第 9 章 :移動事象を表す類義語の複合動詞
2 単一動詞である「浮く」と「浮かぶ」の違い
「浮き出る」と「浮かび出る」の相違は、V1「浮く」と「浮かぶ」という複合動詞 における形態上の違いにある。まず「浮く」と「浮かぶ」の違いを触れておく必要が ある。ただし、次節で述べるように、「浮き出る」と「浮かび出る」における違いの本 質は、単に形態上の違いではなく、複合動詞の事象構造とV1とV2における照合の在 り方に基づくと考える。
『類義語新辞典』(p.644)によれば、「浮く」は〈水底や地面から上がる〉と〈固定 していたものが揺れ動くようになってしまう〉という二つの意味を表しており、「浮か
2 BCCWJの調査では、「浮き出る」の142例中、移動物が「感情」である例が存在しない。
また、「浮かび出る」の21例中、移動物が「事実」である例がない。
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ぶ」は〈水面や空中にある/上がる〉ということを表しているという。このように、辞 書の意味だけでは、両者の意味が明確に区別されない。それに対し、『基礎日本語辞典』
(p.174)は、次の図1 を用いて、「浮く」と「浮かぶ」の違いを分析している。この 分析は、『類義語新辞典』に比べ、両語の違いをより明確に示すようになっていると言 える。
図1:『基礎日本語辞典』による「浮く」と「浮かぶ」の違い
図1 は次のように理解される。「浮く」は、〈浮力などによって、①基底面から上へ と移動する。その結果②基底面から遊離し、中間に位置する状態になる。さらに流体 の上層へと移動し、③表面に姿を現す。流体の表面に位置し、前後左右に動いても下 へは戻らない状態になる〉。一方、「浮く」の②③の状態が「浮かぶ」である。すなわ ち、「浮かぶ」は、「浮く」における〈基底面から上へと移動する〉という意味がない、
ということである。さらに、『基礎日本語辞典』は、図1が示された物理的な移動概念 をもって、「浮く」と「浮かぶ」の比喩的に使われる時の違いを次の(5)と(6)で確 認している。
(5) 歯/建物の土台が/二時間(時間)/一万円(金)が浮いた。
(6) 考え/名案/祖母の顔が浮かぶ。
(5)は、「浮く」が意味する①と②の意味〈基盤・主流から遊離した実態〉から、
〈もとになる部分から分離し、余計となる〉という形に解釈されることで用いられた 例である。このような意味と用法は、「浮かぶ」にはないものである。これは次の(7)
を見て分かるように、(5)で用いられた名詞句が「浮かぶ」と共起する際に非文とな るからである。一方、(6)は、「浮かぶ」が意味する〈底にある物が表面へと浮いて出 てくる〉という意味から、事柄に転用され、〈奥に潜む事柄が表側へと現れる〉という 形に解釈されることで用いられた例である。こうした解釈による例の場合、次の(8)
にあげたように、(6)の名詞句は「浮く」と共起することがない。
(7) *歯(時間・金)が浮かぶ。
(8) *祖母の顔(考え・名案)が浮く。
本章では、『基礎日本語辞典』の記述を参照し、まず「浮く」の語彙的意味を改めて 考えていく。「浮く」の基本義と抽象義を合わせて考えると、図1における①②の意味 が「浮かぶ」が意味する「底から表面への位置変化」と対比的である。このことから、
①②の意味が「浮く」における中核の意味であると言える。ただし、「浮く」における 図1の③の部分は、たとえば、「風船が宙に浮く」という表現が可能であるように、「表 面に姿を現す」という意味が必要でない。
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続いて、「浮かぶ」の語彙的意味を改めて考えていく。「浮かぶ」は、図 1 における
②の部分は特に問題ないが、図1 の③にあてはまる「表面に姿を現す」という意味を 新たに規定する必要がある。これを考えるにあたっては、長嶋(1981:46~47)によ る観察が示唆的である。長嶋氏による例文を次の(9)に示す。
