第 5 章 マスカルチャーにおけるヒロシマ・ナガサキの表象
第 2 節 映画の中のヒロシマ・ナガサキ
本節では、1945年から2008年までの期間を大きく5つの時期に分けて、それぞれの時期 に日本で公開された映画作品において、ヒロシマ・ナガサキがどのように表象されてきた かを検討する。5つの時期とその特徴は下記のように区分する。
第一期(占領期):哀歌調の原爆映画
第二期(1953〜1950年代末):政治化される原爆映画とゴジラ 第三期(1960年代〜70年代):全面核戦争の恐怖への世界的関心 第四期(1980年代):原爆映画の大衆普及とステレオタイプ化 第五期(1990年代〜現在):冷戦終結と新たな核問題への接近の試み
なお、映画は劇場公開された作品を中心に取り上げるが、自主上映で反響を呼んだ作品
370 文藝春秋ウェブサイト、「本の話」より、田口ランディ<ロング・インタビュー>「広島、長崎、チェルノブイリ
−被爆マリア像が見つめる現代の闇」<http://www.bunshun.co.jp/pickup/randy/>参照。
371 同作品は、第 18 回伊藤整文学賞、第 43 回谷崎潤一郎賞を受賞した。
372 文藝春秋ウェブサイト、「本の話」より、青来有一<自著を語る><http://www.bunsyun.co.jp/jicho/hibaku60/>
参照。
も一部含める。アニメーション映画に関しては第 3 節で詳しく取り上げる為、本節では必 要において触れる程度にとどめた373。
第1項 第一期(占領期):哀歌調の原爆映画
占領下における当局の映画検閲は、民間情報教育局(CIE)と民間検閲支援隊(CCD)に よって行われていた。CIEは、あらすじ、脚本、完成フィルムの各段階ですべての映画を13 項目からなる映画コードに照らし合わせて審査し、「上映許可」、「一部を削除して上映許可」、
「上映禁止」という判断を下した。当局は、連合軍が引き起こした惨禍を描写することは 一切許さなかったが、なかでもとりわけ原爆の描写には敏感に反応した。日本で最も早い 時期に撮影された原爆映画は、日本映画社(日映)によるドキュメンタリーフィルムであった が、この計画に気づいた当局は直ちにに撮影中止を命じた。しかし、折しもアメリカ戦略 爆撃調査団(USSBS)が同様の調査を計画中であった為、日映の撮影フィルムが貴重な資 料になると考えた当局は、日映に撮影を継続させた。この映画の英語版は、1946 年4月に The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasakiというタイトルを付けられて完成し たが、当局がこれを没収してしまった為、このドキュメンタリー映画は日本人に一般公開 されることなく終わったのである374。この後もヒロシマ・ナガサキを描こうとした映画企 画の多くが検閲によって没となるかあるいは骨抜きにされたのであり、結局国民に一般公 開された最初の原爆映画となったのは、永井隆の同名作品を映画化した『長崎の鐘』(大庭 秀雄監督作品、1950年)であった。『長崎の鐘』はCIEによって2回のあらすじ書き直しや 予告編差し替えなどを命じられており、完成作品の中で原爆投下を具体的に見せた場面は、
疎開先から長崎上空に浮かぶキノコ雲の絵のみであった。主人公の妻が直爆によって死ぬ 場面や、原爆の犠牲者を主人公が救う場面、また軍事目標以外に原爆が投下されたことを 想像させるようなカットはすべて削除されていた。結果として、『長崎の鐘』は主人公と妻 の愛情溢れる関係、カトリック教徒で良心的かつひたむきな科学者としての主人公を描き 出すことに焦点が当てられることになったのである。
1952年には、長田新の同名小説の映画化である『原爆の子』(新藤兼人監督作品)、『長崎 の歌は忘れじ』(田坂具隆監督作品)、『カルメン純情す』(木下恵介監督作品)等の作品が 公開された。新藤兼人は広島出身であり、今日に至るまでライフワークとして原爆をテー マとする作品に取り組んできた監督である。『原爆の子』は新藤が原爆反対という立場を掲 げた最初の作品であったと言える。『原爆の子』は日本教職員組合(日教組)の委託を受け て製作されたものであったが、日教組からは手ぬるい「お涙頂戴もの」との批判を受けた。
