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美術の中のヒロシマ・ナガサキ

ドキュメント内 2000年度 (ページ 151-164)

第 5 章 マスカルチャーにおけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 3 節 美術の中のヒロシマ・ナガサキ

本節では、美術作品の分野から、国民のヒロシマ・ナガサキに関する記憶の形成に大き な影響を与える役割を果たしたと思われる作品をいくつか選び、その表象について検討を 加える。具体的には、絵画の中からは、社会科・歴史教科書の口絵としても使用されてお り最も人口に膾炙した存在と言える丸木位里・俊夫妻による『原爆の図』と、NHKの呼び かけがきっかけとなって収集運動が行われた『市民による原爆の絵』の2点を取り上げる。

また、芸術写真の中からは、日本の芸術写真史上に大きな足跡を残したと考えられる土門 拳の広島関連の作品、土門と比較されることも多い東松照明の長崎を撮った作品、そして ライフワークとして世界のヒバクシャを撮り続ける豊崎博光ら計 9 名の写真家の作品を取 り上げる。

第1項 『原爆の図』におけるヒロシマ・ナガサキの表象

『原爆の図』は、水墨画家の丸木位里、油絵画家の丸木俊(赤松俊子)夫妻が、1950〜

82年に渡って描きあげた15部作である。その国内外における知名度の高さに反して、『原 爆の図』に関するまとまった先行研究は限られている。その数少ない先行研究の中で、丸 木美術館の評議員にも名を連ねる早稲田大学講師の小沢節子は、『原爆の図』が持つ重要性 の根拠として、「1950年から30年以上にわたって描きつづけられたこの連作には、広島・

長崎の、そして戦争の記憶が、時代とともに変容する様々な絵画表現として呈示されてい る」390点を指摘している。そして、『原爆の図』が、展示の場において作者が客から得た様々 な反応を作品のテーマに取り込んでいったことが30年以上に渡る連作化を促したことに鑑

390 小沢(2002)、p.3 参照。 

み、本作品が丸木夫妻のみならず、戦後の日本人の原爆観や戦争観・平和観の変化を読み 取る指標としても有効であると考察している。

小沢の分類によれば、『原爆の図』全15部作は下記の3つの時期に分けられる。

初期作品(1950−1952):「幽霊」、「火」、「水」、「夜」(未完)、「少年少女」

中期作品(1953−1959):「原子野」、「竹やぶ」、「救出」、「焼津」、「署名」、「母子像」

後期作品(1960−1982):「とうろう流し」、「米兵捕虜の死」、「からす」、「長崎」

まず作品全体の特徴として指摘できるのは、人間に焦点が置かれ、一部の作品を除けば 人間以外のもの、例えば建築物や廃墟などはほとんど描かれていない点にある。また、画 面を構成する人間の多くは女性と子どもであり、子を抱く母親の姿や抱き合う兄弟姉妹の 姿が描きこまれている。更に後に述べるように、本作品には人々の様々な体験が組み込ま れており、それらが詞書(説明文)として絵に添えられている。これらは、作品の発表当 初には、作者である俊や巡回展に協力した人々が会場で絵の前に立って「絵解き」をした が、現在は作品カタログや画集にも掲載され、絵と文がひとつのセットとなって正式な形 とされている。

『原爆の図』の製作と発表の経緯についても簡単に触れておこう。丸木位里の郷里が広 島であった為、丸木夫妻はニュースを聞いて広島に向かい、被爆数日後の惨状を目撃した。

しかし、夫妻が作品の制作に着手したのはこの体験から 3 年余りが経過してからのことで ある。その製作の契機を作ったのは、日本美術会であった。日本美術会は共産党主導で作 られた組織であり、共に共産党員である夫妻は発足時の委員であった。日本美術会では、

時代が逆コースへと転じて共産党が国民の支持を急速に失っていく中で、「大衆にはたらき かけ、大衆を啓蒙し、大衆を目覚めさせる美術」を創作上の指針として打ち出した。これ を受ける形で夫妻は 3 年前の広島の記憶を描くことを決意したのである。391しかし、被爆 を直接体験していない夫妻は、位里の母スマや妹あやなど親戚を始めとする直接体験者か ら体験談を収集したり、当時はまだほとんど公表されていなかった松重美人や山端庸介の 記録写真の一部を党経由に入手したりして、これらを手がかりに被爆体験の記憶を再構成 し、作品の中に組み込んでいったのである392

従って、初期作品のほとんどはこれらの体験をもとに広島への原爆投下による惨状を描 いた作品である。先述のように、描きこまれているのは被害者としての日本人の女性と子 どもが中心であり、男性や老人、あるいは日本人以外の被爆者の姿は希薄である。『原爆の 図』が衆目に触れたのは、1950年2月の第三回アンデパンダン展393に第一部「幽霊」が出

391 この時の心境を丸木俊は、「明るい日本人を描きたい。描きたいのなら明るい日本を作らねばならなかったのです。

それなら、まずこの暗さを、このように暗いのです、と分かってもらわねばなりません。暗い悲しい日本の姿、それ は原爆、あの広島の姿ではないでしょうか。」と語っている。丸木(1958)参照。 

