第 5 章 マスカルチャーにおけるヒロシマ・ナガサキの表象
第 1 節 ヒロシマ・ナガサキをめぐる表象の変遷
本節では付録の「資料11:ヒロシマ・ナガサキの表象の変遷」の図を参照しながら、時代 の流れに沿って総括していこうと思う。
広島・長崎への原爆投下が初めて表象の場に現れたのは、ジャーナリズムにおいてであ った。広島に原爆が投下された 2 日後にこの出来事は主要紙の一面トップを占め、広く日 本国民の知る所となった。その最初の表象のほとんどは「原爆被害がいかに凄惨であった か」、「原爆を投下した敵国アメリカがいかにひどい国であるか」ということであった。8月 15日の新聞では、天皇が「新爆弾の惨害」に心を痛め、「これ以上国が焦土化し国民が戦火 の犠牲になるのを見るに忍びない」との思いから終戦を決意した旨が伝えられ、原爆投下 という出来事はアジア・太平洋戦争の「被害」と「敗戦」のシンボルとして、強く国民の 記憶に焼き付けられたのである。
その後、8 月末に始まり1952年まで継続される連合軍の占領下においては、原爆投下直 後に強く立ち現れた「米国への怒りと抗議」の表象はまたたく間に封印されることになっ た。これは勿論、占領軍による厳しい検閲が主要因であったが、日本人自身が自発的に沈 黙した面も多分にあったと思われる447。しかし、被爆地においては、心ある創作者を中心 に危険を冒してもなお、原爆投下という前代未聞の出来事を記憶に残さなければならない、
人々に伝えなければならないという使命感が生まれていた。こうした使命感に突き動かさ れるように、広島では栗原貞子や原民喜、大田洋子などの作家があの日の出来事の悲惨、
悲しみ、憤りを詩や文章で表現し、長崎では永井隆が鎮魂や諦念、平和への祈りを私小説 に綴った。また、広島と縁が深かった画家の丸木位里・俊夫妻はその被害の凄惨さを『原
447何もかも失った被爆地の市民の多くが今日を生きることに精一杯で、米国への怒りや報復の感情を封じ込めたこと について、歴史家のモニカ・ブローは「自発的沈黙(Voluntary Silence)」と呼んだ。Hein & Selden(1997),p.115 参 照。
爆の図』に描き出し、全国巡回展示を通じて人々に大きな衝撃を与えたのである。
1952 年に占領が終結すると、それまで検閲や自発的沈黙によって抑えつけられていた表 現への欲求が一気に噴出することになる。原爆投下直後の新聞報道と『原爆の図』、検閲の 網目をくぐりぬけて密かに発表された文学作品を除いては、日本国民は原爆被害の実態に 関してほとんど何も知らされていなかった。だからこそ、1952 年に『アサヒグラフ』に原 爆の被害状況を撮影した写真が掲載されると、日本国民はその想像以上の凄惨さに驚愕し たのである。そして、それから間もない1954年に起きたビキニ水爆実験と第五福竜丸被災 事故はこの原爆被害の生々しい記憶を呼び起こし、全国で原水爆禁止運動が大きな盛り上 がりを見せる。3200 万人もの署名を集めた原水爆禁止への強い願いは、日本国民が戦後改 めて一致団結して平和への思いを強くした出来事として記憶された。
原爆投下から 10年目を迎えた 1955年には広島・長崎で原爆資料館が開館し、人々は原 爆被害の悲惨さに実物資料を通じて触れる機会を常時与えられることになった。原爆の爪 痕が生々しく残る被爆資料は、来館者に写真で見る以上に強い印象を与えたと思われる。
原爆被害の悲惨さは、学校教育の中でも正面から取り上げられた。日本は戦後の新しい教 育制度において検定教科書制度を導入したが、社会科や歴史の教科書の中では、「原爆投下 による未曾有の被害」や「日本の敗戦」がややもすれば感傷的な語り口で記述されること も時にあったのであり、原爆投下の経緯についての詳しい説明はほとんどないままに、戦 局が悪化すると原爆が突然落とされて日本は敗戦を迎えたという文脈の中で原爆投下は語 られてきたのである。
しかし、ジャーナリズムやマスカルチャーの領域では、「原爆被害の悲惨」という表象に とどまることなく新たな表象が生まれていた。1950 年代のジャーナリズムを賑わせたテー マのひとつは、「原水禁運動への期待」と「世界平和への願い」であったことは先述したが、