(9) a. ?海上には油が一面浮かんでいる。
b.女の水死体がぽっかりと水面に浮かんだ。
長嶋氏によれば、(9a)に示されたように、「?一面に浮かぶ」という表現が不自然 である。一方、(9b)は問題なく言える。このことから、「浮かぶ」の移動事象は、そ の移動物が最終的に「輪郭がはっきり観察者に見える状態になる」必要があるという。
しかし、このような観察者に見える位置変化は、図 1 の②③の過程で正確に反映され ているとはと言いがたい。
以上の記述を踏まえ、「浮く」と「浮かぶ」の語彙的意味を次の図2のように表示す ることができ、(10)のようにまとめることができる。
図2:本章における「浮く」と「浮かぶ」の違い
(10) 「浮く」:①② 「浮かぶ」:②③④
図2における①と②は、『基礎日本語辞典』の意味記述と同様であるが、③が意味す る「表面」を内部空間にあると規定し、④を「輪郭がはっきり外部空間に現れ、観察 者に見える状態になる」という形で新たに定義する。このような措置を取ることによ り、「浮く」は①と②が中心的な意味概念であるということが明示される。また、「浮 かぶ」に④の意味を追加し、空間上の変化が含まれるようにする。以下では、「浮く」
と「浮かぶ」のこのような違いを踏まえ、語形成の観点から複合動詞の相違を考えて いく。そして、その相違が空間概念の意味要素を複合動詞の語形成に反映させる必要 性と関わることを示していく。
3 「浮き出る」と「浮かび出る」の違い
この節では、「浮き出る」と「浮かび出る」の違いを複合動詞の事象構造とV1とV2 による合成の仕方という二つの観点から考察していく。このような考察を通し、類語 である複合動詞の相違と空間概念の意味要素との関係を明らかにしていく。3.1 節で は、「浮き出る」と「浮かび出る」の事象構造を考察する。3.2 節では、「浮き出る」
と「浮かび出る」におけるV1と V2 の合成の仕方を考察する。3.3節では、両語の相
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違点に基づき、前節で提起した(3)と(4)の違いが原理的に説明されるのかを考え る。
3.1 「浮き出る」と「浮かび出る」の事象構造
(1a)と(2)の意味解釈から、「浮き出る」と「浮かび出る」は類似した事象構造 を有すると思われる。しかし、両者の事象構造を観察していくと、必ずしもそうでは ないということが分かる。両語の事象構造は、(11)と(12)の例文をもとに、次のよ うに示すことができる。
(11) 汗が額に浮き出た。
V2「出る」の語彙的意味
V-[x MOVE<MANNER>[Path]BECOME[x BE AT- OUTSIDE]]
V1「浮く」の語彙的意味
(12) くじらが水面に浮かび出た。
V2「出る」の語彙的意味
V-[x MOVE<MANNER>[Path]BECOME[x BE AT- OUTSIDE]]
V1「浮かぶ」の語彙的意味 まず、(11)の事象構造を考える。(11)は、汗が皮膚の表面に浮いて出てくること を表す。複合動詞全体は有方向移動事象の事象構造を有する。ここで、「汗が額に浮い た/出た」があるように、V1とV2は共に着点である「額」を取ることが可能である。
このことから、主要部の判定が曖昧であると思われる。しかし、「*汗が5分で浮いた」
があるように、「浮く」は期限副詞の「5分で」と共起しない。期限副詞と共起しない ことから、「浮く」は必ずしも着点への到達という意味を含意していないと言える。「汗 が額に浮く」の場合、図2 に示されたように、①から②への移行という過程を表して いると理解される。一方、「汗が 5 分間で出た/浮き出た」があるように、V2 から複 合動詞が意味する結果事象を取るのに問題ない。
