第三章 日中関係の新たな展開と異文化交流の現場における日本人教師
第三節 日本人教師が直面する新たな課題
2.1 日本人教師が直面する葛藤
現在日本人教師が現場で直面する葛藤を明らかにするために、筆者は 2017年1 月から6月まで、中国で働いた経験を持っている日本人教師に大体 1時間~2時間 ぐらいのインタビューをした。(インタビューした日本人教師の協力者リストは序 章に掲載)。
インタビューした日本人教師は全員が個人的ルートで中国の大学へ日本語を教 えに来た人たちである。そのうち、三人の若者は日本語教育に関する専門学科を 卒業している。将来にわたって日本語教育に携わりたいという希望を持っており、
自分のキャリアにもなるから、ゼミの先生や先輩の紹介により、中国へ行った。
教育経験は少ないが、教育に関する専門知識を身に付けているといえる。三人の うち、J1 は日本語教師として派遣された父親に連れられ、小学校時代に中国へ行 ったことがあり、中国へ親しみの感情を持っている。J3 は学部の時、交換留学生 として、現在働いている大学で勉強したことがあるが、留学生活は楽しかったと いう。今後、日本に戻っても、中国で日本語を教えた経験は役に立つと思ってい る。J1 は中国で日本語を教えながら、中国の日本語教育について研究し、日本の 大学院の博士課程に在籍していた。J4は日本語教育を副学位として勉強している。
三人の50代の教師は、出身はそれぞれであるが、日本語を海外へ普及することに 貢献しようと思い、個人的ルートを通じて中国へ渡った。彼らにとって海外での 日本語教育は中国に限らず、どの国でも構わなかった。彼らにインタビューした 結果、現場で日本人教師が直面している葛藤が浮き彫りになった。それらは次の 四点にまとめられる。
第一は、教室内で日本文化を構築することと教室外で中国文化に馴染むことと の葛藤である。
海外に駐在して仕事をしている人は、駐在国の文化の一員ではないので、内在 化された自国の文化が駐在国の人々と共有されているわけではない。また、文化 は新たに習得できないわけではないが、成人してから外国で生活することになっ た場合、それを内在化していくには困難なことが多い。海外で日本語教育を行っ ている場合、異文化コミュニケーションは以下の表3-15に示したように、日本人 教師は二重の文化空間を往復しなければならない。教室以外のマクロ文化空間に
147
おいては、中国文化に慣れることが必要である。他方、教室内のミクロ文化空間 においては、日本文化の環境を作るよう工夫しなければならない。
表3-15 文化空間としての海外での日本語教育の現場
日本国内日本語教育現場 ミクロ文化空間教育内 マクロ文化空間社会環境 日本語学習にとって 変化する 変わらない
日本人日本語教師にとって 変わらない 変化する
出所:J・ビダシ「日本語教育現場における異文化コミュニケーション」遠藤織枝
『日本語教育を学ぶ(第二版)』三修社、2011年、51頁。
日本人教師一人の力で、20 人ぐらいの中国人の学習者を日本文化の空間に居さ せておくのは容易ではない。
日本語を教えるだけでなく、日本文化を伝えたいっていわれたのですが、
日本文化はいったいなんのことですかとはっきり言えないのです。相撲や 着物は日本文化ですが、実際日常生活と少し離れて、ほんとうの日本文化 はやはり日常生活の付き合いだと思います。一人の日本人教師として、ど のようにそういう付き合いを学生に伝えるのかはむずかしいと思います。
(J2)
授業中に、ちゃんとあいさつすることなど日本のやり方を厳しく要求し ます。ある三年生の男子学生に挨拶をしたが、あの子は何も返事してくれ なかった。怒ります。(J5)
海外赴任の外国人として、なるべく早めに中国のことに慣れれば、より住みや すくなる。他方で、日本人教師は教室の中で、学習者と接するとき、日本文化の 環境を作るよう意識しなければならない。
日本人としてはいろいろ中国で体験したいが、それを少し抑えています。
中国のことに慣れると、ちょっと中国人っぽくなります。中国人の学習者 と接触するとき、日本人であることを忘れないように、日本人らしいほう がいいです。日本人という意識を持ったほうがいいと思います。(J3)
中国語の能力についてもそうである。中国側は日本人教師を募集する時、中国 語の能力ついてほとんど要求していない。その理由は、「中国語は全然必要がない、
できない方がいい。できると学生と中国語で話しますから」(J2)と言われた。これ は、日本人教師の日常生活にとって、不便をもたらすことが往々にしてある。「中 国語ができないと、不安です。買物とか病院へ行くとき、だれかに連れていって もらわなければならない」(J5)。日本人教師と通常接触する人はほとんど日本語
148
