第二章 日中国交正常化以降の中国における日本語教育と日本人教師
第一節 1970 年代~ 90 年代の中国における日本語教育
3.1 第一次日本語ブームの到来(1972 年から)
1972 年の中日国交正常化以来、中日両国の往来と交流の拡大につれて、中国に おいて、日本語に対する需要が高まった。表2-1に示したように、1971年 165から 大学の日本語専攻課程も再び新入生を受け入れ始めた。日本語学科を設置する大 学も多くなり、社会においても日本語を学ぶ者が増えてきた。例えば、1973 年 4 月から上海ラジオ放送局が復旦大学と共同で初級日本語ラジオ講座を開催した時、
教材が 80 万冊も印刷されたが、しばらくすると売り切れになってしまった 166。 一般の学習テキストとしては、北京大学日語教研室編の『日語』があるが、これ も1974年春までに40万部を出版し、さらに再版持ちの状態にあった 167。そのほ か、『現代日本語基礎語法』、『日語漢字読音手冊』、『袖珍日漢辞典』などはすべて 商務印書館から出版されている。中日国交正常化以来、中国では日本語学習ブー ムをもたらされ、「第一次の日本語ブームが到来した」168。
表2-1 70年代に再開された日本語科と新設された日本語科
年度 学校
1970年 北京大学、吉林大学、大連日本語専科学校(のちに、遼寧外語 専科学校と改名した。)
清華大学、広州外国語学院
1971年 洛陽解放軍外国語学院、北京外国語学院 復旦大学、山東大学
1972年 山東師範大学、武漢大学、南開大学、華東師範大学、河北大 学、ハルビン師範大学、遼寧大学、厦门大学
1973 四川大学、北京師範大学、天津外国語学学院、
广西大学
1974 東北師範大学
1975 四川外国語学院
1976 西安外国語学院
出所:伏泉≪新中国日语高等教育历史研究≫上海外国语学院博士论文、2013 年 を参考にし、筆者作成。
165 北京大学、吉林大学、大連日本語専科学校は 1970年から日本語科が再開され、
1971年から再び新入生を受け入れ始めた。
166 王宏「1990年中国日本語教育アンケート調査結果報告」『世界の日本語教育、日本 語教育事情報告編』1号、1994年3月、185~201頁
167 香坂順一『北京大学二年』龍渓書舎、1976年、99頁。
168 佐治圭三「戦後中国の日本語教育」『日本語と日本教育』165号、374~397頁、390 頁。
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日本語学科を開設した専門大学(外国語学校・貿易学院)は北京・上海と北部 沿海部地域に集中している。これに対して、総合大学は中国の産業構造を重視し た配置になっている。この配置の差は、これら 2 種類の大学の人材養成の目的の 違いを表していると考えられる。即ち、専門学校は中央政府への人材供給を主な 目的としているのに対し、総合大学の日本語学科は重化学工業地域であるハルビ ン・長春・武漢・成都、そして広州交易会が開催される広州などに開設され、日 本からの生産技術・資本の導入を見据えた人材養成を行なおうとしていることが 分かる 169。
前に述べたように、当時入学してきた学生は組織から推薦された「労農兵学員」
である。本田弘之は1970年代に日本語学科に入学した学生たちにインタビューを している。その結果、当時は、大学に入学することが大変すばらしいことであり、
大学生になれるなら専攻は何でもよいという感覚が強かった」と指摘している 170。 これらの「労農兵学員」は「二十五、六歳の前途有望な好青年達である。彼らは、
労農兵学生の功罪について身をもって体験してきている。彼らのいうマイナス面 は、何よりも現在の学生のように自由に勉強する時間が少なかったということで ある。そのためか、驚くほど、勉強熱心である」171。
中国では全寮制をとっており、香坂は 1974 年から 76 年まで北京大学に滞在し ていた。次は香坂が書いた当時の日本語科の学生の日課である 172。
午前
6時 起床
6時10分~6時30分 早操(朝の体操)
6時40分~7時20分 朝食
7時30分~11時30分 日本語(四コマ 11時40分~午後2時20分 昼食・午睡 午後
2時30分~5時20分 予習・復習 5時30分~6時20分 体育・運動 6時30分~7 時30分 夕食
8時~9時30分 会議・復習 10時 就寝
169 本田弘之「文化大革命時期の中国の大学における日本語教育と学習法」『国際交流 センター杏林大学日本語教育研究』3号、2009年、65~92頁、68頁。
170 同上、69 頁。
171 西川博史『北京通信――経済学者の観た中国社会の「論理」』日本経済評論社、1982 年、25頁。
172 前掲『北京大学二年』、109頁。
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以上の日課から見れば、当時の学生はハード・スケジュールの下で真剣に勉強 していたことが分かる。
