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第五章 中興―葛藤期:中国語問題の展開(1940.4-1943.3)

第二節 結論

中国文学研究会は、1934年から1943年までの間に、同時代の中国文学に注目すると同時 に、新たな中国研究法を提示するために、漢学を批判し、中国語に関心を寄せ、さまざま方 法によって中国にアプローチしようとした。本研究は、中文研の足跡を追いながら、戦時下 における彼らの中国認識の変遷を考察し、主に二つの問題を明らかにした。一つは、1930年 代から1940年代までにおいて近代中国を研究する唯一の団体として、中文研の全体像はい かなるものかという問題であり、もう一つは、彼らの活動は日中文化交流史においてどのよ うな役割を果たし、どのような意味を持つものであったかという問題である。

そして、本研究の特色は、一人の知識人にとどまらず、中文研に関連する多くの知識人を 取り上げ、多面的な視点から、戦時下における中国認識の再検討を試みた点である。以下、

各章での分析によって明らかとなったことを要約しながら、中文研の全体像を整理してい きたい。

第一章では、まず1930年代前後の日本における中国認識の形成に注目し、政治界・調査 機関・学術界・メディア界・文学界という五つの分野で形成された中国論を考察した。その 結果、1930 年代の中国論には同時代の中国民衆への関心が希薄である傾向が分かった。調 査機関が多数存在し、中国に関する情報が日本に溢れていたものの、中国人の実態を反映す るものは少なかった。また、大学における中国研究は支那学のような新たな研究視点が形成 されていったが、同時代の中国文化界に対して無関心のままである。つまり、日本国民の中 国理解を深める土台が築かれていない状態であった。このような言論環境において、中文研

368 原文:我曾在东京和不少的中国朋友交谈过,最后却碰到了一层牢不可破的隔膜,心中流泪过。

然而今日的朋友则到不了流泪了,立即便到达了极厚的隔膜。(略)这个隔膜是从什么地方来的 呢。我以为我们要愈早愈秒地来互相除去这层隔膜,一起哭,一起笑,一起成为火燃烧。

岡崎俊夫「我們的『中国文学』」(『藝文雑誌』第2巻第2号、1944.2)。原文中国語、翻訳は 筆者よる。

は既存の学界に対する対抗、および同時代の中国人に注目することという二つの方向に向 かって出発したのである。

また、中文研の創立に関わった竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫の三人の中心人物に注目し、

彼らが高校時代と大学時代において示した知的関心の共通性を明らかにした。つまり、彼ら には、左翼運動との関わり、ジャーナリズムと文筆活動への強い関心、漢文中心の大学教育 への不満、および同時代の中国文学への関心といった共通点が見られる。このような共通点 によって彼らの作り上げた中文研は、日本文壇に進出しようとする性格を帯びている。1935 年に発行された機関誌『中国文学月報』は、当初は12ページぐらいのものであった。とは いえ、中文研の発足と機関誌の創刊が日中の文壇で活躍していた多くの文人に関与した事 実からも、彼らが当時の文壇に一定の知名度を広げたことを察知できるだろう。また、機関 誌の変遷をたどることによって、機関誌の時期ごとの特徴を明らかにした。第一期(1934.3-1937.10)では、誌上において近代中国文学に関する内容が最も充実していた。また、漢学 批判、および中国古典文学に関する考察も多くなされている。第二期(1937.11-1940.3)で は、竹内好と武田泰淳の不在によって、機関誌は全体的に低調期に入り、第一期のような活 発な議論が見えなくなる。そして、第三期(1940.4-1943.3)では、最も多く現れたのは中国 語に関する論述であり、これは第一期の漢学批判の継承だと考えられる。

第二章は、第一期における中文研の同時代の中国文学への関心を中心に、彼らの中国文学 に対する認識の内実を探ってみた。まず、雑誌掲載記事を量的に分析した結果、中国近代文 学に関する文章は、第60号(1940.4.1)以前に集中していることが分かった。また、中文研 は誌上に中国文学を取り上げるだけではなく、例会や懇話会などのイベントを開催するこ とによって、同時代の中国文学者との交流を促進し、特に、郭沫若から様々な支持と協力を 受けていた。また翻訳活動も彼らの一大事業といえる。中にも増田渉は同人として誌上に発 言することが少なく、中文研での役割は不明瞭であったが、実際は中文研の翻訳活動にとっ て、増田は無視できない存在であることが分かった。

