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文学の中のヒロシマ・ナガサキ

ドキュメント内 2000年度 (ページ 125-139)

第 5 章 マスカルチャーにおけるヒロシマ・ナガサキの表象

第 1 節 文学の中のヒロシマ・ナガサキ

  本節では、1945年から2007年までの期間を大きく5つの時期に分けて、それぞれの時期 に文学作品においてヒロシマ・ナガサキがどのように表象されてきたかを検討する。

5つの時期とその特徴は下記のように区分される。

第一期(占領期):被爆者の記録文学としての創生期

第二期(1953〜1960年代半ば):原爆体験の客観化、新たな主題の萌芽期 第三期(1960年代後半〜1980年末):原爆文学から核文学への発展期 第四期(1990年代):核文学の停滞期

第五期(2000〜現在):新世代による普遍化への新たな取組み期

以下に、各時期の詳細を検討していく。

第1項 第一期(占領期):被爆者の記録文学としての創生期

原爆投下直後から占領が終了するまでのこの時期においては、占領下におけるいわゆる プレスコード341によって表現への厳しい制約が課されており、なかでも原爆に関するもの は「占領軍に対し不信や怨念を招くような事項」342の最たるものとして厳しく取り締まら れた。しかし、このような制約の中でも、原爆をテーマとした作品は着実に生み出され、

検閲の網の目をかいくぐって発表されていたのである。その最も初期の作品として知られ るのが、栗原貞子の詩「生ましめん哉−原子爆弾秘話−」343が納められた詩歌集『黒い卵』

(1946年)、正田篠枝の詩集『さんげ』(1947年)であり、原民喜の短編『夏の花』(『三田 文学』初出、1947 年)や阿川弘之の『八月六日』(『新潮』初出、1947 年)、大田洋子の小 説『屍の街』(1948年)344であろう。これらの作品に共通するのは、原爆投下や投下直後の

341 GHQは占領政策の一環として、1945 年 9 月 19 日に報道管制、いわゆるプレスコードを発令した。 

342 プレスコードの第 4 項に「占領軍に対し、破壊的な批判を加えたり、同軍に対し不信や怨念を招くような事項を掲 載してはならない」とある。 

343 詩「生ましめん哉」は 1946 年 3 月の雑誌『中国文化』創刊号初出。 

344 1948 年の中央公論社版は検閲により一部削除を命じられたものであるが、その後 1950 年に冬芽書房から完本が再

広島を自身で直接体験した職業作家が、「この体験を何としても書きとめなければ」という 強い使命感にかられて書いた作品だという点である345。これらに続いて、峠三吉が「へい わをかえせ」で知られる『原爆詩集』(1951 年)、長田新が被爆した少年少女の作文集『原 爆の子−広島の少年少女のうったえ』(1951 年)を上梓し、多くの人々の共感を呼んだ346。 また、被爆者の治療にあたった一人の医師蜂谷道彦が1950〜52年にかけて『逓信医学』に 連載した『ヒロシマ日記』347も反響を呼んだ。これら全ては広島から発せられた文学作品 であり、その内容は総じて「被爆者としての自分」を主題とした「あの日の出来事」の記 録文学であり、ノンフィクション的色合いが濃かった。必然的に、作品の中に呈示された 記憶は圧倒的に被害の記憶が中心であり、やり場のない怒りや悲しみ、投下国アメリカや このような事態に至るまで敗戦を決意しなかった日本国軍部への抗義の感情を吐露する私 小説的な作品に偏っていた。

これに対して、この時期にほぼ唯一長崎から声を発したと言ってよいであろう永井隆の 作品は随分趣きが異なっていた348。永井の作品の中でも『長崎の鐘』(1949年)349は、占領 期に発表された作品の中で最も広く読まれた作品のひとつと考えることができる。永井作 品には二つの特徴を指摘できるが、これはどちらも永井隆という人物の背景と強く結びつ いたものである。ひとつには、永井が長崎医科大学で教鞭を取る放射線医学の専門家であ ったことと関連する特徴である350。すなわち、多くの人々が自分たちの身にふりかかった ものの正体がわからず、「ピカドン」と呼んで畏れ惑う中にあって、いち早くこの爆弾の正 体を見抜き、時にはこの場にはやや不釣合いとも思える専門家としての強い関心を示しな がら、客観的な考察を加える点である351。下記にその例をあげる。

かねて原子物理学に興味をもち、その一部面の研究に従っていた私たち数名の教室員 が、今ここにその原子物理学の学理の結晶たる原子爆弾の被害者となって防空壕の中 に倒れておるということ、身をもってその実験台上に乗せられて親しくその状態を観 測し得たということ、そして今後の変化を観察し続けるということは、まことに稀有

