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公的記憶の生成のダイナミズム

ドキュメント内 2000年度 (ページ 188-191)

第 5 章 マスカルチャーにおけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 2 節 公的記憶の生成のダイナミズム

第 1 節で教科書、博物館・資料館、ジャーナリズム、マスカルチャーの 4 つの場におけ るヒロシマ・ナガサキの表象の変遷を総括した。改めてその変遷の歴史を振り返ると、新た な表象の芽のほとんどがジャーナリズムとマスカルチャーの領域で生み出されていたこと に気付く。

例えばマスカルチャーの領域で見るなら、原爆被災を過去の出来事ではなく今も続く社 会問題として世に告発した土門拳の写真集『ヒロシマ』、被爆者差別の問題を現代社会の 様々な差別と並置して呈示した井上光晴の小説『地の群れ』、人間と科学のディスコミュニ ケーションをテーマとした『鉄腕アトム』に代表される手塚治虫の漫画・アニメ、加害認 識を取り入れる必要性を被爆地内部から訴えた栗原貞子の詩集『ヒロシマというとき』、グ ローバルヒバクシャの問題を80年代初頭に主題に取り込んでいた小田実の小説『ヒロシマ』

など、先駆的なテーマを呈示した作品は多々挙げられる。これらのテーマのほとんどはい ずれも個人あるいは一部の集団が保有していた「周辺の記憶」であり、知る人ぞ知る記憶 として社会の片隅に埋もれていたものである。これらの記憶を発見した心ある創作者が作 品の主題として取り上げることで、放っておけば忘却される可能性のあった「周辺の記憶」

が社会に認知されるチャンスを与えられることになったのだ。

そして、「周辺の記憶」を発見する上ではジャーナリズムの果たした役割も忘れてはなら ない。例えば、沖縄の被爆者や韓国人被爆者といった「忘れられた被爆者」の存在を日本 全国に告発する上で NHK が果たした役割は無視できない。NHK の場合、広島・長崎の支 局が地元に密着した地道な取材を重ねることで、全国メディアからは見過ごされがちなこ うした「周辺の記憶」をすくい上げることが可能となった。そして、広島・長崎制作によ る原爆報道番組を毎夏全国放送するという伝統を作り上げていったことによってこうした

「周辺の記憶」が広く全国民に認知される機会を創出し得たのである。NHKはチェルノブ イリ原発事故についても積極的な調査報道を継続し、この過程で現代の放射線被曝の問題 を広島・長崎の被爆と結びつけることにも貢献した。朝日新聞を始めとする主要紙もまた、

連載企画などを通じて被爆者の体や心の傷痕に光を当てたり、原爆投下をめぐる歴史認識 の問題にいち早く注目したりするなど、新たな表象のテーマを世に呈示する上で大きな役 割を果たしたと考えられる。NHK や朝日新聞などの全国規模のメディアの場合は、時にそ の報道内容に社内外から圧力がかかったり、突然の大事件で予定していた報道内容が飛ば されたりすることもある。また、移り気な一般大衆を相手に関心を惹きつけていくために は、真摯さよりも派手さや面白さが優先されることもあろう。しかし、心ある記者の粘り 強い追求が時に大きな成果に結びつくことがあり、またメディアが市民を巻き込んで思い がけない運動へとつながっていくこともある。「市民が描く原爆の絵」や、「爆心地復元運 動」などは、ジャーナリズムが地元市民を巻き込む形で新たなヒロシマ・ナガサキの記憶の 表象を生み出した好例だと言える。

一方、教科書と博物館・資料館におけるヒロシマ・ナガサキの表象は、戦後長期に渡って

「原爆による未曾有の被害の悲惨さ」がその中心にあり続けて来た。第 1 章で論じたよう に、検定教科書における記述や国立博物館における展示は、いわば国家のお墨付きをもら った「国家の記憶」ということになる。しかし、国立歴史博物館の常設展示でアジア・太平 洋戦争が語られるということはこれまでになく、ヒロシマ・ナガサキについて初めて国家が 建立した施設である国立原爆死没者追悼平和祈念館は、その名の通り原爆死没者の追悼が