373 2007/6/2〜9 の日程で、明治大学リバティタワーにおいて「被爆者の声をうけつぐ映画祭」が開催された。この準 備にあたった野田耕造、日本記録映画作家協会事務局長は、2007 年までに日本で製作された原爆被爆関連映画作品の 数は劇映画 43 作品、ドキュメンタリー83 作品、アニメーション 27 作品、計 153 作品であると推計している。
374 1967 年にこの日本語版映画『広島・長崎における原子爆弾の効果』は米政府から日本政府に返還されたが、文部 省はこの映画の完全版の公開を拒絶した。その後、1980 年代初頭に日本の市民団体が行った「原爆記録映画 10 フィ ート運動」によって集まった寄附金で、アメリカ国立公文書館から日映のフィルムと、USSBS撮影のフィルム等合計 12 万フィートのフィルムが購入された。なお、この映画をコロンビア大学のエリック・バーナウ教授が編集し直した
“Hiroshima-Nagasaki:August 1945”は全米で広く公開された。
一方、『長崎の歌は忘れじ』は原爆で盲目になった美しい女性が、戦場で拾った楽譜を遺族 のもとへ届けようと訪ねてくる米国人青年と語り合ううちに、米国への憎しみを捨てるよ うになるという物語である。映画評論家の佐藤忠男によれば、「原爆のことについては、要 するに怨みを忘れることがだいいちだ、という趣旨」の作品で、「批評家や観客からは、ダ 作としてまるで問題にされなかった」が、一方で「自分達の売った闘いで、ひどい目にあ っても、誰に文句を言う筋合いがあるだろうか」という態度を表明している点において、「戦 後の日本の政府が一貫してとってきた、原水爆についての態度をいちばん正確に反映した 作品である」と考察している375。『カルメン純情す』は、原爆で息子を亡くした年輩の女性 が、その後に起こることを何もかも原爆のせいにするという風刺的色合いの強い映画であ る。
これらの初期作品群に共通する姿勢を、映画評論家のドナルド・リチーは「哀歌調」と 表現した376。リチーは、台風や地震にしばしば襲われる国に住む日本人は、大きな被害を
「不可抗力(Act of God)」と捉える傾向が強く、加えて「浮き世における万物の移ろいや すさ」を儚む気持ちとしての仏教的観念である「もののあはれ」を引き合いに出し、これ らを日本人の死や災害に対する真に日本的な姿勢であると考察した。原爆映画には、もの のあはれの価値観がそのままはめ込まれたのであり、このような「哀歌調」の姿勢は戦後 初期の原爆映画のほぼ全てに通底していると考えたのである。
第2項 第二期(1953−1950年代末):政治化される原爆映画とゴジラ
1950 年に朝鮮戦争が始まると、在日米軍とその基地が戦争遂行の為に利用される一方、
米軍が朝鮮に移動した後の軍事的空白を埋めるために、GHQ の指令で警察予備隊が新設さ れた。1951 年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印されると、日本が西 側陣営の一員として極東の安全に寄与する為の再軍備化が本格的に動き出したのである。
しかし、1952 年に占領が終結するとこうした動きに対する積極的な反対運動が見られるよ うになり、映画においても本格的な反戦映画が作られるようになった。こうした流れの中 で、戦後初期の哀歌調のみのものとは違うメッセージや姿勢を表明した原爆映画も製作さ れるようになったのである。
1953年に、『原爆の子』の出来に不満を感じていた日教組の肝煎りで製作されたのが、『ひ ろしま』(関川秀雄監督作品)である。『ひろしま』はニュース映画のフィルムを継ぎ接ぎ して原爆投下後の惨状を再現しようとしたドキュメンタリー調のドラマであり、第一期の ものと比較するとより客観的、報道記録的な印象を与える作品であった。また、終盤で原 爆孤児が瀬戸内海の島に埋められた被災者の頭蓋骨をアメリカ人に売りつけるシーンが描 かれており、これはアメリカに対する抗議の表明であったと見ることができる。
