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竹内好の漢学論にみられる保田與重郎との関連性

第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10)

第四節 竹内好の漢学論と保田與重郎

二 竹内好の漢学論にみられる保田與重郎との関連性

て対抗意識だけではないと思われる。

いる。

ともあれ現実と作品との間に於て作家の意識に生じる裂罅は実に言語性格そのものに ある様に思はれる。その理由は、文章は畢ママ意認識形式を作る場合形式論理学の範疇を破 り得ない。しかも文学の本質的特色は実に思惟された概念の記述でないことである。形 式論理学的なる認識形式(文章)は実に思惟の運行(観念)にめざましく力をもち、し かも芸術は存在の記載であらねばならないからである。215

上記の引用文から、保田與重郎の文章と文学に対する認識を読み取れる。文章とは、文の 体系としてパターンに関する問題であり、作家の認識形式を構成することに関連する。保田 は文章を構成していくこの流れを「思惟された概念の記述」として理解した。如何なる文章 も、それのみをもって文学であるとはいえない。文学の芸術性は言語の羅列によってではな く、文章を通して最終的にいかに「存在」を発し得るかである。保田は、文章の構成を「概 念」として理解した。このような要素は、竹内好の文学に対する理解においても見られるの ではないか。

このように、芸術としての文学とは「概念」を述べるものではない。『コギト』第6号に掲 載された「アンチ・デイレツタンチズム」において、保田與重郎は「芸術を享受するものは 終ひに個人であるという事実」216を指摘し、文学を論じる際に「個人」の立場の重要性を主 張した。217前述した「印象批評」の冒頭に於いても、保田は芸術における直観の重要性を強 調し、また批評家に対して「作品に愛をもつこと」、および「科学的なる教養性」を求めた。

さらに保田は、「批評をさまざまに意匠づけるとしても、純粋な批評の根底に於て芸術する 情熱――作者と共に――換言すると享受以前の愛があり、それより出発するものであらう」

218と述べた。ここから彼の批評に対する態度が読み取れる。つまり、批評とはまず、批評者 自身が文学作品の芸術性を享受することから始まる。すなわち、批評者には個人としての鋭 い直観による感受性(保田の言葉でいうと「心構へ」219)が要求される。

また「印象批評」の最後に、保田が印象批評と作者の人間性についてこのように語ってい る。

学から、倫理学から、神学から、の批評を拒絶する。この意味で実に芸術批評と云へよう」と 解釈されている。(保田與重郎「印象批評」、『保田與重郎全集』②、講談社、1985、18頁)。初 出:『コギト』創刊号(1932.3)。

215 保田與重郎「印象批評」、前掲書、8頁。

216 保田與重郎「アンチ・デイレツタンチズム」(『保田與重郎全集』②、41頁)。初出:『コギト』

第6号(1932.10)

217 保田與重郎の主張した「個人」の立場について、小松原孝文氏は「破壊と建設の文学へ向け

て:保田與重郎『アンチ・デイレツタンチズム』」(『日本文学』60巻9号、2011)においても 論及した。

218 保田與重郎「印象批評」、前掲書、22頁。

219 同前、20頁。

印象批評は失格しない。人は――特に左翼のイデオロギストはレエニンの断片的批評 の中にさへ意味を汲まんとする。このことは就中以上の事実によつてのみ正当化され るであらう。同様に「論語」に現れた孔子の詩経を述べることにより明らかにした芸術 観にしてもさうである。孔子は凡庸な訓詁学者によりしばしば生彩を失つてゐる。レエ ニンの芸術観の生彩を剥落する者は誰であらうか。220

左翼イデオロギーに局限されたレーニンの断片的批評と同じように、形式に拘る訓詁だ けでは、孔子の持つ芸術観の生彩を見いだせないと保田與重郎は説いた。したがって、文学 批評における「個人」の立場、および文学に現れた人間性に対する追求を実現できる面で、

保田は「印象批評は失格しない」とも主張した。

このような保田の論調からは、孔子の文学観を知りたいという竹内好の掲げた主張と重 なるものを想起できる。同様に竹内好の漢学論では、「個人」の文学観を重要視する傾向も 見られる。例えば、竹内は「漢学の反省」において漢学には「デイレツタントの精神」が必 要であると主張し、中国の古典文学研究における文学鑑賞の目線の欠失を指摘した。そして

「私と周囲と中国文学」で、彼はまた、以下のように語っている。

私は文学研究に於る鑑賞主義、主観主義の言い旧された言葉を下手に並べかへしてゐ るだけかもしれません。享受と批評の解き難い二元を私もまた解き得るとは思はない。

私はただ、周作人が文学史を講ずるに当つて自己の文学観から出発した、出発せずにゐ られなかつた心情を、その文学観の当否とは離れて、尊いものに感じます。(竹内注:

「中国新文学的源流」)221

ここで明らかになったのは、竹内好の言論には、「鑑賞主義」、「主観主義」、「享受と批評」

などのようなキーワードが含まれていたが、これらは1932年の保田與重郎の初期作品に繰 り返し登場する。そして、竹内が『中国新文学的源流』を高く評価したのは、周作人が文学 史を論述する際に「自己の文学観」から出発するという姿勢によるものである。これも保田 の提唱した「個人」の立場に通底するといえる。

前述したように、この時期の竹内好は、連日にわたって『コギト』への批評を試みたほど、

保田與重郎に高い関心を持っていた。竹内好の年譜と日記を見た限り、彼には保田與重郎の ように広く国文学の知識と西洋文学理論を渉猟する経験がなかった。しかしそれにもかか わらず、彼の観点には、保田與重郎との強い相似性が多くみられる。これは、竹内が高校、

そして大学時代にもつねに保田の行動を意識していた結果といえよう。

一方、保田與重郎の目に映った竹内好の言動はいかなるものであったのか。1969年に発表

220 同前、26頁。

221 竹内好「私と周囲と中国文学」(『中国文学月報』第23号、1937.2.1)

された回想において、保田は次のように述べている。

漢文学の方では、旧時代の儒学が排除され、文明開化の「漢文学」は同時に欧洲風の「支 那学」を加味し、それが帝国大学の学風をなしてゐたが、私らの時代に「中国文学」と いふ新しい傾向が出てゐた。それは我々と同年配の若い学生たちによつてなされた理 解法で、「日本文芸学」の古めかしさに比して、若さと未熟さにうらづけられた生新性 があつたが、系統としては、文芸学の方向をとつてしばしば「プロレタリア文学」への 妥協を示してゐた。222

ここからも、同時代の文壇に登壇しようとする二人が、互いをそこはかとなく意識しつつ その行動を注視していた様子が窺える。中文研が草創―発展期に行った一連の漢学批判は、

保田の言ったように「若さ」と「未熟さ」に裏付けられたといえよう。いずれにせよ竹内好 の漢学論の形成には、彼自身の体験、および時局の表面に浮び出した既存学界の漢学論への 反抗以外に、同時代を生きた知識人の論調からの影響も強く垣間見えるのである。