第五章 中興―葛藤期:中国語問題の展開(1940.4-1943.3)
第二節 漢学批判の復活
二 漢文教育と中国語教育との衝突
六角恒広の調査によると、1938 年から 1941 年まで、ちょうど盧溝橋事件の直後の時期 に、中国語教育関係書の発行量がピーク期に至ったことは明らかになっている。307竹内好は 第70号(1941.3.1)の「翻訳時評」において、外務省調査部の訳した「三民主義」308を「翻 訳と称し難いデタラメ」と評し、このような誤訳が生じた理由について、「外部的には出版 あるひは著述に関する倫理の欠如であり、内部的には支那語教育の完全な錯倒である」と主
306 魚返善雄「翻訳時評(三)」(『中国文学』第74号、1941.7.1)。
307 六角恒広『中国語関係書書目』(早稲田大学語学教育研究所、1968)、96頁-97頁参照。
308 外務省調査部訳編『孫文全集』(第一公論社、1939)。
張した。彼は、翻訳問題を教育の仕組みによるものであると認識し、第71号(1941.4.1)以 後、誌上に中国語教育に関する文章を掲載しはじめた。
こうして、翻訳と同様、「漢文教育、支那語教育及び日本語教育の批判」309は、雑誌改題 後の中文研の掲げるもう一つの主題として立てられた。なお、本誌に載せた中国語教育に関 する文章は、表16の通りである。
表16 本誌における中国語教育に関する文章
題目 作者 巻号 時間
支那語教育について 倉石武四郎 第71号 1941.4.1 支那語教学に関する随想 長瀬誠 第71号 1941.4.1 中等教科書異変――主として
漢文・時文教科書に就て 乙寺與志夫 第71号 1941.4.1 漢文・支那語教育と支那学と
の現実――倉石主義の感想 竹内照夫 第73号 1941.6.1 支那学の世界 竹内好 第73号 1941.6.1 支那語の教科書について 竹内好 第78号 1941.11.1
1941年3月、京都帝国大学教授を務めていた倉石武四郎は、『支那語教育の理論と実際』
(岩波書店)を刊行し、新たな中国語教育を提唱した。それは、中国語の地位向上を図ると ともに、漢文と中国語を統一し、同時に従来の漢文訓読式の教育法を改革し、音読によって、
漢文を教授する提案であった。倉石が、「洪水猛獣の害にひとしいと孟子なみのせりふで責 めたてられた先生があるかとおもうと、万雷の拍手をおくるという批評もあった」310と回想 したように、この本の刊行は学界の注目を浴び、大いなる反響を呼んだようだ。
またこれと同じ時期に、倉石は本誌の第71号(1941.4.1)に「支那語教育について」を発 表し、本文において、漢文と中国語とを区別するという日本人の考え方を以下のように批判 した。
日本人は、支那から文化を吸収する際に、言語と文章とを引き離す習慣をつけた。(略)
しかし、支那の言語と文章とは、同じ支那人の言語活動と云ふ根によつて、堅く大地に 植ゑつけられてゐる。日本人は、漢文と支那語とは全然別物であると云ふ態度をとつた。
これこそ、日本の支那学の足が地につかず、根なし草が水の面に漂つてゐる大きな原因
309 竹内好「中国文学研究会について」、前掲文。
310 倉石武四郎『中国語五十年』(岩波書店、1973、123頁-124頁)。
である。311
「言語と文章とを引き離す習慣」というのは、漢文を中国語を通してではなく、訓読で理 解することを指すものと考えられる。そして倉石は、中国人の言語活動を理解せずに中国の 文語としての漢文を読むことは、「魂の抜けがらみたいな書物を見てゐるだけ」312であると も主張した。つまり、訓読によって築き上げた支那学は、現実の中国から乖離しており、中 国を知ることに不充分である。この点について、彼は『支那語教育の理論と実際』において さらに詳しく記している。
