第二章 草創―発展期〈一〉:同時代の中国文学への覚醒(1934.3-1937.10)
第二節 同時代の中国文学との接触
三 同時代中国文学の翻訳活動
(1903-2002)の「中国文学の蒐集と探求」である。鐘は中国民俗学に関する学者であり、
当時、早稲田大学に留学中であった。懇話会への出席を依頼したのは、同じく早稲田大学出 身の実藤恵秀(1896-1985)115である。
ただし、研究発表の場としての例会と中国文人を囲む懇話会はどちらも長続きせず、1937 年7月以後、中国文学の講読会と中国語の発音講習会以外に、前述したようなイベントは開 催されなくなった。にもかかわらず、少なくとも中文研は第一期において例会と懇話会を通 して、中国文人との交流を深めていたといえる。彼らは中国近代文学研究の開拓に机上の空 論を語ることではなく、中国の文学者との接触を通して、同時代の中国にアプローチしよう とした。
連載)
8 松枝茂夫 『周作人随筆抄』 改造社 1938 9 飯塚朗 『断鴻零雁記』(蘇曼殊) 改造文庫 1938 10 小田嶽夫 『同行者』(蕭軍) 竹内書房 1938
11 松枝茂夫・佐 藤春夫
『浮生六記』(沈復) 岩波文庫 1938
12 岡崎俊夫 『母親』(丁玲) 改造社 1938 大陸文学叢書5
13 武田泰淳 『 支 那 邊 疆 視 察 記 ( 下 巻)』(陳賡雅)
改造社 1938
14 松枝茂夫 『辺城』(沈従文) 改造社 1938 大陸文学叢書7
15 松枝茂夫 『 中 国 新 文 学 之 源 流 』
(周作人)
文求堂書 店
1939 支那学翻訳叢書4
16 中文研編 『春桃』短編集 伊藤書店 1939 支那現代文学叢刊・第1輯 17 中文研編 『蚕』短編集 伊藤書店 1939 支那現代文学叢刊・第2輯 18 飯塚朗 『繁星』(謝冰心) 伊藤書店 1939
19 松枝茂夫・岡 崎俊夫
『西康西蔵踏査記』(劉 曼卿)
生活社 1939
20 猪俁庄八 『創造十年』(郭沫若) 東成社 1940 現代支那文学全集・第1巻 21 岡崎俊夫 『沈淪』(郁達夫) 東成社 1940 同前・第2巻
22 武田泰淳 『虹』(茅盾) 東成社 1940 同前・第3巻
23 小田嶽夫・武 田泰淳
『愛すればこそ』(蕭軍) 東成社 1940 同前・第4巻
24 飯村聯東 『新生』(巴金) 東成社 1940 同前・第6巻
25 武 田 泰 淳 ほ か
『女流作家集』 東成社 1940 同前・第9巻
26 増田渉ほか 『随筆集』 東成社 1940 同前・第10巻
27 松 枝 茂 夫 ほ か
『文芸論集』 東成社 1940 同前・第12巻
28 松枝茂夫 『紅楼夢(一)』 岩波文庫 1940 29 松枝茂夫 『周作人文芸随筆抄』 富山房 1940 30 松枝茂夫 『瓜豆集』(周作人) 創元社 1940 31 松枝茂夫 『紅楼夢(二)』 岩波文庫 1940
32 岡崎俊夫 『老残遊記』(劉鉄雲) 生活社 1941 中国文学叢書 33 竹内好 『賽金花』(劉半農) 生活社 1941 同前
34 実藤恵秀・豊 田穣
『日本雑事詩』(黄遵憲) 生活社 1941 同前
35 飯塚朗 『啼笑因縁』(張恨水) 生活社 1941 同前 36 松枝茂夫 『紅楼夢(三)』 岩波文庫 1941
37 大島覚 『湖南の兵士』(沈従文) 小学館 1942 武田泰淳訳
