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授業と職場における悩みとあつれき

第二章 日中国交正常化以降の中国における日本語教育と日本人教師

第三節 日本人教師の仕事と生活

1. 日本人教師の授業

1.3 授業と職場における悩みとあつれき

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の生活体験にフィクションを加えた」短編小説を書かせた 259

授業はいろいろな困難を克服しなければならなかったが、日本人教師は中国人 学生を異口同音に高く評価している。1978年、中国は10年ぶりに大学入学試験を 再開したが、合学率は極めて低かった。大学に合格する学生は勉強家で、国のエ リートであったと言える。学生は貴重な学習のチャンスを大切し、真面目で真摯 な学習態度で勉強し、欠席はほとんどしなかった。また教師を大事にした。日本 人教師はあまり完璧でない環境下で精励する彼らの姿に感動したものである。し かし、90 年代から中国の自由な市場経済活動が進展するとともに、大学の入学試 験と卒業生の配属制度も大きく変わってきた。高等教育の定員の拡大につれて、

中国の大学教育は大衆教育へと変化しつつある。学生の授業態度にも少しずつ変 化が表れ、一部には無断欠席や無断欠課、授業態度の不良、校外での問題行動が 発生するようになった。日中技能者センターから派遣された小笠原正亮(焦作工 学院1994年8月から1年派遣)はそういう状況について、次のように語っている。

わたしの授業も、始業以来はや 2か月を経過したころから、東北地方出 身の二人の学生が、最初は丁寧な身体的病状をかいた欠席届を提出して、

断続的に授業を休みはじめ、だんだん無届欠席をするようになった。しか も、それがきっかけになって、二人の所属する地質系の友人数人が、明ら かに私を試すかのように、ときどき計画的に怠学的態度や欠席、途中病欠 をするようになった 260

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学と政治の不分立関係の強い中国では、文学の捉え方、作品の鑑賞の仕方、作品 の評価などが違うために、いくぶん指導しにくい面もあった」261。「文学作品の鑑 賞においては、価値観の相違があり、難しい問題がある。社会、国家への貢献、

個人よりも集団ということになり、我々の考え方と必ずしも一致しない。恋愛を 中心にした作品は、程度の差にもよるが、一般に黄色小説といわれ、青少年にと って有害なものとされている。市販されている作品の傾向も、テーマは社会、国 家、集団といった内容が殆どである」262

以上の日中教育の目的・教育理念の違いによる摩擦に対して、竹中憲一は日本 人教師に対して次のようなアドバイスをしている。「赴任されてからまず気を付け たいのは日本語教育のどんなエキスパートであっても大学の中では自分を大学の 一歯車として位置付ける必要があるということだ。熱心であるために自分の教育 方針を押し付け、大学当局と大喧嘩をして帰国した人もいる」263

第二は、中国における外国語教育の実用優先主義である。実用的ではないように 見える課目に対して、学生があまり興味を持っていない。学生が期待している授 業と日本人教師がやる授業との間にズレが生じたこともある。

実用主義的語学学習の姿勢は、日本語の学生のみの姿勢ではない。ある 英語科の外人教師がシェクスピアの作品を講義したところ、学生達は関心 を示さなかったという。日本語の学生が日本の古典に関心を持たないのと 同様の傾向が見られた。つまり、学生達は、生きた外国語すなわち今すぐ 使える外国語に対しては、真剣に学び取ろうとするが、言語活動を一層豊 かにし、幅を待たせるであろう古典には関心を寄せない。要は現時点にお ける日本の技術書や一般書が読め、日本語による言語活動に大きく支障が なければ、問題はないと彼等は考える 264

高く評価された「大平学校」も、同じ問題に直面しなければならなかった。孫 暁英は「大平学校」で働いた日本人教師に対してインタビューを行なった。それ によると、彼らが悩んでいることは中国側の期待と日本教師がやりたいこととの 間にズレがあるという点である。「教え方に興味を持つことはその当時の中国には まだなかった。とにかく、日本語が上手になれば教えられるっていう考え方だ。

261 金井観三郎「日本語の指導にあたって」「第一回中華人民共和国日本語教育派遣団

教育事情報告」『愛媛国文研究』33号、1983年、62~63頁。63頁。金井観三郎は1981 年4月から1983年3月まで上海華東師範大学に勤務した。

262 大塚千代吉「北京第二外国語学院」「第一回中華人民共和国日本語教育派遣団教育

事情報告」『愛媛国文研究』33号、1983年、68~69頁。68頁

263 前掲「ネイティブ・スピーカーとして期待された役割」、17頁。

264 前掲「中国における日本語教育とその周辺」、97頁。

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研修生たちは教授法の先入観を変えることに強い抵抗を示しただけでなく、そう した先入観のせいで、新しい理論を先入観で解釈してしまうこともしばしばあっ た」。

孫暁英によると、以上の摩擦は、「文革の残した中国の『閉鎖的』な体制も、言 語教育に支障を与えていた。また、一方的な詰め込み教育の観念が、まだ根強く 研修生たちを縛り付けていたことが分かる」265

