• 検索結果がありません。

詩編第 83 編イニシアル Q「勝利者としてのキリスト/ミカエル」

  詩編第83編のイニシアルQ(図4-125)は、竜のような生物とそれに十字杖を刺す人物による、形象イ ニシアルと図像を包囲するイニシアルの混交型の物語イニシアルである。腹部で蜷局を巻き三又の尾を持 つ、古代神話のケートスのような水生動物がカウダの代替モティーフとなり、メダイヨンのような円形部 分の開口部にはニンブス付きの有翼の人物が浮遊し、頭部と片手をメダイヨンの外へ突出させて、水棲動 物の口元を槍のような十字杖で突き刺している。ビザンティンの写本を含め、第83編にこのような図像を 持つ挿絵付き詩編写本は知られていない。クーダーはこの図像が、キリストを天使として表す例が本写本 の第6編(fol. 5v, 図4-126)に既に見られることから、このイニシアルQの人物像を天使としてのキリス トとし、ライプツィヒ所蔵のカール大帝宮廷派による象牙浮彫37(ライプツィヒ、グラッシ工芸美術館、Inv.

Nr. 53.50, 図4-127)と同様の、詩編第90編を典拠とする、動物を打ち負かす「勝利者キリスト」の図像

であるとした38。しかし、ライプツィヒの象牙浮彫が勝利者キリストを表したものであるのか、竜の退治 者としての大天使ミカエルを表したものであるのかは議論の余地がある上に39、《コルビー詩編》のイニシ アルQは動物を打ち負かすキリストの一般的な図像とは大きく異なっている。

  動物を打ち負かす「勝利者キリスト」は、詩編第90編13節 “Super aspidem et basiliscum ambulabis, et

conculabis leonem et dravonem(汝は毒蛇と蝮との上を歩み、獅子と龍とを蹂躙らん)” を典拠とする図像で

あり40、悪の克服を象徴するものとして、初期中世以降、詩編だけでなく壁画や象牙浮彫等でも頻繁に絵 画化された。初期の例はラヴェンナの大司教礼拝堂のモザイク(図 4-128)に見出すことが出来る。ここ ではローマ皇帝風の衣装に身を包み、片手に十字架を担ぎ、片手に開いた書物を示すキリストが、獅子と 竜を踏みつけて立つ「戦士としてのキリスト(Christus militans)」として表されている41。同様の図像は同 じくラヴェンナの正教徒礼拝堂のストゥッコ装飾(図 4-129)にも残されている。カロリング朝期にもこ の獅子と竜を踏むキリストの図像が伝えられていたことは、写本画や写本装幀板に見られる多くの例が明

37 Exh. Cat. AACHEN 2014, Bd. 3, Kat. Nr. 5, 187.

38 KUDER 1977, 215-216.

39 カースニッツはこのライプツィヒの象牙浮彫の人物像を大天使ミカエルとし、獅子と竜を踏む勝利のキリストと対 の二連板であったと推測している。KAHSNITZ, Rainer: Die Elfenbeinreliefs der Adagruppe. Hundert Jahre nach Adolph Goldschmidt. Versuch einer Bilanz der Forschung zu den Elfenbein Goldschmidt I, 1-39, in: Zeitschrift des Deutschen Vereins für Kunstwissenschaft, 64, 2010, 97.

40『ヘブライ詩編 Psalterium Hebraicum』では同箇所は “Super aspidem et viperam gradieris, Conculabis leonem et draconem

(あなたは獅子やコブラを踏み、若獅子や龍を踏みつける)となっている。

41 大司教館礼拝堂ナルテクスの「獅子と竜を踏むキリスト」は、凡そ下半分が後補である。越 2016年、115頁。その 他、同礼拝堂モザイク「戦士としてのキリスト」については以下を参照。BOVINI, Giuseppe: Ravenna: Mosaiken und Monumente, Ravenna 2006, 117-129.