ができる中国人であるが、中国語を学ぶことが遅いから、J4 は「もっと中国に入 り込んで生活したいので、中国語を勉強しなければならない。それから上海で 4 カ月、中国語コースに通っていた」。
第二は、日本人に対するステレオタイプな先入観である。
日本人はほかの外国人と違い、中国では特に「日本人である」と意識させられ る。とりわけ、南京のような戦争中に、大虐殺が行われたところではそうある。「日 本人であること」は、日本の戦争責任や戦後処理問題と深く関わっており、中国 に駐在している日本人は、過去の戦争の歴史への認識を問われることがある。日 本語教室では、中国人学習者や中国人教師は戦争についての話題をできるだけ控 えるようにする。インタビューした日本人教師は教室内ではそういう問題に会わ ないが、しかし、生活においては日中関係が影響を与え、日本人教師は個人とし てではなく、日本という国籍を持った者として捉えられている。
ある日、ちょっと買い物に朝市に行ってきた。中国語はあまり上手じゃ ない、なまりがあるから、向こうのおばあさんからあんたは何人だと聞か れました。日本人ですと返事したとたんに、このおばあさんは大きな声で 回りの人に「ほら、彼女は日本人ですよ」と叫んでいた。(J4)
私と日本人の留学生一人と日本語ができるアメリカ人とがタクシーに 乗った時、1912(南京の有名な商店街)へ行きたかったのですが、二つの 行き方があります。一つは大行宮で、一つは百家湖(江寧区に所属)です。
私たちは江寧の方から乗って大行宮の 1912へ行きたかったのですが。運 転手は百家湖の 1912だと思ったのです。行く途中で、私たちは全部日本 語で話していたのです。百家湖の 1912に着いてから、「すみません、大行 宮です」。「降りろ、降りろ」と言われ、お前たちは載せたくないという感 じでした、日本人が好きではないなと思いました。(J4)
普通の庶民は率直で毎回聞かれます。本当に嫌なのが「お前はどこの国 から来たの」「日本です」。ちょっと警戒される気がします。それはよく聞 かれます。一般の庶民は誰とでもというわけではないが、遠慮なく直接に 話しかけてきて、こわいという感じがあります。(J6)
日中関係の不安な状態は、以上のような現場で働いている日本人教師にとって あまり直接的な影響を与えなかった一方、教師の周りの家族・親友には不安を感 じさせた。このことは、日本人教師が仕事に集中する上で、マイナスの影響を与 えた。
2012年の反日デモはひどかった。わたしはあまり心配していなかった。
149
なんとかなると感じていました。周りは「本当に大丈夫」「気を付けて」
などと心配していました。また、大気汚染については、母は大量のマスク を用意してくれました。帰国後の今でもよく「中国の天気は大丈夫」と聞 かれます。「両親や友達は一度も中国へ行ったことがありません。やっぱ り中国のことが気にかかります。」(J3)
第三は、自分の役割と学校側の期待とのギャップである。
平畑奈美の調査によると、東アジアにおいては日本語教師総数に占める母語話 者の比率は16.6%と最も低い 349。この地域は、既に現地の教育課程に日本語が組 み込まれ、現地の教師による主体的な運営がなされているところに特徴がある。
インタビューした日本人教師の話によると、日本人教師が中国の日本語科の運 営について完全に理解することは不可能であるし、組織の一員として果たすべき 役割について、不十分な情報しか与えられていない。「報・連・相」に慣れている 日本人教師にとって、心理的に不安な状態に陥りやすく、人によっては理解する のに時間がかかることもある。インタビューした日本人教師は担当する授業を全 部中国人上司から配分されており、日本人教師には主体性がないことが分かった。
中国人教師とのネットワークも弱くなっている。
中国人教師の会議があるみたいですが、全部中国語で、私たちは参加し ないし、参加もできない。もし、学生には何か問題があれば、担任の先生 と相談することがあります。しかし、中国人教師の方から学生や授業につ いて「どうですか」とはぜんぜん聞かれません。こんなものかなあ、中国 のやり方なのかなあという感じがあります。授業の担当について相談のな いまま、基本的に「来学期はこの授業、この授業をお願いします」という 具合です。(J4)
日本語科の授業の全体が見えていないですね。私たちは自分が担当する 科目しか見ていません。ほかの中国人先生がどんな内容の授業をやってい るのか分かりません。ほかの授業を見学することもないですね。(J4) 第四は、経済面についての葛藤である。
日本人教師の平均月給は 5560 元ぐらいであり 350、一年に 1 回の帰国往復券を
349 前掲『「ネイティブ」とよばれる日本語教師―海外で教える母語話者日本語教 師の資質を問う』、128頁。
350 南京での4人教師の2015年度の月給によって計算する。日本円と換算すると、大 体9万3000円ぐらいである。