第 4 章 ジャーナリズムにおけるヒロシマ・ナガサキの表象
第 1 節 先行研究からの示唆
本節では、序章第4節で簡単に触れた「ジャーナリズムにおけるヒロシマ・ナガサキの表 象」に関わる先行研究を中心に、本章の調査分析を行うにあたって踏まえるべきと思われ るポイントを抽出して整理する。同時に、本調査の調査方法が概ね妥当であることを確認 する意味合いもある。
まず始めに、宇吹(1995)は毎年7、8月の新聞紙面を大量の原爆関連記事が占めるよう になったのはサンフランシスコ講和条約が発効した1952年以降のことであると分析する210。 そして、原爆問題をテーマとした連載や企画物が登場するのは1952年の朝日新聞が最初で あり、その後各紙で掲載されたこれらの連載や企画物のテーマを辿ることは、原爆問題に 対する社会的関心の在り方と変容を探る上での手がかりを提供してくれると考える。また、
宇吹は朝日/毎日/読売/日経の4紙における社説の内容を追跡し、1955年以後は4紙全 てがほぼ毎年8 月 6日前後の社説で被爆者あるいは世界の核状況に関連した内容を掲げて いることを明らかにしている211。また、朝日新聞とNHKが原爆報道に果たして来た役割の 大きさにも注目し、広島平和祈念式典に関しては、朝日新聞は第 1 回からその全てを一面 トップかそれに準じる扱いで報道していること、NHKも第 1 回から実況放送を続けている ことを指摘している212。加えて、1963 年の原水禁運動分裂を契機に、マスコミ全般がこの 運動に対する厳しい批判者になる中で、朝日新聞とNHKは新たな市民による平和運動の積 極的な支持者として機能していったことにも注目する。すなわち、1966 年からの原爆爆心 地復元運動ではNHKが、1967年からの原爆展開催では朝日新聞社が運動そのものの提唱者 かつ重要な担い手にもなったのである。更に、朝日新聞社は同年に全国に広がる通信網を 動員して約27万8000人の被爆者から無作為抽出した500人に対する面接調査を実施した213。 これは画期的な試みであり、それまでほとんど表に出ることのなかった被爆者の心の声を 引き出し、社会に伝えることに成功した。この意欲的な取組みに刺激を受けた他社もその 後追随するようになり、1970 年代以後はマスコミ各社が積極的な原爆関連の企画を打ち出 していったのである。
一方、NHKにおけるヒロシマ・ナガサキの報道に関しては、内部の者が異なる視点から かなり詳細な検討を試みている。すなわち、「戦争をどう描いてきたか」という切り口から
210 宇吹(1995)、p.1936 参照。
211 原爆以外で各紙が揃い踏みで社説に取り上げるテーマは、8 月 15 日の終戦記念日のみだとも併せて指摘している。
212 宇吹(1995)、p.1938 参照。
213「広島・長崎原爆被爆者調査」『朝日新聞』、朝刊、東京本社版、8-9 面、1967 年 8 月 5 日参照。
はNHKで長年報道・ドキュメンタリー番組を手がけてきた桜井(2005)が、また「原子力 報道」という切り口からはNHK放送文化研究所の七沢(2008)が研究を行っている。
桜井によれば、国民があの日キノコ雲の下で起きたことを映像で初めて目にしたのは 1970年 3 月になってからのことである。これはTBS、朝日放送系の「ニュースデスク」で 放映された『広島・長崎 1945年8月』という15分程度の映画であり、米国戦略爆撃調査 団の監視下に日本映画社の撮影班が原爆投下直後に記録したフィルムをGHQが没収して持 ち帰って編集したものを、コロンビア大学のエリック・バーナウ教授が「人体への影響」の 部分を中心に更に編集したものである(詳細は第5章第2節で後述)。桜井はこの25年に も及ぶ遅延は占領軍の検閲とそれに続く日本の自主規制によって起こったと考え、この遅 延によって日本人は「人間の崩壊を目撃した」被爆者への想像力を著しく欠くことになっ たと考察している。そしてこのことによって、1950年代後半から60年代にかけて、原爆体 験と米国の「核の傘」に入るという選択とが、矛盾したものとして語られることが少ない という特異な状況が生み出されたと指摘する。同時に、「原子力の平和利用」についても原 爆体験とは切り離して語られることが多かったと分析し、その要因として、放射能に関す る医学的データが日米の科学者間では少なからず共有されていたにも関わらず、市民には 隠され続けてきたという点を指摘している。それはとりもなおさず被爆者の存在を軽視す ることであり、後に原発被曝の評価基準を甘く見積もる思想につながったと考える214。更 に、桜井は「放送コード」という表現の制約についても考察を加えており、これによって テレビドキュメンタリー番組は全体として「人道に対する罪」、例えば戦時強姦、生体実験、
慰安所、強制労働などの現場検証を映像に持ち出すことに失敗してきたのではないかと、
