第二章 日中国交正常化以降の中国における日本語教育と日本人教師
第一節 1970 年代~ 90 年代の中国における日本語教育
3.2 第二次日本語ブームの到来( 1978 年から)
表2-2 大学の外国語専攻に在籍している学生数(1983) 英語 ロ シ
ア語
ド イ ツ 語
フ ラ ン ス 語
日本語 ス ペ イ ン 語
ア ラ ビ ア 語
その他 合計
22211 1348 1268 1613 3591 117 34 213 30395
出所:付克《中国外语教育史》上海外语教育出版社,1986年、94页。
1978 年に日中友好平和条約が調印され、日中交流がさらに進むこととなった。
同年に開かれた全国外国語教育座談会以後、中国の外国語教育も全面的に発展し てきた。表2-2及び表2-3 に示したように、英語は第一外国語で、学習者数は圧 倒的に多かった。日本語は英語に次ぐ第二外国語としての地位を保っていた。中
180 前掲、「文化大革命時期の中国の大学における日本語教育と学習法」、89頁。
181 平林美鶴『北京の嵐に生きる』、悠思社、146頁。
182 付克《中国外语教育史》上海外语教育出版社,1986年,85~86页。
67 国において、第二次日本語ブームが到来した。
表2-3 師範大学の外国語学部に在籍している学生数(1983年)
英語 ロ シ ア語
ド イ ツ 語
フ ラ ン ス 語
日本語 ス ペ イ ン 語
ア ラ ビ ア 語
その他 合計
27960 801 57 45 588 0 0 0 29451
出所:付克《中国外语教育史》上海外语教育出版社,1986年。94页。
1980年には、国家教育委員会の指導のもとに、「中国日語教学研究会」の準備委 員会が発足した。全国の日本語教育に携わっているものが集まり、中国における 日本語教育に関する教学・研究活動を推進していこうとするものである。1988年、
「中国日語教学研究会」は中国における日本語教育の現状についてアンケート調 査を行っている。
表2-4 中国における日本語教育の現状についてのアンケート調査の結果
1983年 1988年
学校数(四年制の大学本科と 三年制の高等専門学校)
52校 61校
教師数 873名 1089名
学生数 4179名 5269名
出所:王宏「中国における日本語教育概観」『講座日本語と日本語教育』第 16 巻『日本語教育の現状と課題』平成3 年10月30日、31~48頁。33頁。
表 2-4 に示したように、日本語科のある大学は、中国の大学総数 1063 校の 6% にあたる。日本語科を開設しているのは、外国語学院・高等専門学校の日本語科、
総合大学・師範大学外文系の日本語・日本文学学科などであった。そして、その 半数近くの学校が、北京・天津および東北三省(遼寧・吉林・黒龍江)に偏在し ていた。中国人日本語教師は 1089 名で、ほかに日本人教師が 93 名以上いた 183。 1986年11月に全国大学外国語専攻教材編纂審査委員会日本語教材編纂審査組が洛 陽で日本語専攻基礎段階教学大綱研訂組を組織した。2年半にわたって大綱の原文 を書きあげ、音声、文字、語彙、文法、基本文型という6つの付録を制定した。
中国における日本語専攻教育は次第に明確な教育方針になってきた。
大学における日本語科の発展だけでなく、全社会において、日本語学習の情熱
183 王宏「中国における日本語教育概観」『講座日本語と日本語教育』第 16 巻『日本 語教育の現状と課題』平成3年10月30日、31~48頁、32頁。
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が高まってきた。1984年10月、中国中央テレビは日本語テレビ講座「日本語を習 おう(学日语)」を放送し始めた。テレビ講座のテキストは250万冊印刷されたほ ど人気があった。NHK 国際放送「やさしい日本語」の 1985 年版テキストが 100 万冊中国に配布されても、「中国の大都市ではそのテキストは品不足で入手が困難 であり、複製版も出回っているようである」184。業余日本語学校は1979年以降に 開設されたものが多く、王宏は1990年の調査に基づいて、控え目な推定でも、全 国200校以上、専任教師 300人、学生 4万人であったと述べている 185。学習目的 は「両国の経済交流・人的交流の進展、日本からの観光客の増加にともなって、
