第 9 章 :移動事象を表す類義語の複合動詞
第 5 部
2 各部のまとめ
2.1 第 1 部のまとめ
第1 章では、本論文の導入部分として、語彙的複合動詞と移動事象の基本概念を概 観しながら、研究対象とする移動事象を表す語彙的複合動詞を確定した。語彙的複合 動詞を研究対象とする理由は、「書き忘れる」や「書き始める」のような統語的複合動
詞のV1 とV2 が補文関係(書くことを忘れる/始める)にあり、典型的な語より文と
句の性質に近く、語形成に立脚する本論のスタンスと異なるためである。また、移動
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事象を表す複合動詞に注目する理由は、日本語の移動事象を表す複合動詞が言語類型 論上の特殊性を持つほか、そのV1とV2の意味関係が多種多様であり、語彙的複合動 詞の中では、典型性を持つタイプであるためである。これらのことを踏まえ、本論で 扱う移動事象を表す語彙的複合動詞は、次の(1)に示すように、四つのタイプに分か れる。
(1) a.主体移動の移動事象を表す複合動詞:走りぬく、持ち歩く、飲み歩く、
(桜が)散り急ぐ、群れ飛ぶ、持ち帰る、駆け戻る、舞い上がる、浮か び上がる、浮かび出る、崩れ落ちる など
b.客体移動の移動事象を表す複合動詞:投げ入れる、(生徒を)呼び出 す、(屋根を)吹き飛ばす、抱え入れる、担ぎ入れる、運び上げる、
連れ出す、(レモン汁を)絞り入れる、持ち上げる、取り下ろす、掴 み入れる など
c.抽象的放射を表す移動事象:覗き込む、見上げる、見下ろす、見渡す、
睨みつける、照り込む、映し出す、照らし出す など
d.抽象的移動を表す複合動詞:繰り上がる、のし上がる、成り上がる、
勝ち上がる など
(1a)は、主語の移動を表しているため、「主体移動事象」である。(1b)は、目的 語の移動を表しているため、「客体移動事象」である。(1c)は、視覚的放射という視 覚経験に基づく移動表現であるため、「抽象的放射事象」である。(1d)は物理的な移 動を行っていないにもかかわらず、何らかの移動が想起されるものであるため、「抽象 的移動事象」である。
第1章で、移動事象を表す複合動詞を研究対象とする場合、Talmy(1985)による言 語類型論の枠組みが有用であることを述べた。特に、Talmy 氏の枠組みに従って考え ると、日本語における意味要素の経路が主動詞に語彙化されることから、経路概念が 移動事象を表す複合動詞の語形成に重要な役割を果たすと想定される。この章で、本 論における経路のあり方を規定した。
さらに、移動事象を表す語彙的複合動詞の語形成を考えるにあたって、本論の目的 を次の三つに定めた。次の(2)を参照されたい。
(2) a.できあがったひとまとまりの複合動詞の構成要素の関係を再解釈する
ことによって、移動事象を表す複合動詞の語形成を理解すること。
b.移動事象を表す複合動詞の語形成に特化し、移動事象にまつわる経路、
様態、参照物といった意味要素と複合動詞の語形成との関係を明らか にすること。
c.移動事象を表す複合動詞における拡張の現象を明らかにすること。
第1章の最後に、本論文で使用するデータと全体の構成を述べた。
第2章では、日本語のる複合動詞の語形成に関する最近30年の先行研究を、合成的
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と非合成的という二つの立場からまとめた。ここで言う合成的な立場とは、複合動詞 の意味がその構成要素の意味の統合に還元できる、というものである。合成的な立場 では、複合動詞の構成要素が最初にあるという考えに重点が置かれている。一方、非 合成的な立場とは、複合動詞は必ずしも構成要素の合成から、その意味が導かれると は限らず、全体的な意味を持つ、というものである。非合成的な立場では、複合動詞 全体のほうが最初にあるという考えに重点が置かれている。
先行研究の概観を通し、最近の語形成の研究動向として、二つの特徴があげられる ことを述べた。一つは、近年の複合動詞の語形成の研究は、合成的な立場から、非合 成的な立場にシフトしているということである。これは、形成された複合動詞が構成 要素にない意味が含まれているからである。もう一つは、複合動詞の意味制約をより 意味的に大きい枠組みで捉え直そうとしていることである。その背景には、複合動詞 の語形成を分析するために、より豊かな意味要素と世界知識が必要であるという理解 がある。