当時は、教科書やテープ教材が満足に得られない環境の中で、学生たちがもっ とも熱心におこなったのが、教科書として配られたプリントの暗唱を繰り返すこ とであった。朝から夜までグランドやキャンパス内の庭園で、外国語の教科書を 暗唱する学生の姿がよく見かけられる。勉強のほかに、「火曜日・木曜日の午後 2 時30分~5 時30分は政治学習、8時~9時30分は会議がないときは予習・復習あ るいは政治討論などに充てる。このほか、年一カ月の労働があり、農村、工場、
学校工場で働く」173。この労働は当時毛沢東が提出した「開門辦学」の指示によ るもので、学生は、教室や大学だけでなく、広く社会に出て、労働兵から再教育 を受けなければならなかったからである。
「開門辦学」について 1974 年から 1976 年まで黒龍江大学日本語学部で働いて いた大石智良・坂本志げ子は次のように述べている。
赴任して 2 年目の冬、1975 年 12 中旬から翌年 1 月下旬にかけて、73 年生が「開門辦学」を行った。場所は大学から南へ歩いて 30分ほどのと ころにある映写機製作工場だ。私たちは 2週間だけではあったが、工場に 泊りこみで参加する機会を得た。
現場での日本語教育には3つのやり方がある。
1.劉さんとの話を通訳してくれた学生の指導
2.仕事中の学生を巡回して日本語で会話。チャンスがあれば、彼らの 仕事上の先生である労働者との話を通訳してもらう。
3.工場の各現場を参観し、説明員の中国語を学生に通訳させて指導。
これは毎日1回、2 人ずつ。
要するに、学生たちは工場を教室として新しいことばを覚え、またこれ までに学んだ日本語を実物と実践の中で総合的に使いこなす練習をする わけだ。テキストは工場に入ってから、先生が必要に応じて編集・ガリ版 印刷した単語表だけ。これ以外は工場の実物がすべて教材と言うわけだ。
きわめて実践的であるといえよう。機械や工具の名称など、それまで知ら なかった日本語を私もそこでずいぶん覚えたものだ。
作業現場での授業を通じて、たちまち一つの事態にぶつかった。学生た ちはなるほど機械や工具などの名称には通じていた。私が入る前の 1週間 に調べ上げ、覚えこんでいたらしい。ところが、いざそれをあやつる動作 の表現となると、なかなかスムースに出て来ないのだ。例えば:スイッチ を「入れる」「切る」、ハンドルを「まわす」という動詞。どれも教室です でにならったことのあるごく基本的単語ばかりなのに。現物と実際を持ち
173 同上、109頁。
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込めぬ教室での授業の限界を露呈したものと言ってよいが、それは外国語 学部にとって「開門辧学」の必要性を逆に映し出している。そう思った私 は、作業する学生のところを巡回しながら、動作の表現に力点を置いて指 導したものだ。言われれば、一度習ったことのあることばだから、たいて いの学生が、アアあれでいいのかとすぐに呑み込む。こんなふうに肉体で 言葉をたしかめなおせるのも、そこに実物があるからだ。
(中略)労働者は、迷惑に思うどころか、日本語の練習をすればするほ ど喜んでくれると感じた。学生同士がうっかり中国語で会話したりすると、
外国語学部の学生がなぜ中国語を使うのか、といってしかるということだ った。わたし自身、初日は作業台で仕事をする時間が多すぎる、それで日 本語が教えられるのか、と他の先生を通じて意見されたほどである 174。
「開門辦学」は学生にとって、生産の現場と接触するチャンスを与え、労働 現場で日本語が使えるようになり、普通の教科書に出てこない単語などを現 場で身につけるようになった。しかし、「開門辦学」の影響で、学生は実際の 授業を受ける時間が短くされ、系統的に語学知識を学ぶ余裕がなくなってき た。教育の効果にも影響が出てきた。
70 年代の外国語教育は前に述べたように、ある程度回復してきたが、文化 大革命の影響が残った時期にあって、外国語教育の原則に基づいた教授法を 採用したり、教材を選定したりすることはまだできなかった。教材の内容は 依然としてイデオロギーを中心に編纂された。「教科書が徹底した中国革命中 心の態度で編集されていることであった。この教科書の内容は、労農兵出身 の学生の大学生活と、社会主義建設等でも三大革命運動の紹介が基準になっ ている」175。大石智良・坂本志げ子は当時の教育目標について次のように書 いている。
学生は次の目標に到達することを求められていた。
一.発音と語調が正確で、すらすらと朗読できること 二.文法概念を理解し、基本文法を自由に運用できること 三.3000内外の単語をマスターすること
四.外国語の新聞雑誌中の時事ニュースと普通の社説を読解し、かつ正し い中国語に訳せること
五.『人民日報』の政治面のニュースと一般報道を大きな誤訳をせずに翻
174 大石智良・坂本志げ子「中国における日本語教育の体験―黒龍江大学日本語学部
74-76年」『中国研究月報』、12~23頁。19頁。
175 同上、13 頁。