渉外関係者・サービス業従業者の日本語会話学習熱が高まった。職級制が復活し た1978年ごろからは、昇進のための検定試験を目指して、基礎日本語や日文中訳 を勉強する人が一時期どっと増えた。続いて1984年頃から、中日両国の出入国規 制の緩和に伴い、私費留学生(就学生)のための速成コース・留学生活会話を特 徴とする学習者群が現れたが、1988年をピークに」186減少していった。椎名和男 は当時の中国における日本語ブームの様子について、次のように述べている。
1979 年 7 月、私はホテルの服務員が、銀行員が、工場技術者が日本語 の教科書を声に出して読んでいる姿を何度目撃したことか。各職場単位で も学習班が組織され、また業余大学、夜間大学に学ぶ人は多い。大連の夜 間大学は千四百の学生を擁し、テキストは大連外国語学院と同じものを使 用、最終試験に合格すれば、学院卒と同等の資格を与えられる。
1979 年には上海外国語学院付属中学で二クラス四十人の日本語クラス の募集をしたところ、二千人の応募者があり、国語、数学、外国語の試験 で平均90 点以上の生徒のみ合格させたとのことであった。吉林師範大学 付属中学校では、実験的ではあるが、数学について日本語を使って教えて おり、和・差・積・商とか平方根と立方とか、これらのことばをきいてい ると、タイム・マシンに入れられたような感じさえ受ける授業であった。
さらに、大学では日本語を選考する学科だけでなく、医科大学、工業大 学、農科大学などでも、日本語を第一外国語として教えているが、四つの 現代化の一方策として、特に、日本語による医学コースが設けられた例も ある。これは吉林省延辺医学院で、教育部と衛生部の指示により昨年 9 月から医学日本語科が設けられ、一学年からは日本語で医学専門科目を受 講する。このようにみてくると、中国における日本語学習は実用性一辺倒 の感がある。が、一面、北京大学での日本文学、日本語学研究、吉林大学
184 佐治圭三「付論6中国における日本語教育」シィー・ディー・アイ(編)『日本語 教育および日本語普及活動の現状と課題』総合研究開発機構、1985年、569~624頁、
582頁。
185 前掲「1990年中国日本語教育アンケート調査結果報告」、197頁。
186 前掲「中国における日本語教育概観」、44頁。
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での日本経済研究なども見逃してはならないであろう 187。
その当時、日本語が人気になった理由について、久保田優子・権藤与志夫は次 の三つにまとめている。
第一に、就職に役立つということ。日中国交回復後、日本企業や日中合 弁企業が増加した。日系企業の社員の給与は、普通の中国企業の労働者の 二、三倍と高く、特に、通訳は四,五倍の高給が与えられた。
第二に、日本人の観光客の急増である。中国への観光客は、華僑を除け ば、日本人が最も多く、日本語のできる観光ガイドや通訳に対する需要が 非常に多い。通訳は外国人へのサービス業務であるため、給料の他に、各 種の手当がつき、それが給料の数倍にもなった。
第三に、中国では二、三年前から自営業が認可され、日本人観光客相手 の料理店、土産店、バー、喫茶店などの自営業が激増しており、それだけ 日本語の需要が高まっていたのである 188。
大連外国語学院を例としてみよう。80年代の大連外国語学院は60年代の大連日 語専科学院を基にして、英語・フランス語などを含めて、総合的な外国語学院に なった。そういう歴史的背景があったとしても、日本語科は依然として最大の学 科である。当時、世界最大の日本語教育機関でもあった。
学科は昼・夜間の二部制を取り、昼間部は四学年合計では約 440 人であった。