支那が五十年このかた、西洋文化または日本文化に触れて、内部的に起した重大な変化 は、ちやうど維新後の日本の発展と同様に、その民族の将来について、最も大切な問題 であるのみならず、支那の過去を研究するものも、これを離れては真の解決を輿へるこ とができない。313
この倉石の記述からは、彼が実際の中国から遊離している支那学を批判し、近代中国への 理解を「支那学」の基礎として据える事を訴えた事実を読み解くことができるだろう。にも かかわらず、倉石の考え方は当時の日本人には容易に受け入れられなかった。なぜならば、
一般的な認識において、ある一国への関心の深浅は、その国の置かれた政治的な地位によっ て恣意的に決められたからである。例えば、本誌の第73号(1941.6.1)では、「倉石武四郎
『支那語教育の理論と実際』批判」というテーマが設けられ、その中では竹内照夫の「漢文・
支那語教育と支那学との現実――倉石主義の感想」が掲載された。竹内照夫は、新たな視点 で中国を理解するというのが、「先づ第一に彼をして政治的経済的武力的に強からしめ、一 流大国の地位に迄昇らしめることこそ必須条件である」314と述べ、また近代中国に関する研 究の不振に陥っている原因については、「一般世人がたとえ新らしい中国に向つて好奇心や 興味を抱くことがあつても、相手から掴み出してくる物は極めて淺薄皮相の一片二片に過 ぎず」315と述べている。つまり、古典中国文体語とわざわざ区別されていた「支那語」は、
近代中国の後進性によって、低級言語のイメージを背負わざるを得ない。さらに、竹内照夫 は、漢文の価値について、以下のように語っている。
現代我国の徳育精神の構成要素中、儒教的理念と佛教思想とを看過し得ぬ。そしてそれ
311 倉石武四郎「支那語教育について」(『中国文学』第71号、1941.4.1)。
312 倉石武四郎『支那語教育の理論と実際』(岩波書店、1941、39頁)。
313 同前、49頁。
314 竹内照夫「漢文・支那語教育と支那学との現実――倉石主義の感想――」(『中国文学』第
73号、1941.6.1)。
315 同前。
らの表現が漢文又は漢文的なること、論を俟たない。否、むしろ古典主義漢文科は、そ の含む修養的効果の為にこそ設定されてある、と見ることさへ可能である。だからこそ 漢文科の価値は高いと自惚れるのは滑稽かも知れぬが、それでは漢文教育の自主性が 否定されるではないかと詰めよるのも淺慮である。今の世の考へでは、「支那を知る為 の」学科よりも、「臣道を教へる」学科の方が大切だ、といふだけの事である。316
つまり、ここで竹内照夫が挙げた「現実」というのは、儒教理念は日本の徳育精神の重要 な構成要素ではあるが、漢文はそれらの思想を具現化するための手段として存在している。
したがって漢文教育の意義は、中国の古典で中国文明の全体像を探るためというより、むし ろ儒教の持つ君臣思想で国民としての「臣道」を国民に普及するためである、というもので ある。
当時の儒教に関する本を見てみれば、このような「現実」は確かに窺える。例えば、1935 年に手塚良道の『儒教思想に於ける君臣思想』が出版され、その広告文には、以下のように 書かれている。
現時は所謂思想国難の時代である。種々の外来思想は、朝に夕に我々を襲うて危険極り ない時代である。(略)近時支那人の所謂三民主義が我が固有の国体思想と相容れざる は無論であるが而も儒教に於ける君臣思想の研究は今日として決して無意義な事では ない。(略)江戸時代に於いても水戸学派の学者は孔子の君臣道は我が国体を翼賛する ものとした。要は取捨にある。317
このように、「三民主義」のような近代中国の思想が危険視とされた以上、同時代の中国 語よりは、古典主義の支配に置かれた訓読による漢文教育のほうが無難であると考えられ たことも理解できるだろう。一方、このような風潮を批判する学者も見られる。無論、倉石 もその中の一人であったが、他には前述した吉川幸次郎もまた、このような言論を批判した。
