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左翼系作家との交流:謝冰瑩、茅盾を中心に

第二章 草創―発展期〈一〉:同時代の中国文学への覚醒(1934.3-1937.10)

第三節 中国文学をめぐる人的交流

二 左翼系作家との交流:謝冰瑩、茅盾を中心に

に対する紹介もこの時期において行われたということである。つまり、魯迅が増田に小品文 と漫画に関する雑誌を送った時期において、中文研機関誌の誌面もまた小品文と漫画・木刻 画を中心にしていたということである。

ここで、再び前述した竹内好の増田渉に関する回想を思い出す。増田は中文研と「一定の 距離をおいて」、確かに誌上にもさほど投稿しなかったが、前にも触れたような彼と中文研 の翻訳事業との関わり、そして1935年前後に彼と魯迅との交流を考慮したら、増田渉は中 文研の活動を活性化しただけではなく、初期の機関誌の編集方向にも影響を与えたといえ るのではないか。

ひ出すことの出来る自由な感覚に負ふところが多い」と、彼女の『従軍日記』に描かれた生 活体験の純朴性を高く評価した。

また、彼女と初期の中文研との交流の緊密さに関して、1945 年に竹内好が謝冰瑩へ送っ た手紙「不堪回首」にその一端が窺える。

武田泰淳という名前と言ったら、長泉院が必ず記憶に浮かんできます。それは東京の西 郊にあったお寺で、また武田の自宅でした。君は日本に遊歴しに来たその年、我々はち ょうど中国文学研究会の設立を準備していた時でした。みんなが集まって、語り合うチ ャンスは非常に多く、この長泉院も閑静な所であり、私達の穏かな集まり所でもありま した。(略)私達は、毎日そこに集結し、全心の情熱を傾けて、文学に関する種々の意 見を交わしました。137

これを見ると、謝冰瑩が懇話会だけではなく、日常的に中文研の同人と頻繁に文学上の交 流を行なったことは明らかであろう。

そして、中文研の同人に注目された中国の左翼系作家は、謝冰瑩だけではない。同時代の 中国で、左連に加盟した茅盾(1896-1981)は、長編小説『子夜』(1933)の出版により、30 年代の文壇の寵児として一躍脚光を浴びた。そのため『中国文学月報』にも、茅盾に対する 関心が見られる。無論、同人たちの評価が一致していたわけではないが、その中には類似の 傾向が見られるのである。

竹内好は、第14号(1936.5.1)に茅盾を「悪文家」として酷評し、またその作中人物に対 する描写が機械的、不自然であると批判した一方、茅盾の成功した理由について以下のよう に述べている。

彼の作品が好評を得たといふのは、彼の人生解釈が消極的に正しきが故に外ならぬ。言 ひ換へれば、文学としての渾然さが然らしめるのではなくて、文学の外の、いはば社会 的に切迫した不安の感情が彼一身の上に凝固して露呈されてゐるからである。現存社 会の機構とこれを支配する法則の実在を確信しながら、その発展について期待する自 由を奪はれた智識階級の欝然たる気運に際会したからである。138

137 原文:

提起武田泰淳這個名字來,勢不可不回憶到長泉院,那是一個仏寺,也就是武田的住宅,処在東 京西郊。那年你來遊歷日本,我們恰好在籌辦中囯文學研究会,大家聚会暢談之機会,当然是够 有的。而這個長泉院,地方特別幽美,等於是我們一個美滿的俱楽部。(略)我們天天聚在一起,

傾出滿肚裏的熱情來討論着文学上種種的意見。

竹内好「不堪回首」(『竹内好全集』⑬、92頁)。原文は中国語で書かれ、引用文は筆者訳。

138 竹内好「茅盾論」(『中国文学月報』第14号、1936.5.1)。

つまり、竹内から見れば、茅盾の成功した原因は、その文学作品によるものではない。む しろ、茅盾の小説が中国で流行していたのは「文学の貧困を立証する以外に何物も含まれぬ」

139と、竹内は言った。茅盾は1930年代の中国農村を描く作家として広く知られ、社会の現 実に対する「厳密な観察」と「客観的な描写」140を重要視している。竹内の理解した茅盾の 成功は、彼がリアリズムの手法によって現実社会の不安をそのまま小説に暴露し、またその 感情が中国の知識人の共感を得たということにある。このようにして、竹内好は完膚なきま で茅盾を批判したが、その小説に現れたリアリズムを感知したといえよう。

竹内の酷評と対照的に、増田渉は茅盾を高く評価した。1936年6月、増田は、魯迅の病 気見舞いのため上海に訪れた際、魯迅の紹介で茅盾と面会することができた。その事情を記 したのが、第18号に載せた「茅盾印象記」である。面談の中で、茅盾に「『子夜』を読んで どう思ったか?」と問われた時、増田は以下のように答えたのである。

作者の巨大な力量を覚えた。深くとは言へないが、広くあらゆる現実的な問題的な社会 の各面をムンヅ、ムンヅと掴み来たつて、それを揑混し、しかも全体として時代的な歴 史の流れの方向へとグイグイひた押しに押しころがして行く大胆にして計画的な腕力 といふか蛮力といふか、(略)何にしても視野は広いし、時代を全体として克明に描き 取らうとしたケタ外れの大陸的な膂力だ。(略)今日の日本には今日の支那の時代性を とらへて描いたものを紹介したいと思つてゐる、及ばずながら僕はこの方面に努力し たい、子夜が今日の支那を、社会的な時代性を描いてゐるといふ点に於て、僕は日本に 紹介したい。141

増田は『子夜』に強い関心を示し、その中に表れた現実的な社会性に評価を与えた。竹内 の酷評と正反対ではあるが、両者はともに『子夜』に読み取られるリアリズム的な視点を認 めたのである。茅盾の『子夜』、および前述した謝冰瑩の『従軍日記』は、題材が異なるも のの、中国の民衆の現状を反映した点において共通している。

中文研が接触したこの二人は、いずれも中国の左翼作家として活躍していた人物であり、

1930 年前後の中国では、民衆を題材とする左翼文学が最も盛んに行われていた。中文研の 同人が魯迅をはじめ、謝冰瑩や茅盾などのような左翼系作家に接近するのは、このような時 代的の流れでは道理にかなう行動といえるだろう。これによって、中文研の人々は中国文学 でのリアリズムに注目するようになる。増田渉の言ったように、中国文学を日本に紹介した

139 同前。

140 茅盾は1922年に発表した「自然主義與中国現代小説」(『小説月報』第13巻第7期)におい て、自然主義文学に用いられている「客観描写」(客観的に描写すること)と「実地観察」(現 実を厳密に観察すること)の手法を提唱した。

141 増田渉「茅盾印象記」(『中国文学月報』第18号、1936.9.1)。

い理由は、そこに現れた「今日の支那の時代性」である。つまり、中国人の現実的な生活か ら反映された中国の時代的特徴を日本に知らせたい。このような姿勢は、後に本誌の民衆重 視の基礎的なものになったのではないかと考えられるのである。