935.7.15)
②「中国西南地方蕃人の文化」(『同仁』1935年12月号と1936年1月号)
③「山歌」(『中国文学月報』第11号、1936.3.5)
④「河北省実験区『定県』の文化」(『中国文学月報』第12号、1936.3.25)
⑤「唐代仏教文学の民衆化について」(『中国文学月報』第13号、1936.4.17)
⑥「猺人と釁型儀礼――『漢学会雑誌』の二論文について」(『中国文学月報』第16号、
1936.7.1)
256 1920年代、晏陽初(1890-1990)は中国で平民教育運動を発起し、河北省の定県が実験区
と指定された。1937年の日中戦争勃発まで、学者、知識人達は定県に入り、農村の教育発展 と文化力向上に取り組んでいた。
257 「土民の顔」(『中国文学月報』第44号、1938.11.1)。
258 岡山麻子「武田泰淳の文化論――日本近代文化への視座と『司馬遷』」(『近代日本研究』
26、慶應義塾福沢研究センター、2009、108頁)。
いう主張は、確かにその通りだと考えられる。ただし、ここで筆者が強調したいのは、武田 の現地で出会った「支那人」を通して、彼の「弱者」としての思考様式が読み取れることで ある。
武田は、後年の堀田善衛との対談の中で、彼が現地で見た農民について、より具体的に述 べている。
その百姓たちがね、ぼくたちを見る眼が、こいつら、たいしたことはない、自分たちの ほうがずっと優秀である、という眼なんだよ。(略)そこへこっちは徴発に行って、そ ういう人たちと対決するでしょ。こっちは武器をもってるし、むこうはもっていない。
そうすると、向うは遠巻きにして笑って見ている。(略)それはもう、農村文化ってい うものが、非常に強いっていうかな、日本人がなにいったって、蚊がとまったほどにも 感じなくて、最後にはむこうが勝つということ、のみこんじゃうということね。259
つまり、これまで武田が理解していた「民衆」は、神話伝説や地方歌謡にせよ、文化建設 を協力する農民にせよ、いずれも戦争から隔絶された「聖賢」的な存在である。そして、彼 が現地で見た、日本軍を目の前にして「心が少しも動揺していないらしい農夫」は、惨めな 戦争という政治状況の下で、泰然と生きている「強者」である。中国に攻め込んだ日本軍が、
逆に「弱者」的な立場になってしまうと彼は痛感したのである。
彼をさらなる「弱者」的な立場に追い詰めたのは、現地の中国民衆との出会いを通して感 じさせられた日本の中国研究の脆弱さである。前述した「土民の顔」において、武田はこの ように語っている。
アジア的なるもの、東方文化の一つの源流をなす支那を形づくてゐるものは彼等なの であつて、日本の漢学者と古書の発見についてペチャクチャ高等な北京語をはなす二 三の学者ではありません。(略)政治家は数千の苦力を使用することができればよいか もしれない。しかし文化人・東方における知性の華を花咲かせることを夢見る人は、一 人の農民の表情の中に人間の表情をよみとる深い愛がなければなりません。260
敵軍の前に心が動揺しない「土民」を通して、武田泰淳はいかなる研究にも見出せない中 国人の精神を感じたのである。彼が以前民謡や神話などにおいて接触したロマンチックな 民衆文化は、現地には見当たらなかった。そのため武田は、現実的な民衆の精神に目を向け ない日本の中国研究には「東方文化の一つの源流」を探る力がないと見ているのである。
259 武田泰淳・堀田善衛『対話 私はもう中国を語らない』(朝日新聞社、1973、43頁)。
260 武田泰淳「土民の顔」、前掲文。
2.「文化」への懐疑
前述したように、中文研は創立頃から日本における中国研究の現状に不満を抱いた。武田 もその同人の一人として同じ立場にあった。しかし、武田は戦場での体験を通して、従来の 認識を反省し、日本の中国研究に対する批判を具体化してしまった。従軍中に送った増田渉 宛の手紙において、彼はこのように語っている。
土壁ばかりの村落、まるで歴史のなかつたやうな住家に宿営してゐる時など今まで文 化といふものに対して抱いてゐた考へが変るやうな気がします。(略)私は自分の物の 見方のいかに小さな形式の中で満足してゐたかといふことを知りました。東方に対す る一つの決意もなくして何の袁中郎論でせう。何の中国文学研究会でせう。261
武田は出征前に、機関誌の第28号(1936.7.1)に「袁中郎論」を発表した。袁中郎は明末 の詩人であり、擬古的な文学に反対し、通俗小説や民謡などを評価した人物として知られて いる。武田は袁中郎の「進歩的意義」について、「彼は一度も中世を讃美した事はなかつた。
それを批判したのである。あらゆる権威は否定される」と評価した。このような武田の主張 は、中文研の既存学界への反抗という意志を物語っている。「袁中郎論」には、袁中郎その ものというより、袁中郎を通して自分の意志を形象化しようとする武田の姿勢が反映して いる。しかし、戦場に行った後、武田は明らかに自らの以前の研究姿勢に疑問を感じるよう になった。
そして、武田は現地で「土壁」と「歴史のなかつたやうな住家」に遭遇することによって、
従来の中国文化に対する理解を否定しはじめた。彼は、初めて自分の中国研究の初心を振り 返り、従来の中国文学に対する理解の仕方を内観した。つまり、中文研が伝統的な漢学を批 判し、近代文学を研究対象とすることで、中国文化を理解できるのかという自己批判である。
第44号(1938.11.1)に掲載された武田の「北京の輩に寄するの詩」は、このような自己批 判の奔出であるといえよう。彼は、「長閑」な北京で暮らしている竹内を「澄みたる北京の 空だけで、お前等の眼は黄塵に濁つてゐるだらう」と揶揄し、「北京の輩よ、 腸はらわたを出せ」
という強い口調で中文研の「東方に対する決意」を要求した。
武田の求めている「東方に対する決意」とは何であろうか。それはおそらく、彼の現地体 験を記述した文章において繰り返して述べられている、戦場で見た文化の破滅に由来する。
武田は1938年2 月に書かれた竹内好宛の手紙において、「本は全くどこの家へ行つても沢 山あります。皆目茶にふんづけてやります。わざわざ買つたことのある本など、無残に靴で けちらします」262と書いている。戦争による文化の抹殺は、彼の持っていた中国文化に対す
261 武田泰淳「戦線の武田泰淳君より――増田渉宛」(『中国文学月報』第41号、1938.8.1)。
262 「武田泰淳(柳川部隊吉野部隊吉村隊)から竹内好(北京朝陽門南弓匠営南椿樹胡同十一
号)へ(消印二十七〔昭和十三〕年二月十六日・北平と十七日・北平、軍事郵便、封書)」
(井上光春編『辺境』7、影書房、1988.5、4頁)。