目的であり、国家としての明快な記憶を表象するようなものではなかった。昭和館や平和 祈念資料館、しょうけい館といった既存の博物館・資料館においても国民の戦中戦後の労 苦を語り継ぐことに焦点が当てられ、不都合な歴史の記憶に関しては黙するという態度が 取られてきたが、ヒロシマ・ナガサキに関しても原爆投下をめぐる歴史的経緯や戦後の核政 策などに関しては、不都合や矛盾が露呈しないように黙しているという点で共通している。

不都合や矛盾に関してはなるべく沈黙して忘却を図るという点においては、教科書におけ る基本的な態度も同様である。しかし、教科書における表象も時代の流れとともに揺らが ずにはいられない部分があった。すなわち歴史認識をめぐる隣国からの外圧や、国内にお ける周辺の記憶とのせめぎあいを通じてアジア・太平洋戦争全体の記述のあり方が変化し ていく中で、原爆投下の位置付けにおいても客観化、相対化が進行してきたのである。と はいえ、この変化の速度は大変緩やかなものであった。原爆投下をめぐる歴史的経緯の検 討や加害認識の取り入れは、ジャーナリズム・マスカルチャーの領域では60年代半ば頃か ら始まっていたが、これらが教科書で本格的に導入されるのは1982年の教科書問題以後の ことである。すなわち、国家にとって都合の悪い「周辺の記憶」はできる限り無視して忘 却させようという力がある時点までは優勢に働くが、外交問題等の国家にとって別の不都 合が生じると、急速にこの力学が逆転し変化を推し進める場合があるのだ。勿論、直接的 には外圧によって進展したように見えるこの変化も、ジャーナリズムやマスカルチャーの 領域で時間をかけて「周辺の記憶」を浸透させていくことによって受容の素地ができてい たからこそ可能になったという点を忘れてはならない。こうした国家の政治的思惑もあっ て、アジア・太平洋戦争をめぐる表象においては近年かなり変化が見られるが、外国人被 爆者の問題や戦後日本の核政策の矛盾などについてはまだ教科書の中では沈黙したままで ある。80 年代以後のジャーナリズムやマスカルチャーで注目されてきた「世界に広がる放 射能汚染・被曝」の問題や「原爆投下をめぐる歴史認識の違い」などの問題も積極的に取 り入れられているとは言い難い。

国立博物館・資料館や検定教科書においては常に「記憶の忘却」の力学が作用して、な かなか「周辺の記憶」が反映されないのに対し、公立・私立の博物館・資料館は「周辺の 記憶」への反応が相対的に敏感であり、これらを広く世に認知・定着させていく上で大き く貢献してきたと思われる。広島・長崎の原爆資料館は市民投票による特別措置法に基づ いて開館したという経緯もあり、開館当初から市民の熱い思いによって支えられてきた。

両資料館は実物の被爆資料を通じて原爆被害の悲惨さを全世界の人々に知ってもらうこと を主たる目的としているが、1990 年代に多数開館した後発の平和博物館の動向に少なから ぬ影響を受けて、加害行為や歴史認識の相違、グローバルヒバクシャの問題などに踏み込 んだ展示の取り入れに前向きな姿勢を見せている。以前と比べて減少傾向が続いているの が懸案とはいえ、平和教育の場として依然多くの児童生徒を惹きつけているだけに、広島・

長崎の両資料館における表象のあり方は、ヒロシマ・ナガサキの記憶の有り様に今後も重要 な役割を果たしていくであろう。

以上に検討してきたように、第 1 章で筆者が呈示した公的記憶生成のダイナミズムは、

ヒロシマ・ナガサキの記憶の生成という事例においてはほぼ妥当であったと結論づけられ る。

ドキュメント内 2000年度 (ページ 188-191)