第三には、生の日本語を教えたが、中国社会のことを日本語で表すと、表現が

「日本語らしさ」を失うのは避けられない。大石智良・坂本志げ子は中国の現場 での経験に続いて、「生の日本語の教育」についての次のように述べている。

ことばは、いうまでもなく、それが生きている土壌と無縁に抽象的に存 在するものではない。他の民族のことばで自国の事柄を表現するとき、そ のことばがその民族社会で持つ意味との落差を意識していなければ、かえ って相互理解をゆがめることすら起こりうる 266

また、70、80 年代における日本語教育は、一つは通訳・翻訳者の養成にあり、

もう一つは日本語教員の養成にあった。普通日本人の日常に使われる簡略型の話 し方、すなわち「生の日本語」は逆にやっかいな問題になった。中国の学生が日 本の市民社会のなかで日本語を役立てるために勉強しているのではない以上、日 本人教師は「聞いてわかる必要があるがあなた方は使わない方がよい、と注釈を つけて教えるほかなかった」267。大石智良・坂本志げ子は具体的な人々の呼び方 について、次のような例を挙げている。

「師匠さん」ということばに私たちは悩みつづけた。わたしたちが初めて 黒竜江大学に行った時、何人かの人々が門のところで出迎えてくれた。そ のなかの 1 人の若い女性を、日本語学部の先生が「労働宣伝隊の R 師匠 さんです」と紹介した。その時の違和感!やがて授業を始めると教科書に

「師匠さん」が登場し、学生同士の会話のなかに彼らの尊敬する労働者宣 伝隊の「師匠さん」が頻繁に現れる。私たちはさっそく、今の日本で「師 匠さん」の語が持つ意味を話し、姓に「さん」をつけるだけで充分敬意を 表せる、労働者であることをはっきりさせたければ、「労働者宣伝隊の○

さん」とすればいいと提案した。彼らは私たちの説明で初めて、今の日本 人が主としてどのような人々を「師匠さん」と呼んでいるかを知り、驚い

265 前掲、「戦後日中教育文化交流に関する一考察―大平学校の日本人講師に焦点を当 てて―」、104頁。

266 前掲「中国における日本語教育の体験―黒竜江大学日本語学部‘74~‘76年」、14

頁。

267 同上、20頁。

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たようであった。しかし、かといって「○さん」と「さん」だけで呼ぶこ とにはこだわりがあるようだった。ほかならぬ労働者毛沢東思想宣伝隊の 労働者(教育革命のシンボルとしての特別な存在であった)に、自分たち が互いを呼ぶのに気軽に使っているのと同じ「さん」を付けるだけで呼ぶ のは感情が許さなかったのであろう 268

第三に、授業に関する教材や機器などは学校により、大きな差があったが、全 体的に言っても、まだ、完璧ではなかった。日本人教師は設備不足の困難を克服 しながら、工夫して授業をしていた。例えば、日中技能者の交流センターへの報 告によると、教育上の問題として、一番多いことは、「学校の印刷設備は使えず、

補充教材のプリントは自前である」「パソコン、プリンターは必需品」「教材の印 刷が何人ものサインがなくては印刷までたどり着けないという億劫さが教材作り の意欲を減殺させている。教科書の選択が適切でない。進級しても 2 年間同じ教 科書を使わせたり、校正が不十分で間違いの多い教科書をそのまま使ったり、興 味関心を引きにくい教科書がそのまま使われたりして学生の学習意欲を刺激しに くい現状がある」。牧野篤は自分が勤めていた北京の教育研究所で、その不便さに 悩んでいる。

コピー室に錠がかかり、中にある3台のコピーにもすべて錠がかけてあ り、コピー室の鍵の管理者とコピー機の鍵の管理者とは別人であった。こ のため、付属図書館で資料を検索・借り出して、コピーを取ろうとすると、

どこにいるかはわからないコピー室の管理人とコピー機の管理人の二人 を探さなければならなかった。彼らは勤務時間中、自らの勤務場所にいる ことは稀で、欠勤の場合も多多あり、一般に一枚のコピーを取るのに 2 日から3日かかる有様であった 269

中国は、過去に日本の軍事的侵略と日本語の強制という歴史を経験した国であ る。建国以降も、中国人の中には日本に対して敵対感情を持っている人も少なく なかった。国交正常化以降、日中両国とも国レベルから民間レベルまで国民の友 好感情を築くことに力を入れるようになった。中国人の中にも日本への親しみを 持つ人が増えている。また、中国で日本語を教える教師の中には戦争への反省の 念を持ち、日中両国の平和友好の実現に献身するという気持ちを持ち、中国へ赴 任した人もいる。それでも、日本人教師は慎重に日中戦争のことや、中国の政治 問題などを扱わざるをえなかった。中国側の教師・学生もできるだけ日本人教師

268 同上、20頁。

269 牧野篤「中国で日本語を教える―派遣日本語教師の教育実践と生活状況―」奨励 研究(A)課題番号:05710160。48頁。