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社会科・歴史教科書に見るヒロシマ・ナガサキの表象

ドキュメント内 2000年度 (ページ 41-49)

第 2 章  教科書におけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 2 節 社会科・歴史教科書に見るヒロシマ・ナガサキの表象

第1項 歴史教科書の語りはどのように形成されるのか

教科書の記述に対しては、検定教科書制度の下に国家から数多くの制約が課されてきた ことは第 1 節で述べたとおりである。特に社会科・歴史教科書の記述においては、国が愛 国心育成の観点から、日本史の暗いイメージをなるべく排除しようと、少しでも論争があ る箇所については削除するように圧力をかけるケースもあった。 

しかし、1965 年の家永教科書裁判や 1982 年の教科書問題によって、教科書検定に対する 世間の注目が集まり、隣国との外交問題に発展することを懸念した政府は、新たに「近隣 諸国条項」113を定め、近現代史の記述においては特に隣国に配慮した記述を行うよう指導す るようになった。この影響もあって、70 年代末から 90 年代にかけて、アジア・太平洋戦争 における日本軍の加害行為に関する記述は次第に詳細になり、これらの史実の真偽をめぐ る個別研究にもかなりの進展が見られた。 

その一方で、隣国からの抗議があると、「外交的配慮」という理由から政府が超法規的措 置をとり、それによって覆される検定制度に対して、その基準の曖昧さを批判する声もあ

112 なお、現行の学習指導要領に代る新学習指導要領が 2008 年に公示されており、小学校は平成 23 年度、中学校は平 成 24 年度から全面実施される予定である。 

113 「学校教科用図書検定基準」の第 3 章「各教科固有の条件」に定められた「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴 史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という規定。1982 年の教科書検定が 中国・韓国が抗議する外交問題へと発展したのに対し、政府は内閣官房長官談話を発表して年内に検定基準改正を行 うことを約束し、政治的決着を図った。この時追加されたのが前述の規定である。 

114。近年では、独自の歴史観115に基づく記述で話題となった「つくる会」の『新しい歴史 教科書』が、2001 年に検定に合格し、2005 年度に杉並区で採用されたことをめぐって、検 定基準の正当性を問う議論が起きた。また、2006 年の高校日本史の教科書検定における沖 縄戦での集団自決に関して、「日本軍の強制があった」とする記述に対して「沖縄戦の実態 について誤解するおそれのある表現である」との検定意見がつき、削除・修正するように 要求が出されるなど、国家による自国史の美化が再び憂慮される出来事も起きた116。沖縄戦 における軍から一般市民への自決の強制をめぐっては、大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波 書店)の中で自決を強制したとされる士官の遺族が岩波書店と大江氏を相手に裁判を起こ しており、これが検定意見の根拠の一つとなった。しかし、2008年3月に大阪地裁が沖縄 戦の体験者の証言を引用した大江氏の著書には「合理的資料もしくは根拠があると評価で きる」として原告主張を棄却し、岩波書店と大江氏の全面勝訴に終わった。これを踏まえ て文部科学省は沖縄戦に関する記述の訂正を承認し、結局「日本軍の強制」に関する記述 が復活することになった。文部科学省は訂正に際して、「もとより歴史教科書の検定は、国 が特定の歴史認識や歴史事実等を確定するという立場に立って行うものではなく、申請の あった教科書の具体の記述について、その時点における客観的な学問的成果や適切な資料 等に照らして、欠陥を指摘することを基本として実施するもの」であり、「今回の訂正申請 への対応についてもこの考え方に基づき実施されたものである」との大臣談話を発表した117。 しかし、この出来事が教科書検定に対する一般国民の信頼を損なったことは間違いなく、

文部科学省は教科書の検定過程の一部を事後的に公開することや、教科書に盛り込む内容 の制限を外す方向で検定の見直しを進めている所である。 

第2項 ヒロシマ・ナガサキをめぐる表象の時系列変化

以上のように社会科・歴史教科書の表象をめぐっては、検定を通じて国家による様々な 制約が課されている状況だが、ヒロシマ・ナガサキをめぐる表象はどのような状況に置かれ てきたのだろうか。以下に、序章第 4 節で述べた調査方法に基づいて、戦後の社会科・歴 史の検定教科書におけるヒロシマ・ナガサキとアジア・太平洋戦争の表象のあり方を検討し ていく。なお、これらの分析のベースとなる教科書記述分析資料の一例として、巻末に「資 料1:東京書籍『中学校 新しい社会 歴史』におけるアジア・太平洋戦争の記述」を添付し たので、併せて参照されたい。 

