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新聞報道におけるヒロシマ・ナガサキ

ドキュメント内 2000年度 (ページ 92-107)

第 4 章 ジャーナリズムにおけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 2 節 新聞報道におけるヒロシマ・ナガサキ

本節では、1945年から10年おきの8月の新聞記事の報道内容を、見出しを中心に分析し ていく。なお、ヒロシマ・ナガサキ関連の記事見出し一覧の詳細は、巻末の付録資料3を参 照されたい。資料の中には、各年の8月においてひとつでもヒロシマ・ナガサキ関連の記事 が掲載された日数をカウントし、その年のヒロシマ・ナガサキへの関心の大きさを測るひ とつの参考値として記載した。

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ヒロシマ・ナガサキに関する記事が新聞に初めて掲載されたのは、1945年8月8日のこ とである。広島への原爆投下から二夜が明けたこの日、朝日新聞の一面トップは「廣島へ 敵新型爆弾」という見出しで飾られた。この記事は「詳細は目下調査中」としながらも広 島市に「相当の被害」が生じたことを告げ、「無辜の民衆を殺傷する残忍な企図」による「人 道を無視する惨虐な新爆弾」であるとしてアメリカを厳しく糾弾している。同日の読売新 聞においても「見よ敵の残虐」という小見出しが使われており、以後 8 月の原爆投下に関 わる報道の記事見出しを一覧すると、「惨虐」、「惨禍」、「惨状」、「被害」等被害の凄惨さを 強調する言葉、「非人道」、「人道無視」、「国際法規無視」、「抗議」、「糾弾」など新兵器の違 法性を世界に訴える言葉が数多く使われている。また、原爆投下から8月15日に終戦の詔 勅が下りるまでの期間は、第三の都市に原爆が投下されることを想定して、新型爆弾の正 体は何か、どうすれば被害を抑えることができるのかといった対策関連の記事も目に付く。

例えば、8月11 日の朝日新聞には特報として「新型爆弾への心得」八箇条が付随されてい る218。注目されるのは、広島への原爆投下が一面トップ記事であったのに対して、長崎へ の原爆投下はトップ扱いではなく掲載欄も小さいことであり、8月12日の第一報では「被 害は比較的僅少なる見込み」と報道している。そして8月15日の一面トップ記事を飾って

218 これは陸海軍および防空総本部が発表したものであり、特に「横穴式防空壕が有効」であること、「初期防火に注 意すること」、「火傷が多いから火傷の手当を心得ておくこと」を強調している。 

いるのは「戦争終結の大詔渙發さる」という見出しのもとに全文掲載された詔書だが、小 見出しの一番目に付く所に「新爆弾の惨害に大御心」とあり、天皇が御前会議で「これ以 上国が焦土化し国民が戦火の犠牲になるのを見るに忍びない」との思いから終戦を決意し たことを説明し、原爆投下が終戦の最大のきっかけとなったとする見方の原点ともいえる 内容をここに伺うことができる219

ところで、被爆地の様子が写真で初めて紹介されたのは、朝日・読売ともに8月19日の 号においてである220。どちらも焦土と化した広島市の様子を遠景から写した写真であり、

長崎市の様子は読売では8月23日、朝日では8月25日号に掲載されている221。広島・長 崎の写真共に一面の焼け野原の写真であり、生物の姿は一切見られない。

先述したように、原爆投下から終戦までの期間は、「被害の惨状」、「敵の残虐性」、「国際 社会への抗議」などが報道の中心であり、米国が加害者で日本が被害者と受け取れる内容 の記事ばかりであったが、敗戦とそれに伴う占領の開始によってこのような記事はたちま ちのうちに姿を消すことになる。

これらの記事と入れ替わるように 8 月下旬の新聞で目立つようになるのは、例えば 8 月 20 日の朝日・読売両紙に掲載された「科学立国へ」という記事222のような、日本は米国の 科学技術の力に負けたのであり、これからは日本も科学技術の発展に遅れをとらないよう に邁進しなければならないといった論調のものであった。

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  1955年8月におけるヒロシマ・ナガサキ関連記事の掲載日数は、朝日・読売ともに31日 中27日にも及び、これは今回検証した戦後10年おきの8月の中では最も頻度が高かった。

それだけ、人々の目に頻繁に原爆や核に関する表象が触れたということであり、この問題 に対する世の中の関心が高かった時期だと考えてよいと思われる。また、その記事内容を 概観すると、「原子力」、「平和」、「10周年」、「放射能」という4つのキーワードが浮かび上 がってくる。以下に各々の記事の内容を詳細に検討しよう。

  まず「原子力」であるが、8月8日からジュネーブで72カ国が参加して開催された「原 子力平和利用国際会議」に関する報道が連日積極的に行われているのが注目される。その 論調は、全般的に「原子力平和利用」への大きな期待をにじませるものである。なぜなら 原子力の発見は「科学の一つの勝利」223だからであり、「原子力の平和利用」の対極に位置 されるのは、言うまでもなく広島・長崎における原爆使用である。ここで「平和」に対置

