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国語運動から「支那語学」へ

第五章 中興―葛藤期:中国語問題の展開(1940.4-1943.3)

第三節 国語運動から「支那語学」へ

第二節では、中国語問題を通して、国民精神の形成に寄り添う「漢学」に対する中文研の 批判を考察した。しかし、このような姿勢は時局の進展とともに次第に崩れていく様子が見 せた。中国語に対する関心は、実は第一期の中文研の活動にも見られる。本節では、まず第 一期の中文研の中国国語運動への見方、および近代中国語の受容に関する文章を中心に取 り上げ、これらを通して、中国の国語運動が同時代の日本でいかに認識されたのかを明白に し、さらには第三期の誌上に掲載された「支那語学」に関する言論と比較することによって、

「支那語」と呼ばれていた近代中国語の様相が、時間の経過に従って、誌上において変化し ていくことを検証してみたい。

一 第一期における国語運動に対する関心

328 同前。

1 1930年代の国語運動

本題に入る前に、まずは近代中国の国語運動の概況を簡潔に紹介する。近代中国において は、国語に関する議論と改革が繰り返して行われていた。1912 年から 1949 年までの間に は、国語の統一を中心課題とした中国語改革に関する一連の提案と動きが見られる。中文研 の活動を考察する前に、1930 年前後の中国国語運動の概況をみてみよう。この時期におい ては、発音法、表記法、簡体字などが国語運動の重要な課題として議論されていた。329

まず、発音法に関しては、「注音字母」から「注音符号」への転換がこの時期に完成され たのである。1912 年の中華民国成立後、国民政府は直ちに漢字発音の統一に取り組みはじ め、翌年2月の南京臨時政府教育部主催の読音統一会では、漢字の音を示すための「注音字 母」が決定され、1918年に正式に公布された。1930年、国民政府は第二四〇号訓令を発し、

「注音字母」を「注音符号」と改称し、発音記号としてその普及を積極的に推進した。

もう一つ検討されたものは「国語ローマ字」である。1923 年、教育部が開催した国語統 一準備委員会の第五次大会において、銭玄同は「国語ローマ字」を提案し、1928年9月、

「国語羅馬字拼音法式」が中華民国大学院(元教育部)によって公布され、「国音字母の第 二式」330として位置づけられた。にもかかわらず、その法則は複雑であったため、広く普及 するには至らず、特に1934年以後、国語ローマ字の勢いは低調になっていく。

一方、新たな表記法として提案されたのはラテン化文字である。ラテン化文字は、当時の 中国共産党指導者の瞿秋白(1899-1935)と深く関連しており、その誕生をさかのぼれば、

実際は中国ではなく、ソ連に由来するのである。1931 年に、ウラジオストックで開かれた 中国文字ラテン化第一次代表大会において、「中国漢字拉丁化的原則和規則」が承認された が、それが本格的に中国に導入されたのは、1933 年以後のことである。ラテン化文字は、

魯迅、茅盾、蔡元培などの知識人に高く評価されたが、戦争中においては、主に共産党が活 動していた地域で普及していた。

また、ラテン化文字とほぼ同時に提起されたのは、手頭字の必要、つまり、漢字の簡略化 である。1935年2月24日の『申報』において、200名の文化人による署名入りの「手頭字 之提倡」が掲載され、300 個の手頭字が発表された。そして、1936 年には容庚の『簡体字 典』(哈仏燕京学社)が出版され、常用の約4400字の簡体字が収録された。簡体字は、ラテ ン化文字と共に、国語運動の一課題として大いに議論されたのである。

2 中国文学研究会の異色な論調

上述のように、1930 年代の中国において、中国語の口語体化を目指した改革が盛んに行

329 近代中国の言語改革について、大原信一『近代中国のことばと文字』(東方書店、1994)、藤

井(宮西)久美子『近現代中国における言語政策:文字改革を中心に』(三元社、2003)を参 照されたい。

330 費錦昌編『中国語文現代化百年記事(1892年――1995年)』(語文出版社、1997、44頁)。

われた。一方、この時期の日本においては、学術界も含め、中国で起きている国語改革運動 について積極的な関心を寄せていなかった。文語体の古典文と区別して、口語体の中国語は

「支那語」と呼ばれ、「戦争語学」331として扱われた。このような状況は終戦まで続いてお り、例えば伊地智善繼は、日本での中国語研究に対する姿勢について、以下のように批判し ている。

日本の国語運動に従事してゐる人たち(すなはち、假名文字論者、漢字制限論者たち)

が同一のなやみにつまされて、支那におけるそれらの運動を少しばかり紹介した外に は、まつたくそれらの紹介さへ行はれなかつたやうに記憶してゐる。日本の支那語の先 生が、注音符号等に関して、わけの分らない翻訳や、国語運動に使はれたテキストを切 りぬいた教科書をつくつたことがあるにはある。しかし、そんな仕事は単なる気まぐれ 程度であつて、支那語の学問的整理についての本質的見とほしや、研究的態度を学ばな かつたのである。332