更に、1954 年のビキニ水爆実験と第五福竜丸被災事件が契機となって、原水爆禁止運動
375 引用はすべて、佐藤(1960)、P.31 より。
376 ドナルド・リチーの論文、「『もののあはれ』−映画の中のヒロシマ」(1961)参照。ブロデリック(1999)、pp.28-47 収録。
が盛り上がると、反核は映画にとっても緊急のテーマとして関心を集めることとなる。し かし同時に、冷戦や原水禁運動の分裂といった時代環境の中で、ヒロシマ・ナガサキを真 正面から取り扱う映画は政治的解釈から逃れることが出来なくなっていったのである。
この時期に真正面から原爆映画に取り組んだ代表的な監督としては、亀井文夫、新藤兼 人、今井正の3人をあげることができる。亀井文夫は、『生きていてよかった』(1956年)、
『世界は恐怖する』(1957 年)、『ヒロシマの声』(1959 年)と立て続けに作品を発表する。
『生きていてよかった』は原水協の賛助による記録映画であり、戦後10年目の原爆被災者 がどのような悲惨な状況に置かれているかを世に知らしめようとする作品であったし、『世 界は恐怖する』は原爆被災者に生まれた奇形児や動物実験等のショッキングな映像をコラ ージュして、「死の灰」の恐怖を追求しようとするものであった。新藤兼人は、『第五福竜 丸』(1959)において、久保山愛吉氏を主人公に、一つの生命がうしなわれてゆくまでの過 程を客観的に描き出そうと試みた。この作品は、『原爆の子』が「お涙頂戴もの」と批判さ れたことに対する新藤のひとつの答えであったのかもしれない。一方、今井正は『純愛物 語』(1957年)で原爆症に苦しむ少女の恋愛の悲劇を描いた。亀井、新藤、今井、そして『ひ ろしま』を撮った関川に共通するのは、彼らが全て共産主義者であったという点である。
共産主義者が製作したからと言って、これら全ての映画に政治的メッセージが込められて いたわけではないだろうが、レッド=パージ377の記憶も新しく、革新勢力への締め付けが 厳しいという時代環境の中で、映画興行上は大きな制約をもたらすことになった。すなわ ち、占領軍による検閲が終結した後も、政府による革新勢力に対する表現への圧力は事実 上存続していたのであり、余計な干渉を受けることなく興行を成功させたいと望む大手映 画会社は、このような「政治色の濃い」映画を製作・配給することを敬遠した。その結果、
こうした反戦・反核映画のほとんどは小規模な独立プロによる製作を余儀なくされたので あり、配給も小規模に止まった為、広く一般に見られる映画とはならなかったのである。
これに対して、今日においても最も広く人口に膾炙した原爆映画と呼べる作品が同じ時 期に登場したのは対照的である。それは、日本初のSF特撮映画と言われる『ゴジラ』(1954 年、本多猪四郎監督作品)である。『ゴジラ』はその後シリーズ化する中で路線変更を行い、
今日では子ども向けの怪獣映画と考えられているが、第一作は明らかに1954年のビキニ水 爆実験を契機として誕生したメッセージ性の濃い作品であった。ゴジラは水爆実験によっ て太古の眠りから目覚めた地底怪獣と設定される。その強力な武器は、口から発する青白 いその名も「アトミック・ブレス」である。この武器によって人々を襲うゴジラは、結局 ある日本人科学者が、自身の発明した「オキシジェンデストロイヤー」と共に突っ込むこ とによって破滅する378。『ゴジラ』は大手映画会社の東宝によって配給されたSF特撮映画と
377 朝鮮戦争勃発を契機としてGHQが日本共産党幹部の公職追放を指令すると、マスコミ・官公庁・民間企業において 共産党員やその支持者の職場追放が進められた。これをレッド=パージと呼ぶ。
378 1987 年のチョン・A・ノリエガによる論文「ゴジラと日本の悪夢−転移が投射に変る時」の中で、ノリエガは『ゴ ジラ』の前年に米国で公開された映画『原子怪獣現わる』においては、原子怪獣を退治する為に核ミサイルを打ち込 んでいた点に着目している。すなわちここには「核兵器が作り出す問題と不安は、核兵器そのものによって解決できる」
というメッセージが明快に表れていると考察しているのであり、『ゴジラ』では最新の科学技術(オキシジェンデスト