もうひとつの大きな柱となったテーマは「原子力の平和利用への期待」であり「科学立国 への志」であった。日本が米国に負けたのは科学技術の力が劣っていたからだという報道 の論調は敗戦直後から見られたが、科学立国への志は戦後国策として奨励されるようにな った。「原子力の平和利用」は「科学の勝利」の象徴とされ、広島・長崎における原爆の実 戦使用と対置されたのであり、原子力利用に付随する様々な問題点についてはほとんど触 れられることのない楽観的な表象が中心であった。これらは、マスカルチャーにおいては 手塚治虫の漫画・アニメ『鉄腕アトム』の大ヒットに支えられ、この時代の原子力は一種 の憧れを持って語られたのであった。『鉄腕アトム』と並ぶ同時期の大ヒット映画『ゴジラ』
では原水爆の恐怖が人々の大きな関心を惹きつけていたが、「原水爆への恐怖」と「原子力 の平和利用」はほとんど結びつけられることなく別個のものとして語られていたのである。
1950年代末から60年代前半に時代が進むと、美術や文学作品の領域において更に新たな 表象が見られるようになる。写真家の土門拳は1958年に写真集『ヒロシマ』の中で「生き て原爆と戦っている人間」の姿を描き出し、原爆が過去の問題ではなく今なお続いている 未解決の問題であることを社会に向かって告発した。文学の領域では、井上光晴が長編小
説『地の群れ』の中で被爆者に対する差別を被差別部落民や在日朝鮮人、共産党員などに 対する差別と共に「戦後日本が抱える現代社会の課題」として描き出した。また、井伏鱒 二が被爆者差別を題材に著した『黒い雨』は多くの読者を獲得し、この問題を広く国民が 認知する上で大きな役割を果たしたと思われる。被爆者差別の問題は、その後70年代、80 年代にも多くの女流作家によって取り上げられることになる。更に、被爆者差別の問題と 並んで1960年代後半からジャーナリズムやマスカルチャーで取り上げられるようになった のが「周辺被爆者」の問題である。この問題にいち早く反応したのは地元広島で一貫して 原爆報道に取り組んできた中国新聞であったと思われるが448、NHKでも1969年に沖縄の被 爆者、1971 年に韓国の被爆者の問題を全国放送の番組で取り上げて、これまで置き去りに されてきた被爆者の存在に対する関心を示した。
ジャーナリズム全般で見ると、1950 年代から1960年代で大きく変化したのはヒロシマ・
ナガサキの表象が楽観論から悲観論へと大きく傾いたことであったろう。政治的分裂によ って停滞した原水禁運動に対しては失望の言葉が溢れ、キューバ危機やヴェトナム戦争と いった核戦争と背中合わせの危機的時代背景の中で、核軍縮が一向に進展しないことへの 苛立ちや挫折感が表れていたのである。こうした時代の中で人々の全面核戦争への恐怖は 募る一方であり、マスカルチャーにおいてもこれらの恐怖を描いた作品が数多く立ち現れ た。手塚治虫は核戦争による人類壊滅の恐怖を繰り返し漫画に描き、映画では狂人が押し た核ミサイル発射ボタンと自動報復装置によって世界が破滅に向かう恐怖をシニカルに描 いた『博士の異常な愛情』が注目を集めた。
1970 年代に入っても、ヴェトナム戦争の泥沼化やソ連のアフガニスタン侵攻など激化す る米ソ対立を背景に、全面核戦争の恐怖は世界的に拡大する一方であった。日本のジャー ナリズムやマスカルチャーの場でもこのテーマは繰り返し取り上げられた。新聞の紙面に は核情勢の緊迫化への強い危機感を表明する見出しが所狭しと並び、NHKでは全面核戦争 が起こったらどうなるかというシミュレーションを試みる番組が登場して話題を呼んだ。
また、アニメーションでは『宇宙戦艦ヤマト』や『未来少年コナン』のように、核戦争に よる終末世界や放射能汚染を物語設定に用いる作品が登場し、子どもから大人に至るまで 幅広い世代の視聴者を獲得した。
同じ頃、ジャーナリズムやマスカルチャーで取り上げられるようになった新たな表象の テーマは「原爆投下に関わる歴史認識」、「加害認識の欠如」の問題であった。これらが注 目されるようになった要因の一つには、原爆投下から30年が経過して米国で当時の機密資 料が新たに公開されたことがある。NHKでは1970年代後半から1980年前半にかけて、機 密資料を元に原爆投下の歴史を再検証する番組や米国人の原爆認識を題材とした番組を数 多く作成した。また、文学の領域では1976年に栗原貞子が有名な「ヒロシマというとき」
という詩を発表し、加害行為を棚にあげて被害者面をする広島のあり様を鋭く批判した。
448 中国新聞では 1964 年に沖縄の被爆者、1968 年に韓国の被爆者を取り上げている。NHK出版編(2003)、pp.374-375 参照。