次に、中文研の中国文学者との交流に関して、増田渉と魯迅との関係、および謝冰瑩・茅 盾との交流を中心に考察した。増田渉と魯迅との付き合いが、誌面に反映されている一方、

初期の機関誌の編集方向にも影響を与えていると考えられる。そして、茅盾と謝冰瑩などの 左翼作家との交流において、中文研の同人たちは中国文学に現れたリアリズムに関心を向 け、これはまた、彼らの中国民衆への注目にも関連する。彼らの中国民衆に対する関心は、

初期の機関誌に掲載された漫画と木刻画、および農民文学に関する文章を通して読み取れ る。そして、1937年から1940年までのあいだ、誌上に一連の農村文学に関する論文と翻訳 が掲載されていた。中文研の同人たちの執筆した沈従文、葉紫、蕭軍に関する論文を比較し た結果、彼らに共通して見られるのは、政治に圧倒された文学に対する批判的な態度である。

このように、中国近代文学の日本での受容に対して、中文研は作品の輸入から人的なネッ トワークの構築まで、大きな役割を果たしたことが明白となった。そして、中文研の関心は

主に中国の民衆を表現することに向けられており、さらに中国文学の政治性などを批判し たのは、変動する自国文学に対する彼らの思考にも通底し、日本プロレタリア文学の批判的 な継承ともいえよう。

第三章では第一期における中文研の中心的な課題であった「漢学への反抗」について考察 した。まず1930年代に至るまでの漢学に関する言論環境を振り返ってみた。1920年代末か らは漢学を国民精神にする傾向が見られはじめ、1930 年代の学術誌にもそれは表れている ように、漢学と日本精神との一体化が強要されるようになった。

次に、機関誌『中国文学月報』に現れた漢学論争に関する言論を詳細に分析した。その結 果、まず誌上に積極的に漢学に関する討論を導入しようとした、竹内好の編集者としての寛 容的な姿勢を確認できた。さらに、中文研の誌上に現れた漢学批判は学問としての漢学への 反撥ではなく、漢学の価値を教化の面で大いに喧伝していた既存学界の学風に対する対抗 であることが明らかになった。従来の研究では竹内好と竹内照夫の論争に現れた対立関係 のみがクローズアップされてきたが、本研究では、既存学界の学風を問題視する両者の間に は、実は表裏一体の思想が存在すると究明した。

中文研は漢学批判から出発したとはいえ、竹内好の思想に同調することなく、同人のあい だでそれぞれの立場を保ちながら、誌上に多種多様な中国古典文学に関する研究が発表さ れた。しかしながら、この時期の中文研の同人による漢学論の方向性には、なおも曖昧さが 残っていたことも否定できない。

また、竹内好の漢学論に関しては、彼自らの漢文コンプレックスの影響、および、当時日 本の文芸評論界で活躍していた同窓の保田與重郎との関わりも確認できた。竹内が高校か ら大学にかけての間、保田の言動を追いかけようとした姿勢はその文章から読み取れる。さ らに彼の漢学論には、保田與重郎の初期文芸評論に通底する内容も見られる。

このように、中文研の「漢学論」は昭和初期の時局において形成されていた中国認識と深 く関連していたといえる。竹内好たちの展開した批判は、中国古典文化としての漢学に向け られているものではなく、漢学を帝国イデオロギーに吸収しようとする学界の傾向に対し て向けられていたのである。彼らの志したジャーナリズム的な研究手法という斬新な提言 は、結局は体系的な理論を構築するまでには至らなかった。しかしなから彼らの挑戦は、中 国の古典文学がやがては時局の束縛から解放され、外国文学としての地位を回復する可能 性を提供したのである。

第四章は、竹内好と武田泰淳の中国体験について考察し、中文研の改革に関わる両者の連 帯性を明らかにした。竹内好は戦争を傍観する思いで留学生として北京へ渡ったが、現地に おいて予想と異なる「平和」を目撃し、次第に初心を失っていく。竹内は北京の「長閑」を 通して、政治と文化との不可分性を意識し、中国文学に対して動揺しはじめた。このような 体験によって、帰国後、彼は中文研を改革し、新たな出発点からやり直そうとした。以前の 活動に比べ、竹内は一層政治的な方向へ向かっていく。彼の政治性には、二つの意味が含ま