219 『朝日新聞』、朝刊、東京本社 2 版、1 面、1945 年 8 月 15 日参照。 

220 「広島市の惨状」『読売報知新聞』、東京本社 2 版、2 面、1945 年 8 月 19 日/「惨禍の広島市」『朝日新聞』、東京 本社版、1 面、1945 年 8 月 19 日参照。 

221 「原子爆弾攻撃による長崎市の惨状」『朝日新聞』、東京本社 2 版、2 面、1945 年 8 月 25 日/『読売報知新聞』、東 京本社 2 版、2 面、1945 年 8 月 23 日参照。 

222 「科学立国へ 五小委員会を設置」『朝日新聞』、東京本社 2 版、2 面、1945 年 8 月 20 日/「科学立国へ 英才教育 を再検討」『読売報知新聞』、東京本社 2 版、2 面、1945 年 8 月 20 日参照。 

223 ヘンリー・デウルフ・スマイス博士特別寄稿「ジュネーブ原子力会議の意義」『朝日新聞』、朝刊、東京本社版 12 版、2 面、1955 年 8 月 5 日。 

されているものは「戦争」に限定されており、原子力の利用に付随して生まれる様々な危 険や負の側面についてはあまり触れられていない。例えば、8月13日の朝日新聞では「原 子力国際会議の指すもの」は「惨禍から明日の幸福へ」であると名打って、この会議が「第 三次大戦の恐るべき危険性を押しのける第一歩を踏み出した」ものとして評価している。

報道の関心は、むしろ米ソを中心とした国際会議における技術展示合戦の方に向けられて おり、各国の展示する新しい「原子力発電所」や「原子炉」に素直に感心すると同時に、

翻って日本の「原子力政策」の立ち遅れを嘆き発破をかけるような論調の記事が目に付く。

例えば、8月8日の朝日新聞夕刊の一面トップでもこの原子力展示会を取り扱っているが、

見出しに「美しい米国原子炉」として、米国原子力委員会の研究所による水泳プール型原 子炉が白紫色に輝く様を賛美している224。また、8月18日の読売新聞では「論争やめ実行 の時」、「日本、実験用で準備体制急げ」と奮起を促す記事が掲載されている225。一方、朝 日新聞の連載「原子雲を越えて」の中では、占領期に日本の原子物理学研究がほぼ全面的 に禁止されたことが日本の原子力政策の立ち遅れに結びついたと分析し、「原子爆弾とは縁 がないはず」の「原子核研究」までも制限したのは、占領軍の無知によるものであるとの 批判を行っている226。更に、アメリカがこの会議に備えて着々と進めてきた自由主義世界 における支配体制、具体的には「原子力非軍事利用に関する協力協定」の調印と発効実施 に向けての動きを「原子力外交」と名付け、「日米原子力協定」によって日本もまたその支 配体制下に組み込まれていく様子を肯定的に報道している。

  2つめのキーワードである「平和」は、8月6日前後に日本や世界各地で催された様々な 原水爆禁止関連の集いに関わる報道に拠っている。1955年は原爆投下から10年の区切りの 年であったこともあって、平和祈念式典を始め、原水爆禁止世界大会、広島平和宗教会議 などの国際的な会議が広島で盛大に開かれて世界の注目を集めた。まず 6 月にヘルシンキ の世界平和大会で各国代表の熱烈な支持によって8月6日が「世界の平和活動の日」(World Day of Action for Peace)とされたことに基づき開催された原水禁広島大会には、具体的な行 動の進め方について話し合う為に35カ国150人の代表が招聘された。しかし、この中に中 国、北朝鮮、ソ連等共産圏の代表も含まれていたことから、査証発行をめぐる政府の対応 に注目が集まった。続く東京大会は、原水爆反対の署名が国内約3238万人、全世界では 6 億7000万人に達したことが報告されておおいに盛り上がったのであり、新聞では一般入場 者 2 万人で満員となった会場の様子が写真入りで報道され原水禁運動の盛り上がりがピー クに達した様子が伝わってくる。一方、広島の平和祈念式典には英国の哲学者バートラン ド・ラッセル卿とソ連の科学アカデミー事務総長トプチエフ氏から、長崎の平和祈念式典に はインドのネール首相から平和へのメッセージが送られており、原水爆禁止と世界平和へ の国際的な関心の高さも伺い知ることができる。

  3つめのキーワードである「10年」は、前述したように1955年が原爆投下10周年とい

224 「原子力展示会を見る」『朝日新聞』、夕刊、東京本社版 3 版、1 面、1955 年 8 月 8 日。 

225 「日本代表にきく原子炉討議」『読売新聞』、朝刊、東京本社版、2 面、1955 年 8 月 18 日。 

226 「原子雲を越えて③」『朝日新聞』、朝刊、東京本社版 12 版、1 面、1955 年 8 月 8 日。 

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