表 8 に示されている通り、中文研の同人は数多くの中国近代文学の翻訳書を出版したた め、翻訳は中文研の雑誌編集以外の一大事業と言っても過言ではない。このような活動をサ ポートしたのは、佐藤春夫と増田渉である。佐藤春夫(1892-1964)は1900年代から詩人と 作家として活動し、その文学作品には中国文学の面影が色濃く反映されている。さらに、佐 藤春夫は中国通俗小説と詩の翻訳者としても名高い。1923年に小説短編集『玉簪花』(新潮 社)をはじめ、小説「揚州十日記」(王秀楚作、『中央公論』1927年12月号)、詩集「車塵 集」(武蔵野書院、1929)、「孤独者」(魯迅、『中央公論』1932年7月号)などの一連の翻訳 を行った。特に当時、中国の通俗文学の口語訳はほぼ行われていなかったため、佐藤春夫は 先駆者的存在と言っても過言ではない。117
一方、増田渉(1903-1977)は高校時代から佐藤春夫に傾倒し、中国文学に目覚めるよう になった。118そして、大学に入ると「大学の教室が、どうにも非文学的で、というよりは現 代ばなれがしていて、私がかねて描いていた中国文学の夢とはおよそ違いすぎる世界、漢学 的世界であって、何の生新なものも与えてくれなかった」119といったように、大学において 彼の中国文学への想いは満たされなかった。その時、増田は佐藤春夫に手紙を出し、以後、
佐藤の訪問日には「たいてい出かけて行って、学校ではみたされないものを、佐藤氏の応接 間でうけとるようになった」120という。やがて、増田は佐藤春夫の中国小説の翻訳の下訳を するようになり、佐藤と緊密な関係を結んだ。121
その後、増田は竹内好と知り合い、中文研の創立頃から同人として参加したのは1934年 頃であった。増田と中文研との関係について、竹内は「中国文学研究会との関係にかぎって いうと、彼はいつも一定の距離をおいて、いくらかの警戒心と、かなりの程度の無関心をも
117 佐藤春夫と中国文学との関係、および佐藤春夫の翻訳活動について、大内秋子「佐藤春夫と 支那文学」(『日本文學』37、1971.1)、勝山稔「中国通俗文芸受容史における翻訳文体の問題 について--佐藤春夫「百花村物語」を中心として」(『中央大学アジア史研究』32、2008.3)な どを参照されたい。
118 増田渉「佐藤春夫と魯迅」(『魯迅の印象』、角川選書、1970)。
119 同前、267頁。
120 同前、267頁。
121 増田渉の翻訳活動と佐藤春夫との関連性について、勝山稔「近代日本に於ける中国白話小説
『三言』所収篇の受容について:増田渉の事例(一九二七)を中心として」(『国際文化研究科 論集』19、2011.12)を参照。
って、私たちを見ているようであった」122と回想したが、実は翻訳事業において、増田は重 要な役割を果たした。
1937年11月、増田は「改造社ヨリ『大魯迅全集』出版ノ責任者トシテ招カレ、同全集ノ 企画編集、及ビ翻訳ニ従事」123し、さらに翌年2月に改造社を入社してから、1939年3月 退社するまでに「翻訳及ビ『改造』『大陸』ノ編集ニ参加」124した。増田の改造社入社は、
中文研の翻訳事業の展開にとって大きな力となった。これについて、松枝茂夫(1930 年東 京帝国大学文学部支那文学科卒業、中文研同人)の証言が残られている。
増田さんには随分世話になった。私を佐藤春夫先生のところに連れて行ってくれ、その おかげで「浮生六記」を佐藤さんと共訳の形で岩波文庫に入れてもらえた。改造社で「大 魯迅全集」を出版したとき、増田さんは責任編集者として改造社員になったが、私もそ の訳者の一人に加えてもらった。その後、改造社から長江の「中国の西北角」、郭沫若 の「北伐」、それから「周作人随筆集」などを続けさまに出版することができたのも、
みな増田さんの蔭の力のたまものであった。125
