• 検索結果がありません。

オピニオン誌におけるヒロシマ・ナガサキ

ドキュメント内 2000年度 (ページ 116-125)

第 4 章 ジャーナリズムにおけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 4 節 オピニオン誌におけるヒロシマ・ナガサキ

  以上に検討した新聞・テレビにおけるヒロシマ・ナガサキ関連の報道内容の変遷を確認・

補足する為に、この節ではオピニオン・リーダー誌の中から『世界』(岩波書店)、『諸君』(文 藝春秋)の二誌を選択し、ヒロシマ・ナガサキ関連の特集が組まれることが多い 7 月号、8 月号、9月号において、どのようなテーマの報道がなされてきたかを検討する。なお掲載記 事の詳細については、巻末付録の資料5、資料6を併せて参照されたい。また、『諸君』は 1969 年創刊である為、特に断りがない場合は『世界』に掲載された記事を参照しているこ とを断っておく。

1946〜1955

  日本が占領下にあった 1952 年までは、ヒロシマ・ナガサキに関連する報道は非常に限定 的であった。1950年の『世界』で「ヒロシマを忘れるな 日本ペンクラブ廣島の会に寄せて」

336という巻頭特集が組まれ、広島の復興への希望が主に語られたことを除けば、ほとんど 目立った報道は見当たらない。

ヒロシマ・ナガサキ関連の大きな特集が初めて組まれたのは、占領が明けた1952年の『世 界』8 月号の「特集 八月六日の記念」である。この特集では、作家の大田洋子や映画監督 の新藤兼人が広島の傷痕を悼む論稿を寄せる一方で、原爆の製造や原子力の今後について 考える論文や記事もあった。日本が原子力政策にどう取り組んでいくべきなのか、世界で 進行している原爆・水爆の開発を道義的にどう捉えるべきなのかといったテーマは、これ 以後『世界』で度々取り上げられるようになるが、その初期のものは既にこの時期の報道 にいくつか見つけることができる。サルトルの論文「歴史に反逆する武器・水爆」(1954年 9月号)やバートランド・ラッセルの論文「水爆と人類との決闘」(1955 年 8 月号)などは 原水爆の道義的問題に迫る試みであるし、「座談会:何れの道を選ぶか―日本における原子 力の諸問題」(1955年7月号)、伏見康治の論文「日本の原子力をどうする」(1955年 8月 号)などは、原子力政策の今後を検討しようとするものであろう。

1956〜1965

1956〜1965 年になると、ヒロシマ・ナガサキ関連の報道は以前と比べて随分量も増えて

くる。そして報道内容を見渡せば、大きく3つのテーマを抽出することができる。

334 「NHKスペシャル:調査報告・劣化ウラン弾〜米軍関係者の告発〜」(2006 年)参照。 

335すべてNHKスペシャルで、「ドキュメント北朝鮮第 3 集「核をめぐる戦慄」」、「北朝鮮“核実験”の謎」(2006 年)、「シ リーズ核クライシス(2)核兵器開発は防げるか〜IAEA査察官・攻防の記録」(2007 年)参照。 

336 掲載論文は青野季吉「廣島と平和」、小松清「一つの回想と一つの希望」、阿部知二「奈落での希望」の 3 つ。 

まず1つめは既に1954年頃から見受けられた「原水爆をめぐる道義的問題」であり、こ のテーマをめぐっては科学者を始めとする様々な立場の人が寄稿している。例えば、湯川 秀樹の「科学と道徳」、朝永振一郎の「科学者として発言する」(ともに1957年9月号)や

「科学者の責任と非核武装の原則―第二回科学者京都会議の報告から―」(1963 年 7 月号) は科学者の問題意識を世に問うたものであるし、ジョイスの「原水爆への道義的批判は無 力か」(1957年9月号)は弁護士の立場からこの問題を論じたものである。

2つめのテーマは、1960 年代に入って登場する「原子力潜水艦の寄港をめぐる問題」で ある。この問題については石本泰雄の「原子力潜水艦と安保条約」(1963年7月号)のよう に政治・外交面からのアプローチだけではなく、湯川秀樹の「寄港問題と科学者」や豊田利 幸の「科学的とは何か−再び原子力潜水艦について−」(ともに1963 年8 月号)のように 科学者も積極的に見解を示そうとしたのである。

3つめのテーマは、「核実験をめぐる問題」である。1956〜1965年は冷戦の進行に伴う核 軍拡路線のもと、米ソに加えて英仏中も次々と原水爆実験を繰り返すようになった時期で ある。日本においては、1954 年のビキニ水爆実験による第五福竜丸の被災事件を受けて、

核実験反対の声が瞬く間に大きくなり、原水禁運動が最大の盛り上がりを見せた時期でも あった。そこで、嬉野満洲雄の「核実験論争−各国の反応−」(1962年7月号)や、1963年 に調印された部分的核実験停止条約に関する志賀義雄の「核停条約と三つの十年」(1964年 7月号)、岸田純之助の「中国の核実験と戦略構想」(1965 年 7月号)などの論文が掲載さ れたのである。