彼は日本の儒学を以下のように指摘している。
江戸時代の儒学は、(略)わが国民道徳の基礎を、支那人の教えに求めることである。
(略)そのために儒学は、わが国民道徳の形成に、大きな寄与をしたこと申す迄もない。
と共に一方では、甚だ不幸な結果をも生んだ。すなわち、儒学が理解した支那は、実は 支那の「部分」であったにも拘らず、直ちにそれが支那の「全体」であるかのように、
錯覚されることである。また儒学の態度は、支那を支那して理解せんとするものではな
316 同前。
317 「広告欄」『斯文』(17巻3号、1935年)。
い。318
吉川は、国民精神の形成という用途に合致した部分のみを儒教から掴み取るやり方だけ では、所詮中国の一部しか理解できず、したがってそうした手法は学問として非常に局所的 な視点に基づくものであると主張した。代わりに彼は、「支那人の生き方を研究する学問」
319を提唱し、たとえその研究結果が必ずしも他の民族にとって普遍な価値を感じさせるも のではなかったとしても、世界史的な学問的意義を持つものになってゆくと主張した。
このように、倉石武四郎と吉川幸次郎は、当時の学界では稀にしか見られない中国語教育 を提唱し、漢文教育の在り方を批判した学者であった。竹内好らの展開した主張もまた、彼 らと共通する基軸を備えていたといえる。ただし、倉石の提案した漢文教育に対する改革は、
支那学そのものを否定するものではなく、「行き倒れの支那学を救ふ注射薬が、新しい意味 の支那語であり」320と言ったように、彼はあくまでも語学制度の改革によって、支那学を再 建しようとした。こうした面も、竹内が倉石を「安全な道を選んで、いささかの空虚をも感 じない人」321と評し、「正統派」322と呼んだ所以であろう。そのため、竹内好は、誌上にお いて、倉石の提唱した語学教育改革の必要性については賛成の意を示したが、たとえその改 革が成功したとしても、支那学を救うことができないと断言した。
今日、倉石さんは、支那学の貧困を、手段の改革によつて救ひ得ると信じてゐる。実は 支那学にとつては思想そのものが貧困なのである。それを忘れて無理に新しい手段を 加へようとすれば、支那学は雲霧となつて四散するであらう。323
このように、竹内はあくまでも支那学の外に立ち、その存続を否定しようとするのである。
前述したように、日本国民の精神を涵養するための漢学にとって、その思想の中核にある根 源的な要素は儒教イデオロギーであった。したがって、当時の支那学、あるいは漢学(竹内 にとっては両者が同義である324)の根本的な出発点は、中国を総合的に研究することではな く、日本の国家思想の中核に論理的な根拠を提供することにあった。これに対して竹内は、
318 吉川幸次郎「支那学の問題」(『吉川幸次郎全集』⑰、438頁)。初出:『文藝春秋』、1940.11。
319 吉川幸次郎「支那学の任務」(『吉川幸次郎全集』⑰、452 頁)。初出:『文藝春秋』、1941.1。
320 倉石武四郎「支那語教育について」、前掲文。
321 竹内好「支那学の世界」(『中国文学』第73号、1941.6.1)。
322 竹内好は、倉石武四郎の中国語研究に対して、以下のように評価している。
東大の学統(これは前にもふれたように、まったく鼻もちならぬものである)への反逆者で ある点では、私たちの大先輩のわけだが、官僚アカデミズムの道を踏み外さなかった点では、
あくまで正統派であって、私たち異端とは世界がちがう。異端の立場から見ると、倉石さんの 成しとげた改革は、偉大ではあるが、依然として体制内改革の域を出ない。
竹内好「倉石さんのこと」(『竹内好全集』⑩、332頁)。初出:『中国』第67号、1969.6。
323 竹内好「支那学の世界」、前掲文。
324 同前。