さらに、第2 章では、日本語複合動詞研究の主流である語彙意味論の最近のアプロ ーチがコンストラクション形態論に近づこうとしている動きが観察されることを述べ た。特に、影山(2002、2013)による意味構造における定項の代入という語形成論の 考え方は、Booij(2013)におけるコンストラクション形態論と整合性の高い理論的枠 組みであることを述べた。同時に、影山(1996)や由本(2005)のような初期の語彙 意味論で用いられている表示モデルは、移動事象が持つ様々な意味要素を反映しきれ ないという問題もあるということを指摘した。
第3 章の最初に、単一動詞である移動動詞が持つ動詞類型上の特殊性を述べた。こ れは、語彙的アスペクトの観点から見た場合、「移動様態動詞」と「有方向移動動詞」
には、従来の動詞類型と異なる特徴があり、区別される必要があるためである。また、
移動動詞の中には、この二種類の移動動詞に加え、従来の動詞分類における「位置変 化動詞」と「使役移動動詞」がある。本論における四種類の移動動詞の語例は次の(3)
に示すことができる。
(3) a.移動様態動詞:中間経路;滴る、しなだれる、流れる、転がる、転 ぶ、ほとばしる、舞う、歩く、滑る、駆ける、潜る、さまよう、跳ぶ、
走る、這う、急ぐ、泳ぐ、飛ぶ、辿る、巡る、横切る、など
b.有方向移動動詞:起点;出る、去る、遠ざかる、逃げる、離れる、抜 く、来る /着点;通う、移る、沈む、帰る、寄る、上る、登る、下り
る、昇る、上がる、下がる、下る、降りる、入る、渡る、潜る、着く、
連れる、届く、近づく、戻る、迫る、退く、越す、乗る、返る、回る、
進む、過(よ)る、行く など
c.位置変化動詞:起点;現れる、生まれる、浮かぶ/着点;あふれる、崩 れる、こぼれる、伝わる、漏れる、当たる、止まる、広がる、落ちる、
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d.使役移動動詞:取る、置く、寄せる、のける、着ける、付ける、移す、
埋める、下げる、沈める、届ける、はめる、まぶす、広げる、回す、
渡す、さげる、動かす、下す、散らす、こぼす、流す、飛ばす、転が す、入れる、出す、上げる、落とす、下ろす、通す、戻す、返す、掛 ける、載せる、投げる、進める、与える、やる、よこす など
(3a)の「移動様態動詞」は、移動物の移動様態を表す動詞タイプである。「*駅に 歩く」が非文であるように、一般的には着点を取ることができない。ただし、「街を 歩く」があるように、中間経路と共起することが可能である。(3b)の「有方向移動 動詞」は、主に移動物が一定した方向に向かって移動することを表す動詞タイプであ る。「家に帰る」があるように、着点を取ることが可能である。(3c)の「位置変化 動詞」は、移動物における位置変化の結果を表しており、(3d)の「使役移動動詞」
は、主体による客体の移動を表す。(3cd)のタイプは、従来動詞分類と同様に考える。
以上のような動詞分類を踏まえ、第 3 章では、移動動詞の動詞タイプと事象構造と を関連づけて論じた。その理由として、異なるタイプの移動動詞が存在するというこ とは、それに対応する異なるタイプの移動事象が現実世界で観察されるからである。
このような考えに従い、移動事象に特化した理論枠組みを提案した。また、このよう な枠組みは、語彙意味論とコンストラクション形態論を融合させたものであると理解 される。そのうちの一例を次の(4)に示すことができる。
(4) 彼は街中を歩いた。
V-[x MOVE<MANNER>[Path ]] ←事象構造 「歩く」の語彙的意味 ←語彙的意味
(4)は二段構造になっており、本論における「移動様態事象」を有する単一動詞「歩 く」の表示モデルである。(4)の上段は、移動様態事象の事象構造の基幹部分を表し ている。ここでは、移動様態動詞の語彙テンプレート x MOVE<MANNER>[Path]が、V-[ ] という事象構造の空所位置に取り込まれて形成されている。下段は、個々の移動様態 動詞が持つ「語彙的意味」を上段の事象構造に代入するということを表す。ここで言 う語彙的意味とは、ある一つのタイプとして共通する事象的意味のほかに、「歩く」が 持つ個別の意味を指すものである。このように、(4)の表示では、移動動詞が持つ事 象的意味と語彙的意味が区別されながらも、ひとまとまりの構造を成しているという ことが表される。
さらに、この章で単一動詞に見られない主要部のあり方という問題を取り上げ、
Talmy(1985、1990)の枠組みをもとに新たに考えた。これは、日本語は経路主要部表 示型言語であることから、「動詞+動詞」の形で形成される複合動詞の中で、構成要素 のどちらに経路が現れるかで主要部が決まる、という考えに由来している。ここで、
意味要素の経路がV2にある場合の「V2主要部型」、意味要素の経路がV1にある場合