メディアの内部にいる人間として自省する。そしてナチスのガス室と原爆投下に代表され る科学技術的な大量無差別殺戮という新種の暴力による人間破壊をその延長戦上に位置付 け、テレビドキュメンタリーがこれらの暴力をどのように厳密に切り取ることができるの か、という将来の課題を投げかけている215。
一方、七沢(2008)は、「原子力」という側面から NHK の番組内容を詳細に分析してい るが、1957年(アメリカから日本に導入された実験用原子炉が初臨界を迎えた年)から50 年の間に原子力に関する報道を概観すると以下のような変遷が見られると考察している。
まず、原子力の導入当初である1950〜60年代にかけては、原子力の社会啓蒙の役割を果 たそうとする内容が中心であり、従って原子力がもたらす経済発展への期待を反映した内 容が多かった。当時の世相を見ても、原子力ロボットを主人公としたアニメ『鉄腕アトム』
が人気を博し、大学の物理学科や原子力工学科は受験生に大人気だったのであり、社会全 体として原子力の平和利用に対する期待が強かったと推測している。また、NHKの看板番 組のひとつでもあった『新日本紀行』の中でも、発展から取り残された地域も原発によっ て豊かになるチャンスが与えられるのだという楽観的な描写が支配的であったとする。
214 桜井(2005)、pp.139−143 参照。
215 前掲、pp.441−442 参照。
続く1970年代は全国に次々と原子力発電所が建設された時期であり、また全国で様々な 公害が顕在化した時期とも重なっている216。こうした中で、原子力に関わる報道は、次第 に環境汚染への不安や地域住民による反対運動を取り上げるものが増えていく。また、1974 年に起きた原子力船「むつ」の放射能漏れ事故に関する報道は30年近くに渡って継続され るのだが、その報道内容の変遷は原子力の万能感が次第に色褪せ、失意や忘却へ変わって いく物語と重なる。そして、環境汚染や住民運動が報道内容の中心になっていくことによ って、自然と地方発の番組が増加していくのだが、それは結局原子力の負の側面が地方の 問題として局地化されていくことを意味していたのだと考察している。
一方で、都市部の人々の関心を原発の負の側面に強く惹きつけたのが、多少皮肉なこと にも思えるが、米国スリーマイル島の原発事故(1979 年)とソ連のチェルノブイリ原発事 故(1986年)という2つの海外で起きた事故であった。これらが大きな契機となって、NHK は組織の総力を結集して、放射能汚染の実態とその人体への影響を解明する為の積極的な 調査報道や、被災者の受難を見つめる人間ドキュメントを継続的に制作するようになる。
特にチェルノブイリ原発事故に関しては、事故発生の 1986 年から 21 年間の間に制作され た747件の関連コンテンツがNHKアーカイブズに保存され、そのうち154件が番組であっ たことからも、どれだけNHKが熱心にこの問題を追及してきたかを伺い知ることができよ う。しかし、原発事故を取材するのには専門的な知識が必要である上に、海外の大事故に 継続して密着する為には相応の人材や資金が必要である。そこで、90年代に入るとNHKに は科学・文化部が新設されて、このテーマに専門的に対応することが可能な体制を整えた。
この体制は、その後国内で相次いで起こった原発事故やその証拠隠蔽疑惑217の解明にも積 極的に活用されるのである。
七沢は研究の総括として、原子力に関する報道がどうしても事故・トラブル待ちの姿勢 を越えられなかった点を反省点として指摘している。すなわち、テレビは大衆の願望を映 し出す鏡のようなものであり、リスクを背負わされた地方の人々の実情を見ないで済ませ たいと無意識に願っている大多数の都会の人々の願望を反映してしまう。これが、何か問 題が起きるまで原発の問題を積極的に取り扱おうとしない中央メディアの問題を生み出し ているのだと考えるのである。更に言えば、テレビは問題が起きるのを待つのではなく、
原発を考える上で避けて通れない根本的な課題、すなわち人類はいつまで今日のような大 量エネルギー消費を続けるのか、中国やインドの成長に伴って原子力はどこまで拡大して いくのか、その先に地球に何が起こるのか、といったことを積極的にテーマとして取り上 げ追求していく必要があることを指摘している。
以上の宇吹、桜井、七沢の研究からもわかるように、ヒロシマ・ナガサキに関わる報道 において、NHK と朝日新聞の果たした役割は色々な面で重要だと考えてよいだろう。本研
216 1960 年代後半から新潟水俣病(1967〜1971)、四日市ぜんそく(1967〜1972)、イタイイタイ病(1968〜1972)、水 俣病(1969〜1973)の被害をめぐる裁判、四大公害訴訟が続々と始まり、全て被害者側の全面勝訴で終った。
217 敦賀原発事故(1981 年)、もんじゅナトリウム漏洩事故(1995 年)、動燃・東海村再処理工場爆発事故(1997 年)、 東海村JCO臨界事故(1999 年)、東京原発トラブル隠し(2002 年)、関西電力美浜原発事故(2004 年)、柏崎刈羽原発 火災事故(2007 年)など。