1966〜1975

1960年代半ばから70年代半ばにかけての報道においては、「科学者の責任」等のこれま での問題意識も継続されつつ、新たなテーマも出現するようになる。それらは、「原子力の 平和利用をめぐる諸問題」、「軍拡への警鐘と軍縮に向けての展望」などであり、また新聞・

テレビの報道ではあまり見られない「原爆後の世界における思想」、「原爆の意味」といっ たテーマである。

「原子力の平和利用をめぐる諸問題」としては、「原子力の平和利用と憲法」(1966 年 7 月号)、「原子力開発と科学技術」(1966年8月号)などがその例であり、「軍拡への警鐘と軍 縮に向けての展望」としては、1966 年9月号において「核兵器体系の巨大化と日本の科学 者−第三回科学者京都会議の記録−」という大特集を組み、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田 昌一、豊田利幸などの科学者が、様々な視点から軍拡へと向かう現状を打破する為の一石 を投じている337

一方、「原爆後の世界における思想」、「原爆の意味」という新しい問題を提起した主な論 文としては、堀田善衛の「最大の矛盾について−核爆発と人民戦争−」(1966年7月号)、

337 主な掲載記事としては、湯川秀樹「第三回科学者京都会議を終って」、朝永振一郎「核抑止政策の矛盾」、坂田昌一

「平和の論理の創造と科学者の責任」、豊田利幸「核兵器開発の現状と展望」など。 

小田実の「平和をつくる」(1966年の9月号)、大江健三郎の「原爆後の日本人の自己確認」

(1968年8月号)など文学界からの声や、科学者である庄野直美の「ヒロシマ25年−核時

代1/4世紀−」(1970年8月号)、ジャーナリストであるウィルフレッド・バーチェットの「26

年目のヒロシマ」(1971年8月号)などがある。

1976〜1985

1970年代半ばから80年代半ばにかけてのヒロシマ・ナガサキ関連の記事の中心的テーマ であったのは、「直面している核の脅威の状態をどう好転させることができるか」というこ とであったろう。この時期は、ソ連のアフガニスタン侵攻によって軍縮路線が行き詰まる 中で、米国はいわゆるスターウォーズ計画を打ち出し軍拡へと転じ、60年代、70年代と強 まっていった核戦争への危機感がピークに達していた時期である。従って、オピニオン誌 においてもこの関心を反映させた記事が多く登場することになった。『世界』では、A・ミ ュルダールと豊田利幸の往復書簡「核軍縮への道を求めて」(1978年9月号)、1980年7月 号の特集「恐るべき兵器」における豊田の「軍拡を軍縮に転換させる道」、川田侃の「多極 化世界の構造と現代の平和」、ケナンの「核の悪夢から脱出する道」(1981年8月号)、1981 年9月号の特集「一門一答 核戦争と核のカサ」、1982年7月号の特集「平和の声―いま、

何を訴えるか」に寄せられたガルブレイスの「軍拡競争と経済体制」とカール・セーガン の「生命と核戦争」、ハーバーマスの「核時代の市民的不服従」(1984年7月号)等々、科 学、哲学、政治、経済など様々な立場の人が提言を行っている。『世界』が「軍縮、核廃絶 支持」を基本路線として論を展開しているのに対し、『諸君』は違う立場をとる。1980年7 月号の特集「核の選択−日本よ国家たれ−」において、「核兵器保有」と「非核三原則の撤 廃」の是非を検討するという挑戦的な清水幾太郎の論文を掲載し、軍事科学研究会の「日 本が持つべき防衛力」(1980年7月号)や中川八洋の「「核の持ちこみ」以外に道はない」

(1980年9月号)、1981年8月号の特集「核の欺瞞」における山本七平の「非核三原則と いう教義」等の論文において、「非核三原則や原子力基本法の変更によって米軍の核持ち込 みを認めるべき」との主張を展開し、現実に進行している核戦争の危機に防衛によってど う対応すべきかという視点から議論を展開している。

また、日本各地で原発建設が相次いだことや米国における原発事故の勃発などを受け、

「原子力の平和利用への疑念」もテーマとして取り上げられている。『世界』では、豊田利 幸の「非核エネルギーの開発」(1977年8月号)、1979年の特集「原発を選ぶべきか」にお ける新田信利の「原子力発電の論争点」、黒川研一の「日本における原子力導入」などがこ れに当たる。

更に、分裂して機能を果たさないままの原水禁運動に停滞からの脱皮を促す記事もいく つか目に付く。『世界』では、吉野源三郎の「原水禁運動−新しい転換の時機」、安部一成 の「改めて原水禁運動の基本を問う」(ともに1977年8月号)、『諸君』では、1984年9月 号の特集「核と平和運動」の中の佐藤寛行「正体見たり 原水「協」「禁」の内紛」などが

ドキュメント内 2000年度 (ページ 116-125)