原爆投下をめぐる記述に関しては、検定教科書制度の開始以後、一貫して「原爆投下が

114 近隣諸国条項制定後の 1986 年に、高校教科書『新編日本史』(原書房)が内閣本審査を通過した後に、中韓両国 から「内容が不快」との抗議を受け、文部省が数回に渡り修正を指示したことがある。また、1991 年に元慰安婦の韓 国人女性が日本政府に補償を求めて裁判を起こしたが、93 年の「慰安婦施設への軍の関与はあった」と認める河野談 話を受ける形で、それまで削除されてきた慰安婦に関する記述が翌 94 年には高校歴史教科書全 7 社 7 冊で検定を通過 した。 

115 「新しい歴史教科書をつくる会」は、第二次大戦後の歴史学会で主流であった歴史観を、「自国の歴史の負の部分 を殊更強調し、正の部分を過小評価する」と考え、これを自虐史観と呼んで批判している。 

116 例えば、「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。」という原文は、「そ のなかには日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた。」と修正させられた。 

117 文部科学省(2008)「高等学校日本史教科書に関する訂正申請について(沖縄戦関係)[文部科学大臣談話]」参照。 

ポツダム宣言受諾の直接的原因のひとつになったこと」、「人類史上初の原子爆弾によって 未曾有の被害がもたらされたこと」の 2 つが中心となっており、この点はほぼ変化してい ない。例えば、下記に示すのは小中高の各教科書における典型的な記述例である。 

 

これに続いてアメリカは、八月六日広島に、九日には長崎にも、原子ばくだんを落と しました。いっぽう、ソ連軍も満州へせめこんできました。日本は、南からも北から もこうげきを受け、原子ばくだんを落とされ、ついに戦う力をなくして、日本のこう ふくを要求したポツダム宣言を受け入れました。

(小学校:東京書籍『新しい社会6下』1980年発行、p.42より)

  アメリカは、原子爆弾を 8 月 6 日広島に、9 日長崎に投下しました。その間、ソ連も日 ソ中立条約を破って参戦し、満州・朝鮮に侵攻してきました。こうしたなかで日本は、

8 月 14 日、ポツダム宣言を受け入れて降伏することを決定し、15 日、天皇は、降伏を ラジオ放送で国民に知らせました。(本文) 

投下から数年以内に、広島市では約 20 万人以上、長崎市では約 14 万以上の人々の生 命がうばわれたと推定されています。(脚注説明) 

(中学校:東京書籍『新編  新しい社会  歴史』2006 年発行、p.195 より) 

  日本政府が対応に苦しんでいる間に、アメリカは 8 月 6 日広島に、ついで 9 日長崎に 原子爆弾を投下し、また 8 月 8 日、ソ連はまだ有効期限内にあった日ソ中立条約を無 視して宣戦し、満州・朝鮮に侵入した。ついに政府と軍首脳部の会議は、天皇の裁断 によりポツダム宣言の受諾を決定した。(本文) 

原爆は市の中央部にある産業奨励館の上空に投下され、約 20 万人以上の市民の生命が うばわれ、また多くの人が原爆後遺症で苦しめられている。ついで被爆した長崎でも 死者 7 万人余と推定されている。(原爆ドーム写真に添えられた説明文) 

(高校:山川出版社『詳細日本史』1983 年発行、p.330 より) 

  検証したほぼ全ての教科書において、「原爆投下」と「ソ連による侵攻」が直接的原因と なってポツダム宣言を受諾・降伏した所で第二次世界大戦の章が幕を閉じ、戦後復興の章 へ続くという展開になっている。また、大半の教科書には原爆投下直後の広島爆心地付近 の写真が掲載されており、写真説明または脚注で具体的な被害規模について補足している。 

このように原爆投下という出来事そのものに関する記述にはほとんど変化が見られらな いのに対し、語りの語調、文脈や補足内容(戦後の核関連記述も含む)に関しては時代の 流れの中で以下のような変化を見出すことができる。 

第一に、戦後初期には被害を感情的な面で強調するような記述が見られたが、60 年代半 ば以降はこうした記述は排除され、淡々と事実を記載する記述に変わっている。例えば、

ドキュメント内 2000年度 (ページ 41-49)