らかにしている。《ヘヌエルス=エルデレン象牙装幀板》(図 4-130)では、二人の天使を左右に伴うキリ ストが十字杖を肩に担いで書物を手にし、四匹の獣を踏みつけている。これは、詩編第90編13節の四匹 の獣、即ち毒蛇(aspis)、蝮(basiliscus)、獅子(leo)、竜(draco)の全てを視覚化したものであろう。《オ ックスフォードの象牙装幀板》(オックスフォード、ボドレアン図書館、Ms. Douce 176)の中央の区画(図

4-131)でも同様に、十字架を担いだキリストの足元には四匹の獣が表されている。《ロルシュ福音書象牙

装幀板》の背面の中央パネル(図 4-132)では、十字杖を担ぐ代わりに、左手に持った書物を右手で指し 示しているが、足元には《ヘヌエルス=エルデレン象牙装幀板》や《オックスフォードの象牙装幀板》と 同様、足の下で踏みつけられた獅子と竜に加えて、毒蛇と蝮と思われる生物が足元に落ちている。これら の例では、足元の生物の数や十字杖を肩に担いでいるか書物を指差しているかという違いがあるが、少な くとも獅子と竜との二つの生物を踏みつけている、正面観に近い人物像として勝利者としてのキリストが 描かれているという点では共通している。しかし、《コルビー詩編》第83編イニシアルQでは、天使は水 棲生物を踏みつけるのではなく、その上で浮遊している。

  獅子と竜、或いはそれに加えて毒蛇と蝮とを踏みつける勝利者としてのキリストの図像は当然、詩編挿 絵でも用いられた。《コルビー詩編》では第90編が現存しない為に、この箇所のイニシアルにどのような 図像が表されていたかは分からないが、時代の近い2点の挿絵付き詩編写本では、第90編に動物を踏む勝 利者としてのキリストの図像が見られる。《ユトレヒト詩編》では、同図像が二箇所で登場する。獅子と竜 とを踏む神についての記述のある第90編の挿絵(図4-133)では、マンドルラの中で竜を表す蛇のような 生物と獅子とを踏みつけるキリストが描かれており、竜(draco)がカロリング朝期には蛇のような生物と して描かれる例があったことを示している。詩編第64編でも画面上部の山の上に、獅子と蛇のような生物 を踏むマンドルラを伴わないキリストが表されている(図4-134)。第64編の「獅子と竜を踏む勝利者と してのキリスト」は第7節 “Ppraeparans montes in virtute tua, accinctus potentia(汝は御徳能によりて山々を備 え、権勢を帯び)” に対応することが、同写本の先行研究から明らかにされており42、 力(virtus)の表象 としてこの勝利者としてのキリストという図像が選択されていることが推測できる。《シュトゥットガルト 詩編》では、獅子と蛇のような姿の竜とを踏む神の記述のある詩編第90編13節のすぐ下の欄内挿絵(図 4-135)で、鎖帷子に身を包み獅子と竜を踏みつけるキリストが、ラヴェンナのモザイク画と同様、戦士と して表されている。これらのカロリング朝期の詩編挿絵では、十字杖を肩に担ぐのではなく竜の口を刺す 槍として用いられている点は《コルビー詩編》の第83編と共通しているものの、動物を打ち負かす勝利者 としてのキリストは、獅子と竜との二つの動物を踏みつけているという点で、《コルビー詩編》のイニシア ルQとは性格を異にしているのである。

  二匹の動物ではなく、一頭の獅子の上に立つ「勝利者としてのキリスト」図像は、詩編外の写本挿絵に 例を見ることが出来る。《コルビー詩編》とほぼ同時代の北イタリアで成立した大グレゴリウスの『四福音

42 DUFRENNE 1978, Psaume 64.

書講話』写本43(ヴェルチェッリ、カピトラーレ図書館、Cod. CXLVIII)の六旬節の主日の訓戒の冒頭イニ

シアルL(図4-136)は、垂直のステムと水平のクロスバーから成るアルファベットのLを、キリストの

立像と足元で踏みつけられた獅子による、形象イニシアルとして表されている44。ここでは文字の形状の 為か、キリストが踏みつけるのは獅子と竜の二匹、或いは毒蛇と蝮を加えた四匹の獣ではなく、獅子のみ である。同じく、《トリーア黙示録》(トリーア、市立図書館、Cod. 31)の巻末に挿入された後世の素描(図