以上のことから、(11)では、V2「出る」が複合動詞全体の表わす移動経路を意味す ることから、V2「出る」が主要部であると言える。V2 が主要部であることから、「出 る」が持つ事象的意味と語彙的意味を有方向移動事象の事象構造に代入することが可 能である。また、「出る」は、内部空間から外部空間への移動を表すため、有方向移動 事象のPathを規定するほか、結果事象をOUTSIDEとして指定する必要がある。さらに、
V1の「浮く」は移動様態動詞であることから、中段の移動事象における様態のMANNER と方向(経路)の Pathを補充することが可能である。以上、「浮き出る」の事象構造 を見てきた。
続いて、(12)の事象構造を考える。(12)の事象構造は(11)とやや異なる。「クジ ラが30分で(水面に)浮かんだ/出た」があるように、「浮かぶ」と「出る」は共に 期限副詞と共起することができ、どちらも有方向移動動詞である。つまり、複合動詞
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が意味する着点への移動は、(11)と異なり、V1とV2に共有されているということで ある。この場合、複合動詞は共主要部型であると理解される。第4章で述べたように、
共主要部型の複合動詞の表示モデルは、基本的に並列型を表すV2主要部の複合動詞と 同様である。このことから、(12)も(11)と類似した有方向移動事象の事象構造を有 する。ただし、(12)の V1「浮かぶ」も有方向移動動詞であるため、V1から中段の移 動事象における様態のMANNERと方向(経路)のPathを補充するほか、複合動詞が意 味する結果事象に対しても規定できる。これは(12)におけるOUTSIDE への補充を指 す。
以上、「浮き出る」と「浮かび出る」両語の事象構造を見てきた。両者はともに有方 向移動の事象構造を有することが分かった。ここで、(11)と(12)の事象構造を観察 すると、「浮き出る」と「浮かび出る」に見られる違いは、「浮かび出る」のV1が有方 向移動事象の下位事象への指定を行うかどうかという点であるように思われる。しか し、(10)で述べたように、「浮く」と「浮かぶ」は移動のあり方の詳細が異なる。こ れを踏まえると、複合動詞「浮き出る」と「浮かび出る」の違いは、(11)と(12)の 事象構造におけるV1からPathへの規定の詳細のあり方、及び下位事象への規定の有 無の両方にあると考えられる。この二つの違いは、(11)と(12)における点線部分で 表示している。また、経路への規定のあり方は、V1 と V2 による語彙的意味の整合性 と関わっていると考えられる。その詳細は、次節で考察する。
3.2 「浮き出る」と「浮かび出る」におけるV1とV2の整合性
3.2.1 「浮き出る」の経路のあり方
この節は、「浮き出る」の構成要素である単一動詞の「浮く」と「出る」におけるそ れぞれの経路のあり方を考察する。この考察を通し、複合動詞「浮き出る」における 経路の整合性の詳細を導き出す。前節で述べたように、「浮く」は 期限副詞と共起し ないため、移動様態動詞であると理解される。また、移動様態動詞である「浮く」が 持つ移動経路の諸側面は、次の(13)から確認される。
(13) a. 風船は地面から(上がって/*下がって)宙に浮く。
b. 風船が手から離れて、宙に浮く。
(13a)から分かるように、「浮く」は「下がる」と共起しない。このことから、そ の移動方向は上方向である必要がある。また、「浮く」における移動の起点は一般的に 空間の底と連想しやすいが、(13b)が示されたように、上方向への移動に対し、その 下にある位置であれば容認される。また、前述したように、「宙に浮く」のような表現 が可能であることから、「浮く」における「表面に現れる」との意味合いが必須ではな い。以上のことを踏まえ、「浮く」が有する移動事象は次ように定義される。移動物が 基準点から離れ、基準点の上方向へ移動し、さらに流体(空間)の中間位置に留まる。
これらの特徴を移動様態動詞の事象構造に反映させると、次の(14)になる。