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修学旅行とヒロシマ・ナガサキ

ドキュメント内 2000年度 (ページ 53-56)

第 2 章  教科書におけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 4 節 修学旅行とヒロシマ・ナガサキ

日本の小・中・高では、集団行動を通じて協力の心を育成するとともに、「総合的な学習」

の内容を深化させ、見聞を広めることなどを目的に、ほとんどの学校で修学旅行を実施し ている131。広島と長崎は、長期に渡って平和学習を深めることを目的とした修学旅行の定番 的行き先であり続けてきたし、現在も一定の位置を確保していると考えられる。しかし、

長期的な傾向に目を向ければ、絶対数と相対的シェアにおいて近年下降気味である(表 2、

表 3 参照)。これは、広島市全体としては観光客数が上昇しており、特にアジアからの外国 人観光客が増加しているのと対照的である。修学旅行生の減少の原因としては、勿論少子 化の影響が大きいが、それだけではない。修学旅行の行き先は近年海外を含めて遠距離化 しており、例えば関東近辺の高校では陸路ではなく空路による修学旅行が選ばれることが 増えている。その背景には、オフシーズンの飛行機チケットが鉄道よりも格安で手に入る こと、また各地方自治体が地元空港の稼働率を上げるための修学旅行誘致に積極的に働き かけをしているといった事情が影響している。 

 

表3  高校の修学旅行目的地の変遷      表4  広島市の観光客数の推移 

(%) 1位 京都 12.7 1位 沖縄 27.2 2位 奈良 9.8 2位 北海道 17.7 3位 東京 5.9 3位 京都 11.7

4位 長野 5.6 4位 東京 7.4

5位 熊本 5.5 5位 大阪 6.7

6位 長崎 5.4 7位 長崎 4.4

7位 広島 5.1 10位 広島 2.1

1983 2006

 

(万人)

1995年 2007年 観光客総数 949.4 1062.4 修学旅行生 39.9 29.8 外国人観光客数 15.5 31.2  

※表2は(財)日本修学旅行協会「全国高等学校修学旅行の調査報告」S60版、「全国の高等学校修学旅行の実態調査」

H18年版を元に筆者が作成した。

※表3は広島市発表資料をもとに筆者が作成した。

 

しかし、修学旅行の学習内容という視点から見ても、平和学習の位置付けは昭和 40〜50 年代をピークに小さくなってきており、現在では高校の修学旅行の目的全体において一割 強を占めるに過ぎなくなっている132。平和学習に代って、体験学習、環境学習、志望校・企 業見学等キャリア教育が中心となり、それに合致する行き先が選ばれることが多くなって

131 修学旅行情報センターの調査によれば、H19 年度の修学旅行実施率は 99.6%である。 

132 2005 年度に(財)日本修学旅行協会が実施した「全国高等学校修学旅行の調査報告」によれば、「平和学習/平和 教育」を旅行の目的として回答した学校は全体の 12.2%であった。 

いるのである133。こうした傾向の中で、沖縄は本土と違う独自の文化や歴史、美しい自然を 体験できる場所でありながら、同時に平和学習も可能ということで、近年全国的に修学旅 行の行き先としてシェアを拡大している。また近年は広島を中心とした中部地方周遊の旅 行は減り、関西方面への旅行に平和学習のために広島が組み込まれることも少なくない。

ところが、近年は広島に代る平和学習の為の訪問先として、神戸の「人と防災未来館」や 京都の「立命館大学国際平和ミュージアム」、大阪の「ピースおおさか」等が組み込まれる ケースも増えている。これらはいずれも 90 年代にできた新しい博物館・資料館であり、特 に歴史展示に関しては近年の議論を踏まえた上でバランスのとれた展示を目指している。

一方、広島や長崎での平和学習は「原爆だけ」、「被害者意識を強調しすぎる」という批判 をされることもあり、平和学習の訪問先としての修学旅行生に対する訴求力が相対的にや や弱まっていることが懸念される。 

第 5 節 小括

ヒロシマ・ナガサキは戦後長期に渡り、「日本国民が受けた未曾有の被害」のシンボルと して、また「終戦を決定的にした敗北の象徴」として歴史教科書の中で語りつづけられて きた。それは国語教育で題材としてとりあげられる物語、修学旅行で訪れる平和公園や資 料館における語りなどと響きあいながら、「広島・長崎の市民が世界にも類を見ない多大な る犠牲を払ったことによって、終戦の決定が下され日本国民が平和を手にいれた」という ややもすると犠牲者意識に傾いた原爆観を育成したのであり、「だからこそ、唯一の原爆被 災国の国民として、世界平和を希求していかねばならない」という使命感を生み出してき たのである。 

しかし、日本軍の加害行為に対する政府の隠蔽や、国民自身の加害意識の欠如が近隣諸 国から大きな批判を浴びたことが大きな契機となって、特に 80 年代以降、こうしたヒロシ マ・ナガサキの語りから情緒的な部分が排除されるようになっていった。また、アジア・

太平洋戦争の記述全体の中で、加害に関する記述や国内外の市民が受けた原爆以外の被害 に関する記述が徐々に増大していき、これによって原爆による被害の位置付けも相対化さ れていった。 

日本人の被害者意識を象徴するものとして批判を浴びることも多かったヒロシマ・ナガ サキの語りが、最も公的な記憶形成装置のひとつだと考えられる社会科・歴史教科書の中 で客観化・相対化されるようになってきたことは、評価すべき側面も多い。しかし、外国 人被爆者の問題や原爆に関する歴史認識の相違、戦後の核政策の矛盾、放射線被曝の実態 等、教科書には反映されていない問題も山積している。こうして以前は良くも悪くも鮮明

133 2006/7/20 に(財)日本修学旅行協会調査研究部調査役門田秀雄氏に実施したインタビューに基づく。 

 

 

な輪郭を持っていたはずのヒロシマ・ナガサキは、その意味を十分に主張できないままに 存在感を失ってしまう危険性と背中合わせになっているとも考えられるのである。広島・

長崎が修学旅行生の減少に悩んでいる背景にも、学校教育の現場で十分に生徒や教師の関 心を喚起できていないことが遠因としてあるのかもしれない。 

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