ここからも分かる通り、日本の知識人たちは中国における国語運動の現状に関心を示さ ず、同時代の日本において中国語の研究はほとんど重視されていなかったことは明白であ る。こうした中でも第一期の中文研は、中国の国語運動に非常に強い関心を示していた。例 えば竹内好は、創刊早々に「国語に関する諸問題」を発表し、国語運動の歴史を紹介したう えで、中国の国語と方言の問題、そして大衆語運動や簡体字問題なども含めて、同時代の中 国で行われている中国語の改革について詳しく記した。竹内は、国語運動に注目する理由を 以下のように提示している。

中国の国語問題は特に我邦の国語と密接な関係を持つ。単に漢字が共通するだけでは ない。過去の日本語が支那語に影響された如く、新しい支那語の造成は殆ど日本語の語 彙から輸入され、日常化してゐる。国語に関する基礎的な学説は固より、その改革諸論 に至るまで我邦に範を求めたものは極めて多い。漢字制限、略字、假名文字、ローマ字 等の諸運動及び之に対する反対論はすべて彼我に類似の形態を見出し得る。

現在の国語学界はかなり錯雑してゐて簡単に把束することは困難だ。ともあれ、中国に 於ける国語問題の動きを静観することは、我々にとつて敢て無意味な閑事業とは云は れない。333

331「戦争語学」という言い方に関して、六角恒廣・横山宏『中国語への道』(大修館書店、1975)、 安藤彦太郎『中国語と近代日本』(岩波新書、1988)を参照されたい。

332 伊地智善繼「支那の国語運動と日本の支那語についての感想」(神谷衡平・宮原民平・清水

元介編『華語集萃』、螢雪書院、1942、33頁)。

333 竹内好「国語に関する諸問題」(『中国文学月報』第3号、1935.5.16)。

竹内は中国語と日本語との関係について、漢字を用いる点が共通するだけではなく、「新 しい支那語」の形成に日本語が及ぼした影響を強調し、さらに、日本語も漢字文化と緊密な 関係を持つ以上、中国の国語運動の動きには注目すべきだと主張した。つまり、国語改革と いう課題を見た時、日本語と中国語には、共有すべき課題もあり、中国の国語運動を注意深 く観察することは、ひいては日本の国語問題に潜む問題点を探る手掛かりが得ることにも つながるであろう、と彼は主張した。

こうして、中文研は近代中国語への関心を日本国内で喚起するために、様々な試みを行う ようになる。例えば第 7 号(1935.9.25)に、同人である武田泰淳と曹欽源が共同執筆した

「言語研究部会の設立」が掲載された。その内容は以下のようである。

いよいよ言語研究部をやることにした。公羊伝を読むために山東語をやりたいとか、古 韻をやるために厦門語を研究したいとか、證文を読みたい等いろいろ意見があるが、先 づ手始めにカールグレンの中国語研究の支那訳をテキストとした講読会(月一回位)を 十月から実行する。今後のプラン左の如し。

(一) 支那語の発音練習

(二) 文字の問題(注音符号、国語ローマ字、ラテン化等)

(三) 言語発達史

(四) 各地方言の検討

中文研は最終的にカールグレン(Bernhard Karlgren)の”Sound and Symbol in Chinese”334 の中国語訳『中国語與中国文』335を講読会のテキストとする方案にまとまった。ここで着目 すべきなのは、将来の計画として挙げられた(一)~(四)の項目である。プランに書かれ た四つの内容は、そのいずれも当時の中国語改革の動向を反映している。例えば、(一)の 標準語の発音練習は、従来の漢文訓読一辺倒の学習を打破し、中国国語運動によって成立し た発音法を日本で広める行動であり、(二)の注音符号、国語ローマ字、ラテン化などは、

中国語の発音記号と表記法であり、当時の中国国語運動の一環としてかなり議論がなされ ていたものである。そして、(三)の言語発達史は、中国における国語運動の方向を見定め るために、当時大いに研究された課題であり336、(四)の方言の検討は、中国の国語統一と 深く関連している。要するに言語研究部会の打ち立てた計画は、中国の国語運動を的確に捉

334 London: Oxford University Press, 1923. なお、本書の日本語訳『支那言語学概論』は、

1937年に岩村忍・魚返善雄によって翻訳され、文求堂から出版された。

335 本書は1918 年にスウェーデンで出版された。本書の中国語訳は、1933 年に張世禄によって 翻訳され、上海商務印書館に出版された。

336 例えば、黎錦熙は1935年に『国語運動史綱』を出版し、清末以来の国語運動の歴史を整理し

た。