第 3 章 博物館・資料館におけるヒロシマ・ナガサキの表象
第 5 節 東京都立第五福竜丸展示館
東京都立第五福竜丸展示館は、江東区夢の島の一角にある。開館は1976年であり、東京 都東部公園緑地事務所が管理を行っている。
同館には、ビキニ水爆実験で被災した第五福竜丸がそのままの姿で展示保存されている。
パンフレットの展示の趣旨には、「遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていた だくとともに、原水爆による惨禍がふたたび起こらないようにという願いをこめて」192建 設されたとある。今日では都内を中心に毎年 400 校前後の学校が見学に訪れるなど、平和 学習の場としておおいに活用されている同館だが、開館までに第五福竜丸が辿った道のり
190 長崎新聞、2008 年 6 月 30 日掲載記事参照。
191 長崎新聞、2008 年 6 月 30 日掲載記事参照。
192 東京都第五福竜丸展示館パンフレット参照。
は平坦ではなかった。以下に、同館が開館するまでの経緯を簡単に記しておこう。
第五福竜丸は1954年にビキニ水爆実験で被災して焼津港に帰港した後、放射能汚染の調 査を経て文部省の管轄下に置かれることになった。そして、東京水産大学の練習船として 改造され、名前も「はやぶさ丸」と改名された為、それがあの第五福竜丸だとはほとんど 気付かれることもなく使用されていた。1967 年には船体老朽化のために廃船処分とされて 解体業者に払い下げられ、エンジン等使用可能な部分は撤去して売り払われた残りが、東 京夢の島にゴミと共に放置されるに至ったのである。このことが同年の夏にNHKで報道さ れて広く国民に知られるところとなり、原水爆禁止運動の象徴でもあった同船をこのまま にしておいてもよいのかという声が次第に強くなっていった。特に、1968 年に朝日新聞の
「声」の欄に掲載された「沈めてよいか第五福竜丸」というある会社員の投書193が大きな 契機となり、本格的に第五福竜丸の保存を呼びかける運動が開始された。翌年には、東京 都知事美濃部亮吉氏を含む 8 氏による呼びかけで「第五福竜丸保存の訴え」が発表され、
彼らを代表委員とする保存委員会が設置された。これらの模様は、同年 3 月にNHKドキュ メンタリー「廃船」の中で放映され、大きな反響を呼んだ。1974 年には第五福竜丸の永久 保存施設を東京都が建設し、その管理・運営を財団法人第五福竜丸保存平和協会に委託す ることが決定して、1976年に東京都立第五福竜丸展示館が開館したのである。
以上が開館の経緯であるが、次に展示の内容を詳細に見ていこう。同館の展示は以下の 12のコーナーから成る。
①水爆実験との遭遇
②乗組員のその後と久保山さんの死 ③「原子マグロ」と国民生活
④ビキニの海へ−俊 鶻しゅんこつ丸の海洋放射能調査 ⑤漁船第五福竜丸
⑥原水爆反対の声おこる ⑦乗組員へのお見舞いの手紙 ⑧漁業補償と事件の「決着」
⑨マーシャル諸島の核被害 ⑩世界の核実験被害 ⑪原水爆のない未来へ
⑫第五福竜丸の保存と展示館の建設
展示の中心になるのは勿論、中心に据えられた第五福竜丸である。来館者が正面入口か ら入場すると、当時の面影を残す第五福竜丸が眼前に飛び込んでくる。来館者はこの存在 感ある大きな船を見上げながら、周囲を囲むように配置された展示を観覧して回ることに
193 朝日新聞、「沈めてよいか第五福竜丸」、1968 年 3 月 10 日「声」欄参照。
なる。最初の「水爆実験との遭遇」のコーナーでは、第五福竜丸がどのような航海経路を 辿って被災するに至ったのかが地図上で詳しく示され、その被災位置は米海軍が告示して いた危険水域外であったこと、被災後に米軍が危険区域を大きく拡大したことなどが説明 される。併せて、乗組員23名が全員写真入りで紹介されている。乗組員が辿ったその後を 見ると、久保山愛吉氏も含めた半数以上の12名が肝臓ガン、肝硬変、肝機能障害のいずれ かが原因で死亡したことがわかる。実物資料としては、航海日誌や乗組員の持ち物に加え て、船から採取された白い「死の灰」も展示されており、これから極めて高い20数種の放 射性物質が検出されたという記録が添えられている。
2番目の「乗組員のその後と久保山さんの死」のコーナーでは、東京大学附属病院と国立 東京第一病院に入院した18名の乗組員の被災状況が写真や手記とともに紹介され、中でも 被災から半年後に死亡した久保山愛吉氏に焦点が当てられている。解説パネルには、治療 のためには水爆「ブラボー」の資料が必要であったにもかかわらず、米国政府が問い合わ せに応じなかったこと、久保山氏の死因が放射能症と発表されたが米国がそれを認めなか ったことなどが説明されている。こうした米国の冷淡な対応に併せて、日本国内において も乗組員の周囲に放射線被害に対する偏見があったことが紹介されている。例えば、焼津 であるテレビ局が街頭インタビューを行った際に、若い女性が「福竜丸の乗組員と結婚す るか?」と聞かれて、「ええっ、あんな人たちと結婚。とんでもない。」と回答したこと、