松枝の回想を通して、増田渉と佐藤春夫は、中文研の翻訳事業に大きな影響を与えた存在 であることを確認できる。前述したように、中文研に参加する以前に、増田は中国文学の翻 訳を通してすでに佐藤春夫と緊密な関係を持っていたため、増田を介して、中文研の同人は 佐藤春夫と知り合うことができた。さらに、佐藤は中文研の同人に翻訳上の指導を与え、増 田は翻訳の企画から、出版社との仲介まで、中文研の翻訳事業に働きかけた。また、1940年 に東成社によって出版された『現代支那文学全集』も、この両者と緊密な関係を持っている。
増田渉は「奥野さんを憶う」において、その経緯を記述している。
昭和十五年の初め、東成社から『現代支那文学全集』十冊が出版されたが(増田注:全 部出なかったように思う)、同社が佐藤春夫氏に相談し、佐藤氏が奥野さんと私とを推 薦したというようなことで、その前年から私は奥野さんと一しょに、その全集のプラン を立てたり、ねり直したり、また翻訳者を選定したりの用事で、度々顔をあわせるよう になった。126
122 竹内好「増田渉――人と学問」(『竹内好全集』⑫、110頁)。初出:『中国の八大小説――中国
近世小説の世界』(平凡社、1965)。
123 「増田渉教授略歴(自記による)」、前掲書、737頁。
124 同前、前掲書、738頁。
125 松枝茂夫「増田渉さんの思い出あれこれ」(『松枝茂夫文集』第二巻、研文出版、1999、169頁)。 初出:『文学』1977年5月号、岩波書店。
126 増田渉「奥野さんを憶う」(村松暎編『奥野信太郎 回想集』、三田文学ライブラリー、1971、
285頁)。
「奥野さん」とは、1925年に慶応大学文学部を卒業した奥野信太郎(1899-1968)であり、
増田渉と同じく佐藤春夫の門弟である。佐藤の推薦によって、増田と奥野は『現代支那文学 全集』の企画と編集を行い、中文研の同人を参加させた。このシリーズはもともと全12巻 を計画した(図2参照)が、結局八巻で中絶した。にもかかわらず、中には郭沫若などの創 造社の作品をはじめ、東北作家である蕭軍の小説、随筆など、幅広く同時代の中国文壇に活 躍していた作家が包括され、中国近代文学の日本での受容に多大な貢献を示したといえる。
図2 『現代支那文学全集』広告(『朝日新聞』朝刊1940.1.28)
上記のとおり、中文研の翻訳活動は第一期において主に改造社を通して展開されていた ことが確認できた。無論、彼らが中国近代文学を翻訳したのは第一期だけではなく、1942年 まで持続していたが、この翻訳事業の基礎を築いたのは、初期における増田渉と佐藤春夫の 種々の努力であるといえる。
本節の内容をまとめると、主に以下の三点が挙げられる。まず、誌上に掲載されている文 章の概況を見てみると、中文研の中国近代文学に関する議論は主に改題以前の1935年度か ら1939年までの間に集中していることが分かった。そして、1937年までに開催された中文 研の例会と懇話会を通して、その同人たちが積極的に中国の文学者に接触すると同時に、中 国の文学者からも多大な支援を受けた様子が窺える。最後に、中文研の翻訳活動の実状を考 察することによって、長年にわたる同人の翻訳活動を支えていた増田渉と佐藤春夫の存在 を浮き彫りにした。このように、中文研が中国近代文学を日本に受容するプロセスは主に第 一期において展開されていくといえる。要するに、中文研の同人たちは、文筆活動に止まら ない行動によって中国近代文学に接近し、その過程を通じて戦時下における日中文化界の 人的なネットワークを構築することもできたことのである。