392 中国新聞カメラマンの松重美人が撮影した相生橋付近の有名な報道写真は、1946 年 7 月 6 日の『夕刊ひろしま』(の ちの中国新聞夕刊)に掲載された後は,1952 年まで公開されなかった。また、西部軍管区司令部報道部カメラマンの 山旗庸介の写真も同様に 1952 年まで公開されることはなかった。小沢は、『原爆の図』に併せて、同時期に製作され た絵本『ピカドン』の中にも、松重や山端の写真の痕跡を見出している。小沢(2005)、pp.87-93 参照。 

393 日本美術会による無審査、自由出品制の展覧会。美術家の戦争責任追及、日展の復活反対等の運動と結びついてい た。 

品されたのが最初であり、その後『原爆の図』初期三部作は国内 100 ヵ所以上で巡回展示 され、広く日本中に知られる存在となった394。当時一般の人々が知り得た原爆の情報は、

空撮されたキノコ雲の写真と永井隆の『長崎の鐘』程度であったことから、小沢はこの巡 回展は「占領下で統制されていた原爆被害の情報を広く国民に伝えようとする運動であり、

被爆体験の国民的共有をめざしたもっとも早い試みであった」395と位置付けている。しか し、巡回展の場は様々な政治的争点に合わせた署名運動やアンケートが行われる場でもあ った396。このことは、『原爆の図』を平和運動推進のシンボルとしてまつりあげる働きをす ると同時に、本作品が絵画というよりも政治的言説として位置付けられる原因ともなった のである。実際、『原爆の図』が発表された直後は美術評論界において賛否両論があったと されるが397、その後本作品が平和運動のシンボルとして扱われ、政治的意味合いを帯びて くると、美術評論の対象とされる機会は少なくなった。398丸木夫妻は巡回展と並行して、

第四部を制作中であったが、この作品の左端には被爆した米兵捕虜の姿が描きこまれてい た。「原爆による一般的な概念をこえて、どういう人びとがどのような被害を受けねばなら なかったか、というあたらしい想像力の世界がひらきはじめた」点において、後の作品の 萌芽が見られる作品である。

中期作品は占領終結後から1950年代に制作されたものであるが、原爆文学や原爆映画の 創作においてもそうであったように、1954 年のビキニ水爆実験と第五福竜丸被災事件、そ の後の原水爆禁止運動の盛り上がりが大きなテーマとして取り上げられた。『原爆の図』は、

1955年の第九部『焼津』、第十部『署名』の制作によって、初めて広島の被爆体験を離れる ことになったのである。一方、初期作品は1953〜1964年の間、世界巡回展のために日本を 不在にした。この巡回展は世界20カ国をめぐるものであり、世界各地で原水爆禁止を訴え る平和使節として大きな反響を呼び起こし、本作品の世界的知名度の向上に大きな役割を 果たした。しかし、国内における長期の不在によって、『原爆の図』は幻の絵画とされるよ うになった。国民意識における戦争体験、原爆体験の記憶の忘却、原水爆禁止運動のトー ンダウンとシンクロするかのように、本作品の存在もまた忘却されていったのである。本

394 ヨシダ(1996)によれば、全国各地を巡回した際に、「なぜ、こう裸体を描くのか。これは絵画だからか」、「これ は大袈裟ではないか」といった声が多かったという。一方、広島・長崎では「この作品では被爆の現実が描ききれて いない」という批判の声もあった。 

395 小沢(2002)、p.152 参照。 

396 占領下ではストックホルム・アピールや全面講和、独立後には再軍備反対、米軍基地撤廃、徴兵反対、原水爆禁止 などのテーマが取り上げられた。 

397 例えば、阿部・小田切(1955)の中で、花田清輝は「同じ記録芸術にはちがいないが、『原爆の図』には、日本独 特の記録芸術の方法をつくりだすための模索があり、冒険があるのに反し、たいていの「原爆文学」は、依然として、

古めかしい私小説的方法によりかかつている。」と評価する一方で、「どうしてかれらは「幽霊」といえば、封建時代 の「幽霊」だけしかおもいうかべないのであろう。(中略)応挙の「幽霊」を手がかりにして、原爆の被害者のすがた をとらえようとするような性急な態度は、画家自身の近代以前の精神を示すものと断じてさしつかえあるまい」との 批判も行っている。 

398 美術評論界以外の評価の例としては、「われわれは、被爆後の人間世界の報告として最良の作品のひとつである『原 爆の図』を記憶している。」(大江健三郎『ヒロシマ・ノート』、岩波書店、1965 年、p172 参照)や、「結局、見るもの は題材に圧倒されてしまうのである。(中略)つまり、原爆体験があまりに絵画そのものの自立性を奪ってしまうので、

芸術的変化の問題は放り捨てられてしまうのである。しかし、その問題を提起した時、これらの壁画がその悪魔のよ うな光景にも関わらず、原爆体験を普遍的意義のある芸術的形象へと至らしめていないことに気づくのである。」

(Lifton,Death in Life, p.470 参照、和訳は筆者による)などがある。 

ドキュメント内 2000年度 (ページ 151-164)