刊され、翌年河出文庫に収められた。 

345 大田は『屍の街』の中で道端の死骸を見ていることを妹にとがめられて以下のように会話している。「私は作家よ。

人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見てゐるの」「書けますか、こんなこと」「いつかは書かなくてはならないね。こ れを見た作家の責任だもの」(中央公論社版『屍の街』p.74 参照)。 

346 『原爆詩集』青木文庫版巻末に収められた中野重治の解説によれば、峠の詩は 1951 年の広島平和大会にささげら れ、更には同年のベルリン平和大会へと送られ、平和を求める日本人の意志と感情を反映する代表的な文学作品とし て多くの人をとらえたとされる。 

347 1955 年に朝日新聞社から単行本として発行され、同年“Hirosima Diary”として英語版も米ノース・カロライナ大 学出版局から出版された。更にその後、独・仏・伊等十数ヶ国語に翻訳され世界に紹介された。 

348 長岡は長崎における文学・記録作品が広島と比してかなり少ない原因として、地方的性格の特殊性、文学環境の差 異、平和運動の微弱さ等々を挙げており、長崎では朝鮮戦争下、ビキニ被災から原水禁大会時においても状況はほぼ 変わらなかったと考察している。長岡(1973)pp.32-33 参照。 

349 本作品は永井が『長崎医大原子爆弾救護報告』を骨子として 1946 年 8 月に書き上げた最も初期の作品である。し かし、GHQの検閲が厳しく、公刊されたのは脱稿の 3 年後にあたる 1949 年であり、しかもGHQ諜報課提供のマニラにお ける日本軍の極悪非道行為を暴いたドキュメント「マニラの悲劇」と抱き合わせという形での出版許可であった。こ の作品はベストセラー(7 万部)となり、同年松竹により映画化された。 

350 当時永井は長崎医科大学物理療法科助教授(原子物理学者)の役職にあった。 

351『長崎の鐘』pp.71-86 にかけて放射線科の同僚の医師たちと原爆開発についてあれこれ詳しく語り合うシーンが十 数ページに渡って展開されている。 

のことでなければならぬ。私たちはやられたという悲嘆、憤慨、無念の胸の底から、

新たなる真理探究の本能が胎動を始めたのを覚えた。勃然として新鮮なる興味が荒涼 たる原子野に湧き上がる。

(永井隆『長崎の鐘』、pp.85-86より)

そしてもうひとつには、永井が敬虔なカトリック教徒であったことから来る特徴である。

永井は以下のように述べている。

原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝 をささげねばならぬ。(中略)終戦と浦上壊滅との間に深い関係がありはしないか。世 界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ 燃やさるべき潔い 恙こひつじとして選ばれたのではないでしょうか?

(永井隆『長崎の鐘』pp.143-145より)

先に述べたように、原爆投下直後の長崎において声をあげた文学者が数の上では広島よ り圧倒的に少なく、永井の作品が長崎を代表する声のように捉えられたこともあり、こう した永井の「浦上燔祭説」は後に「広島の怒り、長崎の寛容」または「怒りのヒロシマ、

祈りのナガサキ」と呼ばれる根拠を提供し、また長崎の内部では被爆者の怒りや悲しみに 蓋をするものとしての批判を呼ぶ結果となった。

第2項 第二期(1953−1960年代半ば):原爆体験の客観化と新たな主題の萌芽期

  占領政策が終結すると、それまでプレスコードによって押さえつけられていた表現の自 由への渇望が一気に噴出した。折しも前年の1952年には、写真誌『アサヒグラフ』が「原 爆被害の初公開」という特集を組んで被害の実相が初めて国民に広く知られることとなり

352、大きな衝撃を与えていた。更に、1954 年にビキニ水爆実験と第五福竜丸被災事件が起 き、これに端を発した原水爆禁止運動が国民的な盛り上がりを見せると、文学の分野にお いても原爆を主題とした作品において新たな展開が見られるようになった。すなわち、第 一期には直接被爆を体験した作家によるノンフィクション記録文学が中心であったが、次 第に直接被爆を体験していない作家が、広島・長崎との何かしらの縁をきっかけに原爆を テーマとして取り上げた文学作品を発表するようになっていった。そして、その内容は記 録小説的色彩の濃いものから徐々に離れ、事実に基づきながらも文学としての創作性を備 えたものとなり、新たな主題を呈示するものへと拡がりを見せ始めたのである。

その最も先駆的な存在の一人は、阿川弘之であろう。阿川は原爆投下時には中国に出征 しており当地で敗戦を迎えたが、郷里は広島であり、恩師や恋人を原爆によって失った。

352 「原爆被害の初公開」は『アサヒグラフ』1952 年 8 月 6 日号に 23 ページに渡って特集されたもので、重版も含め て本誌は 70 万部を売り上げた。 

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