焼津市市議会筋が第五福竜丸の措置について「あんな疫病神の巣のような船を焼津に置か れてたまるか」と発言したことなどである。
続く「『原子マグロ』と国民生活」では、第五福竜丸の漁獲物から放射能が検出された為 に全てが廃棄されたことに端を発して、その後帰港した全国の漁船からも放射能に汚染さ れた魚が次々と見つかり、国民生活が混乱に陥る様を紹介している。水産庁が指定した海 域で操業した漁船は全て公衆衛生局が指定した五港のいずれかに入港することが義務付け られ、これ以外の全国各地の十三港においても放射能検査が開始された。この結果1954年 末までに廃棄された魚は485.7トンにのぼり、全国の魚屋、寿司屋はもとより、魚を主食と してきた日本国民の生活自体が大打撃を受けることになった。更に、5月中旬頃から太平洋 側に強い放射能を含んだ雨が観測され、9月になるとソ連の核実験の影響と思われる放射能 雨も混じるようになり、汚染の不安が魚だけではなく農産物、牧畜、牛乳、飲み水へと広 がり、国民生活が混乱を極める様子が当時の新聞記事などと共に紹介されている。
4つめの「ビキニの海へ−俊鶻丸の海洋放射能調査」では、水産業界が受けた損失の補 償を米国に要求する為に行われた汚染調査の模様が紹介される。調査の結果、ビキニ海域 とその付近で予想をはるかに上回る放射能汚染が観測されたことや、放射性物質が生物体 内へ濃縮される事実が過小評価されていたことなどが詳しく説明されている。
「漁船第五福竜丸」のコーナーでは、船の絵ときや乗組員の持ち物の展示などを通じて、
当時の遠洋漁業の様子が紹介される。乗組員が最低限の携行物しか持たず、質素な持ち物 で過ごしていた様子や、タバコや歌をささやかな楽しみに船上生活を送っていた様子が展
示されることで、突然襲った原水爆事故に対して彼らが全く無力であった様子が自然と浮 き彫りにされるようだ。
6番目の「原水爆反対の声おこる」では、第五福竜丸被災が契機となって日本全国で盛り 上がった原水爆禁止運動について紹介している。全国各地で行われた署名運動の名簿や、
翌年広島で開催された第 1 回原水爆禁止世界大会のポスターや参加証などの実物が展示さ れ、当時の国民の熱い思いが伝わってくる。
次の「乗組員へのお見舞いの手紙」のコーナーでは、入院していた乗組員たちに全国か ら寄せられた見舞いや激励の手紙が展示してある。特に久保山氏とその家族に送られた手 紙の所蔵品は小学生約600通、中高生約 600通にのぼり、これ以外にも東大生協、日本患 者同盟大阪支部など全国な様々な団体から寄せ書きなどが送られており194、第五福竜丸の 被災と久保山氏の死が全国民に注視されていたことが伝わる内容になっている。
「漁業補償と事件の『決着』」では、ビキニ事件の被害に関する日米政府間交渉の概要が 紹介されている。政府は「補償の責任はアメリカにある」としながらも、対米要求に弱腰 であったが、その後の海洋調査の結果、久保山氏の死亡、国民世論の動向の影響もあって 交渉を進め、1955年1月に「補償のため200万ドルの金額を、法律上の責任の問題と関係 なく、慰謝料として支払う」195ことで全面決着とした。200万ドルは当時の円に換算すると 7億2000万円程度であったが、大日本水産会の陳情書は漁業関係者の被害額は 24億7000 万円と算出していた。補償でなく慰謝料として提供された総額から第五福竜丸の乗組員一 人当たりに支払われた見舞金は 200 万円程度であり、この「決着」は大きな不満を残すと ころとなった。展示では、外務省外交文書を通じてこの交渉の過程を辿り、日本の呈示額
(19億円)に対して米国が驚愕の色を示したこと、「本件補償は一に人道的考慮と米側好意 に基き、法律上の責任の問題を全く度外視して行われるもの」196である点を明記するよう に米側からの要請があったこと、その理由は「米側としては自由諸国全体の安全のために 行っているテストのために、不幸にして万一将来再び類似のケースが発生した場合今回の 補償支払が法律的先例となっては堪まらない」197と考えていたからであることなどが説明 される。
続く「マーシャル諸島の核被害」のコーナーでは、第五福竜丸を離れてビキニ水爆実験 の実験場となったマーシャル諸島の住民の被災状況を紹介する。住民達が危険について知 らされずに「死の灰」を浴びたこと、実験のために強制移住させられた住民が、実験によ って汚染された故郷にいまなお戻れずに苦しい生活を強いられていることなどが写真や彼 らの生活用品とともに展示されている。
「世界の核実験被害」のコーナーでは、更にマーシャル諸島から全世界に視野を拡大し、
1945年7月にアメリカのニューメキシコ州アラモゴードで初の核実験が行われて以後、2000
194 財団法人第五福竜丸平和協会(2004)、『ビキニ水爆実験被災 50 周年記念・図録 写真でたどる第五福竜丸』p.50-53 参照。
195 財団法人第五福竜丸平和協会(2004)、前掲資料p.54 参照。
196 財団法人第五福竜丸平和協会(2004)、前掲資料p.55 の外交文書参照。
197 前掲資料参照。