3-137)にも、竜や蛇などを含まず獅子のみを踏む「勝利者としてのキリスト」が表されている45。しかし

詩編第90編に関する動物を踏むキリストの図像ではいずれも、動物を足で踏んでおり、《コルビー詩編》

のように動物の上を浮遊する天使として表されてはいない。従って、《コルビー詩編》の第83編の図像は、

詩編第90編の動物を踏む「勝利者としてのキリスト」以外の図像から着想を得ている可能性が考えられる だろう46

  十字杖或いは槍で竜或いは蛇のような生物を突き刺す人物像という図像そのものは、詩編第90編の動物 を踏む「勝利者としてのキリスト」を離れるならば、写本挿絵でも皆無ではない。例えば《ミュンヘンの ミラノ詩編》第61編のイニシアルN(図4-138)が例として挙げられる。赤いトーガを纏ったニンブス付 きの人物が、《コルビー詩編》のイニシアルQと同様に、十字杖を竜のような生物の口に突き刺し、片手 で祝福の仕草を見せている。十字杖によって刺される竜と思われる生物は、腹部と頸部に蜷局を持ち尾が 三又に分かれているという点では、《ユトレヒト詩編》や《シュトゥットガルト詩編》よりも《コルビー詩 編》のイニシアルQの生物に近い。但しここでは《コルビー詩編》とは異なり、人物像は浮遊するのでも 竜を踏みつけるのでもなく両足で立っており、有翼ではない。詩編第61編には「勝利者としてのキリスト」

に明確に関する章句が見られない為、この竜を突き刺す人物という図像の主題の特定は難しい47。テクス トとの関連が明からで主題の明確な、竜或いは蛇のような生物を槍で刺す挿絵としては、古代末期の写本

43 同写本の詳細については、下記を参照。Exh. Cat. AACHEN 1965, 284-285, Kat. Nr. 462; CRIVELLO, Fabrizio: Le Omelie sui Vangeli di Gregorio Magno a Vercelli. Le miniature del ms. CXLVIII/8 della Biblioteca Capitolare, Firenze 2005(未入手).

44 このイニシアルLが表すのが詩編第90編13節の獅子と竜とを踏むキリストであるという点については、以下で検 証されている。EUW, Anton von: Die Darstellung zum 90. (91.) Psalm in der frühmittelalterlichen Psalter- und

Evangelienillustration mit Ergänzungen aus Kommentaren, in: The Illuminated Psalter: Studies in the Content, Purpose and Placement of its Images (ed. by BÜTTNER, Frank O.), Turnhout 2004, 408.

45 《トリーア黙示録》の黙示録部分が9世紀第1四半期のものであるのに対し、巻末の3頁分(fols. 74v, 75r. 75v)は 後世のものであり、制作年代はおよそ9世紀末から10世紀初頭と見られている。同写本については、以下を参照。Trierer Apokalypse: vollständige Faksimile-Ausgabe im Originalformat des Codex 31 der Stadtbibliothek Trier, Codices selecti phototypice impressi, v. 48, 48*, Graz 1975; Die Trierer Apokalypse: Codex 31 der Stadtbibliothek Trier, Kommentar von KLEIN, Peter K., mit Beiträgen von LAUFNER, Richard und FRANZ, Gunther, Glanzlichter der Buchkunst, Bd. 10, Graz 2001; HAMANISHI, Masako:

Studien zur Trierer Apokalypse: zur Frage der Entstehung und Entwicklung der frühmittelalterlichen Apokalypse-Zyklen in Bild und Text, Berlin 2012.

46 この他、詩編第9013節の「動物を踏む勝利者としてのキリスト」図像については、以下を参照。SCHILLER, Gertrud:

Ikonographie der christlichen Kunst, Bd. 3, 2. Aufl., Gütersloh 1986, 35-39, Abb. 60-86; von EUW 2004.

47 《ミュンヘンのミラノ詩編》はモノグラフィックな研究に欠けており、同イニシアルの図像の主題を体系立てて論 じた研究は無い。クーダーは同写本61編イニシアルと《コルビー詩編》第83編イニシアルとの図像の類似を指摘し ており、S. ワルサーは詩編第612節後半部分 “ab ibso enim salutare meum(そは我が救済彼より出ればなり)を反 映した挿絵としている。所蔵館であるミュンヘン国立図書館の写本カタログでは竜と戦う大天使ミカエルと記述され ている。KUDER 1977, 216; WALTHER, Sybille: Histoire et théologie enluminées. Les psautiers illustrés italiens de l’époque carolingienne à l’âge grégorien. Le psautier de Polirone (Mantoue, bibl. com., ms. 340) et son commanditaire Anselme de Lucque, Weimar 2004, 170.