これに中国全土からの研修生を合わせると、実に 500 人の多きに達した。夜間部 は260人いた。教師は 150人で、そのうち、日本人教師は20人であった。日本語 教育の目的は「専門学校や中等学校の教師を養成すると同時に、聞くことおよび 話すことを重視し、通訳の養成にも力を入れる」ことにあった。そのために日本 語会話能力の習得を重視し、授業は日本語の環境、つまり「小さい日本」をつく ることによって、外国における日本語学習の効果をあげるために、最初からすべ て日本語で行われていた。徹底した口頭反復練習のようすは「まるでスポーツで の特訓のようだ」と言われた。さらに、企業実習が四年間に一回持たれ、1~3 カ 月の日程で旅行社、日本企業、合弁企業、貿易関係機関などで行われていた。
学生は全寮制で、授業を含めて生活時間が細かく決められており、厳しい学生 生活を送っている。当時の大学進学率はとても低かったから、中国の高等教育は まだエリート教育であり、大学生はいろいろな面で優遇された。授業料や寮費は
187 椎名和男「いま、全中国あげて日本語熱――急がれる教員養成と不足する教材」『月 刊教育の森』5(2)、1980年2月、48~51頁、49頁。
188 久保田優子・権藤与志夫「近隣諸国の日本語教育をみる――その 1・中国」『教職 研修』、1987.5、120~123頁。121頁。
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国が全て負担し、学生は食事代や図書購入費のみを納入すればよかった。
日本語科からの卒業生の就職率は100%であった。配属先も社会主義の計画経済 の時代と同じように、先生や管理部門の担当者によって決定された。就職先の中 で一番人気のあるところは外務省を始めとして、中央省・庁等の政府機関であっ た。その次は合弁会社や旅行社の通訳である。
80 年代中期から「統一分配」制も弛んできたために、卒業生の就職希望の傾向 としては、経済志向、中心都市志向が顕著になってきた。収入がよく、出国する 機会の多い渉外機関、国際貿易、外国企業、合弁企業、沿海の経済開発区志望が 卒業生全体の三分の二にまで増加した。これに対して、「大学院入学や教職志望が とみに減退した。(中略)就職も国の配属制から、面接を通して、求人側と学生が 互いに選別・選択する方向に持っていっている」189。
第二次の日本語学習ブームの下で、中国における日本語教育は飛躍的に発展し ていった。同時に、改革開放したばかりの中国は、転換期を迎えていた。教育に おいても、改革をしながら新たな問題点に直面していかなければならなかった。
第一に、同時期にはじまった日本留学熱と、国家による就職の「統一分配」制 も弛んできたために起こった既成教員の流失と新規補充の減少、特に教員流失の 問題が深刻であった。王宏の 1990 年の調査によると、「出国して期限どおり帰国 しない者が多いためと、一度に定年退職者が出たため、教師数が 2 割ほど減少し た」190。また、日本語教師へ新しい要求が出された。社会の変化に対応したより 系統的で、専門的な教育を身に付けなければならなかった。他方、日本語教師の 資格制度はまだ設立されていなかったし、養成機関も少なかったし、日本語教師 の研修も重要な課題になっていた。1978年と1979年に国際交流基金と中国教育部 によって開催された日本語教育研修会に参加する教師は年齢からみれば、20 代と 50 代が多かった。20 代の教師は 60 年代後半に大学の日本語科を卒業した人たち である。50代は戦前の日本や台湾、東北地方で日本語を身に付けた人たちである。
30代と 40 代にはロシア語教師から転身した人たちがいた 191。そのため、日本語 教師の資質の均質化と向上が急がれ、日本語教師の養成は日本側の協力を求めな ければならなかった。第二節で分析したように、日本から日本語教師を派遣する 事業はそのような背景の下で行われた。
第二に、日本語科を含めて、単なる外国語学科は学生にとって魅力が少なくな り、外国語プラスアルファの学科、例えば日本語プラス国際経済貿易のような学 科に人気が集まり、入学点数も高くなった。また、このような学科の卒業生に対 する求人も殺到していた。一方、師範大学・師範学院は、当時の教師の待遇が悪
189 同上、35頁。
190 前掲「1990年中国日本語教育アンケート調査結果報告」、192頁。
191 前掲「付論6中国における日本語教育」、612~613頁。